落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>わたしたちはその栄光を見た

2007-12-23 21:48:47 | 講釈
2007年 降誕後第1主日 2007.12.30
<講釈> わたしたちはその栄光を見た  ヨハネ1:1-18

<お断り>
今回は、わたしの<講釈>に代えて、恩師松村克己の「ヨハネ福音書註解」の本日のテキストの部分の「再話」をお送りします。今回は字数制限にかかっていますので、省略いたしますので、この書、および「再話」の意味については後日説明いたします。

第1章

この章は、18節までの「序詞(プロローグ)」と、それに続く「キリストの証し」との二つの部分に大別される。序詞は、いわゆる、ロゴス・キリスト論として有名な部分であるが、これは、いわば導入部であって、文字通りの序詞である。神の子の受肉、独り子の恩恵と栄光の真理が光として生命として経験されるという主題はすでに響いているが、まだ十分ではない。後半は、2章11節まで続く部分であるが、前半・後半とも、それぞれさらに三つの部分から組立てられている。

Ⅰ.序詞(1~18)

神と共にあるロゴス(1~5)

(1)初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(2)この言は、初めに神と共にあった。(3)万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
(4)言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(5)光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

ここで「言」と訳されている原語は、ロゴスである。この言葉は日本語訳聖書においてもいろいろに翻訳されてきたが、現在ではロゴスという原語のままで十分に親しまれている。キリストをロゴスと呼ぶことはこのヨハネ福音書の冒頭の序詞から一般的となったのであるが、この概念を初めてキリスト教会に導入したのは必ずしも本書の著者ではない。当時アレキサンドリアを中心とするユダヤ教の伝統的宗教思想とギリシャの哲学思想とを結びつけようとして見出された便利な概念であって、むしろ著者は当時すでに人々の耳に慣れていたこの概念を用いて、キリストを世界に向かって紹介し、弁証しょうと試みたのである。
何の説明もなしに、いきなりこの概念を冒頭に用いていることは、それが当時の人々に広く理解されていたことを物語っている。わたしたちは歴史的状況を異にする日本において、ヨハネが説明のために用いた概念をさらに説明しなくてはならないわけであるが本末を顛倒してはならない。哲学史・思想史の問題としてロゴス概念を明確にすることがわたしたちの目的ではない。著者がこの概念を用いてキリストをどう理解し、何を人々に訴えようとしたのかということを問うべきである。
後期ユダヤ教においては、神の超越性が強く意識され、主張されて、その親近感が希薄になっており、神と世界あるいは人間との関係はこれを媒介する「第三のもの」によって説明される必要になっていた。神の霊(=息)とか、神の栄光、あるいは神の権威、神の知恵、などがそういう中間的な媒介の働きをするものと考えられ、さらにそれらが発展し、次第に具体化されて人格的な独立存在、天的存在と見られるようになっていた。そのような状況の下で、ギリシャ思想と出会い、それらの概念はギリシャ思想における存在の原理、統一の原理としての理(ロゴス)と同視されるようになった。この思弁の過程は、前述したようにアレキサンドリアを中心とするユダヤ人の間において、展開されたものである。たとえば、フィローはユダヤ教における知恵の概念をロゴスという名で呼んだ。
ギリシャ思想における「理(ロゴス)」の概念はヘラクレイトスに始まりプラトンのイデア説を経てストアの世界理性、世界法の概念にまで発展して来たものである。
なおフィローにおけるロゴス概念の源流を探るならば、以上のようなユダヤ教とギリシャ哲学との二つの系譜の外に当時の人々の間に半ば常識となっていた東方密儀宗教の中に生きていた敬虔など、諸民族宗教の要素にも注意を向ける必要がある。「原人」とか「天人」とかいう思想や、聖なる言葉という語は、これらのうちにあって親しまれていたものである。
思想というものは、これを単なる概念内容とか骨格として取り上げるだけならば、場所とか時代とが異なっていてもよく似たもの、類似のものを見つけ出すことは難しくない。その場合に、必ずしもどちらがどちらに影響したものであるのかということを実証的に確かめることは困難な場合もある。人間の考えることはどこでもそう違ったものでないのは人間の考え方の構造に根差すものという他はないであろう。問題は思想相互の間の概念的類似や相違ではなくして、それがどのような肉体を持ち表情を示すか、思想が生活感情の中で生かされる生命とその性格とにある。ヨハネ福音書の著者が取り上げたロゴス思想もまたこの中心的観点に立ってとらえられなくてはならない。ヨハネの明確な信仰が、深い理解と広い展望と豊かな共感のうちに詩的表現をとったものがこの序詞である。17世紀イギリスにおける形而上的詩や、今日の象徴詩の先駆をわたしたちはここに見ることが出来る。
ここで、重要なことは、わたしたち自身が著者の言葉に呼びかけられて、何を感じるのかということであり、それがわたしたちの信仰に何をもたらすのか、ということである。

著者は、冒頭で「初めに言があった」と宣言する。人間の世界は言葉なしには成立たない。言葉において人間は真に人間となる。その言葉には、「存在としての言葉(語られた言葉)」と、「働きとしての言葉(語りにおける言葉」)との両面がある。しかも、これら二つの面を一つに統合したところに、言葉そのものの生きた具体性がある。ルターが注意しているように、神をそれ自身として、人間との関わりを離れて問うことはキリスト教(厳密にいえば福音)的な態度ではない。わたしたちに対する神、神はわたしたちにとって何であり、いかに働き給うかが最初にして根本的な問題とならねばならない。
ところで、言葉が人間とその世界とを根本的に包む根源的な問いとなるならば、種々な人間の様々な言語を超えて、これを包む根源的な唯一の言葉ともいうべきものが考えられ、そこで人間そのものの存在と運命とが問われなくてはならない。この(定冠詞を持つ)唯一の「言」と人間の諸々の言語との関係こそ、唯一の神と諸々の人間との関係を映し示している筈である。これを図示すれば
   唯一の「言」:諸々の言葉=神:人間
という比例式となる。比例式の中項は、互いに交換出来るので、右の式は
   唯一の「言」:神=諸々の言葉:人間
と書き換えることが出来る。

「初に」という冒頭の言葉だけでなく、この序詞の全体を貫いて、これを語る著者の心の背景には創世記冒頭の天地創造物語があることはほとんど疑う余地がない。「初に」は単に時間的始めではなく、根源を意味している。創造の神は世界の存在に先立つと考えられるが故に永遠者と呼ばれる。神が根源的存在であり永遠者であるならば、「言」もまたそう考えられてよい。そして人間の言語が人間の意志を示し、力と働きとを示す意味を持つように、言葉は端的に人そのものに他ならない。また、「言」は神の意志であり意味であり力また働きであるのみならず神そのものでさえある。従って、「言は神であった」という言葉が続く。人間の言葉が人間から出て、それを語る人間と区別されつつしかもそれから引き離されず、その人間そのものに他ならないという関係、区別における同一が神とその言についてもまた語られる。それが「共に」の意味である。この語は「対して」とも訳される。区別されつつ分離しない、一定の緊張関係において一つの場を形成する。こういう在り方を人格的関係または愛の共同と呼ぶ。だとすると、言葉はこのような関係を生み出し支える原理である。そしてすべてのものは人格関係を成立たせる内実としてのみ意味を持つと考えられる。だからこそ、「言」は神の創造の媒介また担い手となる。「この言は、初めに神と共にあった」と、もう一度確言された根源的存在としての「言」はかくて同時に存在の根源・根拠ななる。人間関係における共同(愛)の原理、すなわち人格の原理は同時にあらゆる存在の原理でもある。「万物は言によって成った」の「成った」とは、成立している、支えられているの意味である。万物の存在意義は人格的共同の媒介であるということに尽きる。従って、「成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」という言葉がつけ加えられる。
そして、4節の言葉は、その共同の原理が同時に存在の原理として把えられる場所を示す。それが「生命の世界」であり、「生命の経験」である、と直感される。この直観において「言の内に命があった」という言葉が発言され、また「命は人間を照らす光であった」という生命の根源という理解へと導かれる。
この生命は、人間の経験においては「光」の経験として把えられる、ということは注目すべき経験である。光は生命の顕現であって、人は生命を与えられることによって、心の内面を照らす光が与えられ、「内なる光」を見ることができるようになる。人はそれによって神の働き・恵み・力を認めることが出来る。それは先ず外からわたしたちを照らしわたしたちに呼びかけ、いわばわたしたちを光の中に包んで、わたひたちの中の眼を開くからである。この生命の経験は自らの暗黒を光によって照らし出されて、自らを光のうちに明け放って、これを受け入れた者、つまり信仰者だけが経験することである。
さて、5節の「光は暗闇の中で輝いている」という言葉は光というものの特性を語る。光とは、暗黒を照らすことによって光である。暗黒と光とは相関概念であって暗黒は光の働く固有の場所である。しかし心の暗黒とは物理的関係とは異なる世界に属している。心の世界は人格的世界である。従ってここでいう光とは物理的な力ではなく、それ自身人格的な力を持たねばならない。そのために自らを個別化して肉体をとり身体を持たなくてはならない。身体によって覆い隠された光は開眼された眼だけにしか見えないし、開かれた心だけを照らす。暗黒の世に来た光はかくして世に隠れて知られない。「暗闇は光を理解しなかった」。
ここに人間の歴史があり、悲劇がある。光と暗黒との対立・相剋の場が人間の歴史であり、歴史は運命の悲劇を免れない。イエスはここで拒否され、悲劇的な運命の十字架に上がった。しかし暗い運命は、神の光に照らし出されて救いの摂理となる。それは本書の終結、復活のメッセージであるが序詞はそのことを黙して語らない。「暗闇は光を理解しなかった」は、「暗黒はこれに打ち勝つ(追い付く)ことが出来なかった」とも読める。暗黒は光を認めることが出来ず、これを無視しょうとしても光は暗黒の力に阻まれることはなくこれを貫いて輝く。
「言」は、生命の原理であり人の間に光として働く。人は光に対してどういう態度をとるかということによって、生命に与ることができるか、否かの決定がなされる。光を認めるということは必ずしも信じるということとは同じではない。信じるとは光を受けてこれを自らの中に保つことであり、自らを光の中に保つこと、光に歩むことに他ならない(1ヨハネ1:7)。このようにしてのみ、信仰者は真理を知るだけではなく、真理において考え、欲し、動き、愛し、生きる。真理は恩恵と一つのものとなる(ヨハネ1:14)。
永遠の神の子をロゴスとして、言い換えると人の子イエスの姿において、ロゴスの受肉を見ようとする著者は、徐々にロゴスの先在を受肉へと方向づけて来た。4節の改まった言い方が既に受肉のロゴス・イエスを心に描いていることを感じさせる。筆は一転して、この受肉のロゴスを証する先駆者ヨハネの出現を物語ろうとする。

世に来た言(6~13)
                               
(6)神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
(7)彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
(8)彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
(9)その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
(10)言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
(11)言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
(12)しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
(13)この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。


6節~7節、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」。マルコ福音書が洗礼者ヨハネの出現をもって「福音の発端」としているように、この福音書の著者もまた彼について語ることを必要欠くべからざることと考える(19節以下)。真理はそれ自身によって立ち、人々のうちに直証性をもって迫り、自らを証するとしても、そこに到るまでには、常に外からの呼びかけ(「声」マルコ1:3)という形での証人を持っている。「彼は証しをするために来た」、その証言によって人はその指し示すものへと顔を向ける。「光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるため」の証人である。証は人々の注意を喚起するだけではなく、さらに進んでその当のものを人々が信じることを求めている。
歴史の世界においては、どんなことであってもあらかじめ準備されることなしには起こらない。旧約聖書における神の言葉や預言の言葉全体は、この人において凝結し、時は満ちた。ヨハネが「預言者のうち最大なる者」(マタイ11:11、13)であるとするイエスの評価の根拠はここにある。彼が預言者のさいごとなり、後は、イエスと使徒たちと福音書記者とに場所を譲る。しかし、使徒の証言を理解し、それが指し示すものを正しく見るためには、預言者の証しは欠かせない。聖書が新約聖書だけでなく旧約聖書と共に正典とされ、イエス・キリストの福音が常に洗礼者ヨハネの活動と言葉とによって語り初められることの意義を見逃してはならない。この道を外してわたしたちはイエスを神の子キリストと本当に信じること、従って生命の道に入ることは出来ない(20:31参照)。
8節、証人というものは何らかの程度において、それが指し示すものの力と栄光とを身に帯びている。従って、証しする者と証しされる者とは人々によって見誤られることがしばしば起こり得る。証人とその証言にのみ注目しこれに固執する者は真のものが来たとき、それに気づかないで、かえってこれを拒否する場合さえある。ここに人間の有限性と罪性とがからみ合い、歴史の悲劇が生まれる。これは過去のことには限らない。今日でも伝道者の偉大な人格と活動とが神とキリストとの前面に立ち塞がって、人々を真にキリストとの生ける交わり(信仰)に至らせない場合がある。従って、「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」という8節の言葉は、くどすぎる感じがしないではないが、決して無駄の言葉ではない。
9節、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。ここで言う、「まことの光」とは、証人のように外から照らすのではなく、内から照らす光である。外からの証言と証人の働きが華々しければ華々しいほど、内から照らす光は人々に気付かれない場合が多い。そこで、さらに追い打ちするように10節の言葉が発せられる。彼は世に来て、すでに「世にあり」、世に留まり、世の中を歩みつつある。しかも「世そのもの」は「彼によって成った」ものであるのに、「世は彼を認めなかった」。世界を支え、世界の根源であるものが世界に登場した姿は「微行者(身分・本名を匿して生きる者)」のようであった。11節でキリストに対するこの世の人びとの反応が描かれている。「 彼は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。彼の国はこの世の国ではない(ヨハネ18:36)ので、その支配は外的ではなく内的である。従って、外貌と虚栄に生きる世とその人々は彼に気付かず、彼を証する人々に耳を貸さないということも別段に不思議な事柄ではない。
<注:微行〔びこう)とは身分の高い人がこっそりと外出・他行することを意味する。いわゆる「おしのび」である。赤磐栄はその著「微行者イエス」〔昭和12年5月発行)において、この言葉はバルトの初期の著作にしばしばInkognitoという語から、この表題の暗示を与えられたとする。バルトはこの言葉をイエスに適用することをキエルケゴールから学んだものと思う、と説明している。>
この世の人びとの無関心と否定的な態度に対して、12節で「しかし」と言葉を継ぎ、彼を「受け入れた人」、すなわち証人の言葉に耳を傾け、そこで指し示されているものへ近づき、向かい合い、彼を信じ、彼と共に歩こうとした人びとには、「神の子となる資格を与えた」と言う。もちろん「資格」は資格だけでは終わらない。13節において、資格に伴う恵みが語られる。それは神ご自身が与えてくださる恵みであって、人間的・個人的な願望や努力、血縁関係などに基づく特権ではない。すべての自然(=肉)を越えて、しかも自然の中に働く霊による新生(ヨハネ3:3、5)の経験である。

弟子たちが見た言 (14~18)

(14)言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
(15)ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
(16)わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
(17)律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
(18)いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

神と共にあった言(2節)は、肉体をとり、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(ピリピ2:7,8)。神である言(1節)は、今やわたしたち人間の間に宿られた。「宿る」とは天幕を張るの意味で、イエスの地上の生は永遠のロゴスにとっては短い挿話に過ぎない。しかもこれを信じる者には間違いなく独り子の神の栄光を明瞭にそこに仰ぐことが出来る。かつて、荒れ野を旅するイスラエルの先祖たちが契約の箱の宿る天幕に神の栄光の留まり輝くのを見ることが出来たように。しかし受肉のロゴスの栄光は輝く雲の類ではなくして、見えない天の父と、独り子との間の交わりが彼を信じる者と彼との間の交わりとして実現され与えられる生命の経験である。「恵みと真理とに満ちていた」「父の独り子としての栄光」である。「父の独子」とは「父と共にある独り子」の意味であることはいうまでもない。「栄光」とは、神の力と恵みとを意味し、「栄光を見る」とは、生命と光と真理に輝く恩恵の経験である。「見る」は、ヨハネ福音書特有の響きを持つ語であって「経験する」と同意語である(ヨハネ3:3、1ヨハネ1:1)。「真理」というのは、この経験において神が真に知られるからである。神より出で神と結合している認識、それは御子との交わり(信仰)においてのみ知られる(1ヨハネ1:3,2:23)。
15節は、註のよなものであって、14節は16節へと続く。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」と。
このキリスト経験は、「満ちあふれる豊かさ(プレローマ)」の経験であって、彼との交わりは信じる者のうちに「泉」(ヨハネ4:14)となり、「永遠に至る水」が湧き出る。この恵の流れは人間に豊かさを与え、世界を潤す。信仰とは、キリストにある動的人格的な交わりの関係であって、それは恵より恵へ、信仰より信仰へ(ロマ1:17)、知識より知識へ、愛より愛へと展開する。交わりとは相互的な関係であって、そこでは恵はただ受けるだけではない。受けた恵に応える奉仕に対してさらに恵は加えられる。愛もまたひたむきな一方向の愛ではなくして、愛せられて愛し、愛して愛せられることを知る愛であり、知識もまた知られて知る知であり、かくしていよいよ深く相手を知る知識に他ならない。「愛=共同」というのはそのような創造の原理である。それが今、キリスト・イエスにおいて生きた真理として示されたのだと著者は言う。「憐れみ深く恵に富む神」(出エジブト34:6)は、今や受肉した御子によって示され、わたしたちはその栄光を仰ぐことが出来る。旧約における神は未だ覆面の下に隠された神であった。旧約聖書における神の言は律法に結晶している。律法は神の意志を告げ救いへの約束を与えはするが、わたしたちの間にその実現の保証も事実をも与えない。モーセに、神が語られたことは、今やイエス・キリストにおいて事実となる。神の恵みと真理とは真理として証された。それが「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(1:17)の意味である。
「いまだかつて、神を見た者はいない」(18節)。見ることが禁止されていた神は、永遠よりその「ふところ」に共にいた独り子によって、しかも受肉の彼によって、わたしたちが見たり触れたりすることができる方として示された。
「わたしたちは皆」(16節)と語り始めた著者は、使徒の証言を力強くこのような言葉で閉じている。それは洗礼者ヨハネによって証されたキリストの永遠性は──「わたしより先におられた」(15節)──と呼応する。ヨハネは旧約聖書の預言に従って、メシアを「わたしより後に来られる」という言葉で語ってきたが、そこに洗礼者ヨハネの中心的なメッセージがあるのではなく、人の子としてやがて歴史に登場するお方の永遠性を強く指示するところに遣わされた者としてのヨハネの使命があった。
ヨハネ福音書が「証言」ということに重要な啓示的意義を与えていることは注目すべき点の一つであると思われる。著者はマタイ福音書やルカ福音書を知らなかったとは考えられない。むしろ15節に見られるように洗礼者ヨハネの言葉は、マタイ3:11を指すものであって、著者は読者が共観福音書を知っていることを前提として語っているように見える。にもかかわらず、そして著者の根本テーマが、ナザレのイエス、人の子の姿に永遠なる神の独り子の受肉を証言するにあるにもかかわらず、処女降誕に言及していないことは偶然ではない。この沈黙は強い積極的な意味をもっていないであろうか。つまり、処女降誕は人の子イエスを神の子と信じさせる根拠ではないこと、このことを他にしてなお十分にイエスを神の子キリストと信じさせる証しが成り立つこと、否、むしろ徴を見ないで信じる信仰こそまことの信仰であることを主張しようとしているのではないだろうか。ヨハネ福音書の沈黙はパウロや他の使徒の書においても、それへの言及がないことと相まって、処女降誕の信仰が福音の本来性に根ざすものではなく、使徒の使信に付加された二次的、人為的信条であることを示しているように思われる。

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