落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

降誕後第1主日説教 わたしたちはその栄光を見た

2007-12-26 21:29:40 | 説教
2007年 降誕後第1主日 2007.12.30
わたしたちはその栄光を見た  ヨハネ1:1-18

1. 「見た」
ヨハネ福音書全体において、「見る」ということは、特に注目すべきキイワードである。いくつか、重要な場面を拾い上げると、たとえば、洗礼者ヨハネがイエスをメシアと認めた証拠として、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(1:32)と言う。また、最初の弟子たちが行った宣教の最初の言葉は、「来て、見なさい」(1:46)であった。ナタナエルの弟子入りの際にイエス自身の言葉として、弟子になったら経験することとして、「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(1:51)と語られた。また、ニコデモとの会話の中でイエスは「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」(3:11)という言葉を残している。また、パンの奇跡においては、「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った」(6:14)とされる。その他、数え出すと切りがない。
要するに、ヨハネ福音書のメッセージは、14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」に凝縮される。
2. 「見る」という経験
ここからが問題である。見る眼が肉眼である以上、見えるのはあくまでも目の前の現象である。ところが、ここで「見た」とされる「神のロゴス」とか「永遠の光」は肉眼の対象になり得ない。ここが、重要なポイントで、弟子たちは肉眼で肉体であるイエスを見ることを通して、肉眼で見えないものを「見た」。もし、「神のロゴス」が肉体をとってこの世に現れなければ、わたしたちは永遠に「神のロゴス」を見ることができなかったであろう。
洗礼者ヨハネは、洗礼を受けているイエスを見て、「わたしは、『霊』が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(1:32)、と証言をしている。その時、イエスの姿はその場にいた人ならば誰でも見えたに違いない。ところが、ヨハネだけが、人びとに見えない出来事を見ていた。なぜ、そういうことが起こるのか。
3. 「見る」を成り立たせる証言
さて、わたしたちが日常経験する「見る」という行為は、「見る者」と「見られるもの」との関係である。「見る者」は見ているものについてのある程度の理解(前理解)がなくては、「見る」という行為すら成立しないし、見ていても、すぐ忘れてしまうし、見たという経験として残らない。ただ、ボーッと眺めていたにすぎない。それは決して「見る」という行為ではない。その場にいたすべての人に見えなかったのに、なぜ、洗礼者ヨハネには見えたのか。ここに一つの重要な秘密がある。ヨハネがそれをどこから得たのか分からないが、ともかくヨハネには一つの強烈な「予感(前理解)」があった。それを示している言葉が1:33である。「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」。ヨハネは、そしてヨハネだけがあらかじめこの言葉を聞いていた。従って、洗礼を受けに来ている人びとに対する見方が違っていた。だからこそ、誰も気が付かないことにも気付く。そして、ヨハネは言う。「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1:34)。その「予感」通り、ヨハネは「見た」。だから証人になった。見た人が証人になる。ヨハネの証言を聞いて、信じた人びとは、イエスにおいて「神のロゴス」を見た。ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネを「証しをするために来た」(1:6)人とする。ここがほかの福音書と異なる点である。ヨハネ福音書においては、信仰に至る道において、この「証言(=前理解)」ということが決定的な意味を持つものとして語られている。
4. 「見ないで信じる」
「見る」ということと「信じる」ということとの関係において、証言(=前理解)のもつ意味は重要である。そのことを端的に示しているエピソードが、ヨハネ福音書の最後に記録されている。例の疑い深いトマスのエピソードである。ストーリーは省略するとして、ここで注目すべき言葉は「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」である。この言葉が「わたしたちは見た」(1:14)という言葉で始まったヨハネ福音書の結論であり、最後の締めくくり言葉であり、後代の人びとへの重要なメッセージである。
わたしたちはイエスにおいて「神のロゴス」を見た。それを同じ著者と見られるヨハネは第1の手紙1:1で次のように語っている。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものをを伝えます。すなわち生命の言葉について。この命は現れました。御父と共にあったこのこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなた方に証しし、伝えるのです」。要するに、わたしたちは「見た」から、その証人になる。
その意味では、復活のイエスが始めて現れたときに、そこに居なかったトマスの物語は、肉体を持ったイエスを見ることができないわたしたちを象徴する。トマス以外の10人の弟子たちは「イエスを見た」。だから、その時不在であったトマスにわたしたちはイエスを「見た」と証言した。しかし、トマスはその証言を信じず、イエスの復活も信じなかった。見ていないのだから信じることができなかった。しかし、主イエスが2度目に現れたとき、トマスは「イエスを見た」。だから、信じ、「わたしの主、わたしの神よ」と告白した。そこで、イエスの言葉である。「見ないで信じるものは幸いである」。言い換えると、弟子たちの証言だけを聞いて信じるものは、トマス以上に幸いであるとイエスは語っている。
使徒時代以後、イエスの姿を見た者はいない。それは、当然である。イエスの肉体がない以上、肉眼ではイエスを見ることはできない。しかし、わたしたちには教会を通して伝えられた使徒たちの証言がある。その証言を通してわたしたちは主イエスを神の御子、永遠の光、生命の言葉として信じ、仰ぎ見ることができる。

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