落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

降誕後第1主日

2004-12-24 08:05:28 | 説教
2004年 降誕後第1主日 (2004.12.26) 
輝く冠  イザヤ61:10-62:3
1. 神にとって「わたし」とは何か
わたしにとって主イエスとは何か、という質問に対して、主イエスとは「インマヌエル(共におられる神)」である、と答えることができる。(降臨節第4主日説教参照)同じように、わたしにとって「神とは何か」ということについて、人間は考えることができる。たとえば、わたしの創造主であるとか、もう少し哲学的に言うと「絶対者」だとか、「存在の根拠(グランド オブ ビーイング)」とか、いろいろな表現の仕方がある。
しかし、神にとって「わたしとは何か(どういう存在)」ということについては、わたしたちは考えることも、想像することもできない。それは、いわば当然のことである。たとえ何か、そのことについて語ったとしても、それはあまり意味がない。
2. 「わたし」
本日のテキストの前半(61:10-61:1)では、神が「わたし」に対してなされたことが語られている。神はわたしを花婿か、花嫁のように着飾ってくださる、と言う。まるで、わたしは神にとって「恋人」のようである。ただし、ここでは「花婿のように」「花嫁のように」と並べられているので、わたしは「男」なのか「女」なのかハッキリしないが、要するに、神はわたしを美しく、あるいは可愛く「飾り付け」くださる。そして、、わたしは神が飾ってくださることを「喜ぶ」と言う。まるで恋人同士のような情景が歌われている。これはいわば「わたし」自身の経験がイメージ化されたものである。
このイメージを神の側の方に転化することによって、神にとって「わたしとは何か」というイメージが出てくる。62:2以下では「わたし」という第1人称が「あなた」という第2人称に置き換えられているが、「わたし」のことである。神がわたしに対して「あなた」と呼びかけ、「わたし」が神にとってどういう者であるのか、ということが歌われている。結論を先に言うと、「わたし」は神にとって「輝かしい冠」であり、「王冠」である。言葉を換えると宝物である。おばあちゃんが孫に向かって「わたしの宝」というのと同じである。おばあちゃんと孫との関係ならば、耳がタコになるほど「聞くこと」も「語ること」もできるだろうが、これが神とわたしたちとの関係、特に神にとってわたしとは何か、ということになると、単純ではない。いくら預言者イザヤの言葉だからといって、単純に信じてしまうわけには行かない。そこには「思い上がり」や、「思い違い」や、「うぬぼれ」があるかも知れない。第3者から、あの人はあなたのことを「宝」だと言っていますよ、と言われても、簡単に信じてしまったら、危ない。
3.神の言葉
ここから先は、一人一人の信仰の問題である。理屈ではないし、当然のことでもない。まさに、あなた自身が神からのメッセージとして受けとめる愛の問題である。それは恋愛に似ている。他人がそこに介入することはできない。牧師といえども口出しできない。神から「あなたはわたしの宝である」と告白される。ここに面白い表現がある。「主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれるであろう」(63:2後半)。これはまさに恋愛関係にある二人の間で交わされる特別な「呼び名」である。ここには秘密の甘さがある。それは二人だけが通じ合う特別な名前である。それが「あなたはわたしの輝く冠」という神のメッセージである。

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