落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

降誕後第2主日説教 叫べ

2004-12-29 10:26:53 | 説教
2005年 降誕後第2主日 (2005.1.2) 
叫べ  エレミヤ31:7-14
1. チョー気持ちいい
昨年度の流行語大賞にアテネオリンピックの平泳ぎで2冠に輝いた北島康介選手の「チョー気持ちいい」という言葉が選ばれた。わたしもあの場面を見ていたが、北島選手の率直な喜びがこちらにも伝わり、非常に好感を持った。日本人が国際舞台で、とくに勝負事において、こんなに率直に喜びを表現したことは珍しい。そういえば、4年前のシドニーオリンピックの時、400メートル個人メドレーで銀メタルであった田島寧子(やすこ)選手が「めっちゃ悔しい」という名言を残している。この時もやはりあまり不快感はなかった。
日本の国技と言われている相撲などで勝った力士が露骨に喜びを表すことは、負けた相手への配慮も考えて、慎むというムードがある。外国出身の力士が勝負に勝ったときに露骨に喜びを表現すると、やはり違和感を禁じ得ない。こういうところに日本人の感情表現の奥ゆかしさがあると思う。その伝統も大切にしなければならないと思うが、本当にうれしいときに「うれしい」と叫び、悲しいときに大声で泣く、悔しいときに「めっちゃ悔しい」と叫ぶことも重要である。特に、厳しい練習を重ねた結果の喜び、悔しさを大声で叫ぶことは、聞いている人々に決して不快感を与えるものではない。
2. 喜びの叫び
預言者エレミヤは、外国に抑留されていた人々、そして今、解放され、祖国に帰還する人々に向かって「喜び、叫べ」と語る。神がわたしたちを解放してくださった。誰にも遠慮することなく大きな声で喜びの声を上げよ。
わたしは、終戦の時、昭和20年8月15日から約1年間、北朝鮮の平壌(ピョンヤン)において避難民として収容所生活をした。その頃、わたしたちは「避難民」と言っていたが、実際はソ連軍と北朝鮮による「抑留」ということで、事実、働ける成人男子はほとんどシベリアに送られた。
今から当時のことを振り返ってみると、終戦当時満州に残っていた日本人は約155万人と言われており、その内104万人が終戦直後に帰国したということである。残りの51万人の内約半分が死亡したとされている。従って、朝鮮半島ないしは旧満州に残された日本人たちは約25万人いたと言われているが、その中にわたしも含まれていたことになる。当時は、まさにアメリカとソ連との冷戦関係の始まりで、残留日本人25万人は国際的駆け引きの材料とされたように思う。今で言うならば、それは集団的拉致であった。残されたのは子持ちの女性たちばかりで、それでも大人たちは毎日のように強制労働をさせられていた。当時、わたしは10歳になったばかりで、事情はよく分からなかったが、この収容所には当初約3000人の日本人が収容されていたように思う。食事らしいものはほとんど与えられず、「骨皮筋右衛門」というのがわたしたちの姿で、毎日ように数人の人たちが死んでいった。結局、1年間で収容所の人口は3分の1になったと言われている。
このような状況の中では、人間は尊厳性を失い、お互いがお互いに対して、獣のようになり、一寸した食料のために大げんかが始まったり、他人よりも少しでも優遇されるように、収容所の役人たちに「すり寄って」他人を中傷するのは日常茶飯事である。そこはまさに地獄である。
母はそういう状況で、次の冬を越すことはできないと判断し、数人の仲間と一緒に脱走を計画した。周到に脱走準備は進められ、最もよい季節である8月上旬の暗い夜に、わたしたちは鉄条網をくぐり抜けて、脱走した。そのときの、仲間は30人ほどであったが、すぐに山に入り、南朝鮮(現在の韓国)を目指して歩き始めた。それから約2週間、ほとんど食事もせずに、昼は危険なので、隠れ、夜、山道を歩き、何度か見つかったり、捕まったりしたが、ともかく、わたしたちの家族3人は無事に38度線(南北朝鮮を分ける国境線)を突破することができた。最後まで残っていたのは、家族の他数人にすぎなかった。38度線を越えて、呆然としているわたしたちに何人かの朝鮮人が近づき、片言の日本語で「ここは南鮮ですよ」と声をかけられたときの感激を今でも覚えている。そのとき、差し出されたおにぎりの味は決して忘れることはできない。
さて、わたしたちが「ここは南鮮だ」ということを知ったとき、わたしたちがどういう言葉を発したのか、どうしても思い出せない。「ありがとう」と言ったのか、「助かった」と叫んだのか、「ここは南鮮だ」と大声をあげたのか、思い出せない。ただ、思い出せるのはみんな大きな声をあげたとことだけである。終戦の日からそれまで、ほとんど大きな声を出した思い出がない。収容所でも、山野をさまよっているときも、わたしたちはいつも、ひそひそとささやいていた。誰にも、遠慮なく、大きな声で叫ぶことができる、それが解放の喜びである。
3. 叫べない現実
しかし、「しかし」である。大きな声で叫べない現実がある。これはドイツにおけるユダヤ人迫害の時も、ドイツが敗れ、ユダヤ人が解放されたとき、彼らは本当に喜びを叫べたのか。叫べた人もいるであろう。しかし、叫べない人もいる。というのは、収容所での生活というものは、お互いがお互いを監視し合い、通告し合う陰湿な関係であり、本当の信頼関係というものを築くことは非常に難しい状況である。収容所の中で、他の人よりも少しでもいい目をしようと思えば、同胞たちの動向を密告するしかない。ユダヤ人収容所の中でユダヤ人を直接に痛めつけたのは、ナチスドイツの兵隊たちの手先になったユダヤ人であった。たとえ、それがその人の身を守るためのやむを得ない行動であったとしても、痛み付けられた者たちと痛み付けた者たちとの関係は残る。従って、解放という事実は、さらに難しい状況を生み出す。従って、心から叫べない現実というものが解放されたすべての人の心の中にある。大きな声で喜べない。
バビロニアの捕囚から解放された人々においても同じことがあったであろう。喜びを大声で叫べない。預言者エレミヤはあえて「大きな声で喜べ」と語る。この語りの中に、捕囚中の様々な出来事をすべて許し合えというメッセージが含まれている。許し合わなければ、あるいは他の人々が赦してくれているという確信がなければ、大きな声で喜び叫ぶことはできない。

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