落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

顕現後第2主日<講釈>「イエスと弟子たち」 マルコ1:14-20

2012-01-10 14:38:20 | 講釈
S12E02(L)
2012.1.15
顕現後第2主日<講釈>「イエスと弟子たち」 マルコ1:14-20

1.疑問
先ず初めに本日のテキストについて。
本日の礼拝のために指定されている福音書はヨハネ1:43-51であるが、できるだけマルコのテキストを選びたいので、次週の分を取り上げる。ヨハネ1:43-51はフィリピとナタナエルとが弟子となる記事であるが、マルコの方はイエスがガリラヤで伝道を開始した(14-15)という記事と、4人の漁師を弟子にしたという出来事(16-20)とが述べられている。
イエスが伝道を開始した時、最初の仕事が弟子を招いたということは、非常に興味深い。不思議なことに、弟子たちはイエスの言葉と行動とを見て、魅力を感じ、イエスに弟子入りしたのではなかった。その意味ではイエスと弟子たちとの関係は通常の師匠と弟子との関係とはかなり異なる関係である。一体イエスと弟子たちとの関係とはどんな関係であったのだろうか。

そのような基本的な問題ついて考える前に、もっと基本的な、私たちが生きていく上で欠かすことが出来ない根本問題について一言触れておく。それは「疑問を持つ」ということである。疑問がなければ人間は成長しない。そこで今日の疑問。私たちは、イエスと弟子たちとの関係について当然なこととしてほとんど何の疑問を持っていない。
先日、私はフィエイスブックで、イエスにとって「弟子とは何か」という疑問を提起し、次のように述べた。「活動当初に、弟子を取るということの意味は何だろう。また、その弟子たちが活動の最後に逃げ去ってしまうとはどういうことか。それでマルコ福音書を初めから終わりまで弟子を主題にしてノートを取りながら読み返した。そこでハッキリしてきたことは、イエスの活動にとって弟子は必ずしも必要な存在ではなかった。しかし弟子がいなかったらイエスの活動はイエスの死と共に終わったことは間違いない。教会は存在しなかった。イエスの弟子がイエスの弟子であることの意味を発揮したのはイエスの死後である」と書いた。かなり大胆な疑問で、どんな反響があるのか興味があった。
それに対してすぐに信仰生活の長い敬虔な信徒の方から次のような反応があった。「 私には、イエスが弟子を取るという発想は全く浮かびません。神が選びだして、イエスに与え、この世に遣わしたとしか考えられません。まさに、召命だと思います。単純すぎるのでしょうか」。
おそらくこの信徒の方もイエスと弟子たちとの関係について通常の師弟関係とは異なっているという点については私と同じ疑問を持っておられると思われる。しかし、その疑問そのものは神の行為として神棚に上げられ、現実的な疑問とならないで終わってしまう。それが信仰的な態度であると思われている。このことはその方だけの問題ではなく、おそらく多くの信徒の方々の敬虔的な、信仰的な態度であろうと思われる。
それで私はその疑問に対して次のような返事を書いた。「それは後から分かったことで、福音書ではイエスが呼びかけ、呼びかけられた人がそれに応えて弟子になった、と述べられている。後から考えるとあの呼びかけは「神からの召命」であったという認識が出てくる。後から分かったことを初めに持ってくるとリアルな状況とそこで起こっている出来事の不思議さが見えなくなる。弟子たちはイエスに呼びかけられた時イエスのことをどれだけ知っていたのか。何故彼らは素直に応じたのか。おそらく、応じなかった人間も沢山いたのではなかろうか。実に不思議なことである」。聖書を読んでいて、「あれっ、変だな」という疑問がなくなると、聖書のメッセージを読み取ることが出来なくなる。

2.師弟関係とは
普通、弟子とは師匠の技術や生き方を学び、それらを身につけ、乗り越えていく。それが弟子であり、師匠もそのことを期待して弟子を取る。弟子もそれを期待して師匠を尊敬し従う。そこには当然、師匠側にも弟子側にも一定の(前)理解がある。ところがイエスと弟子たちとの関係においてはほとんど前理解というものが感じられない。むしろイエスが弟子として選び呼びかける相手はイエスの弟子にもっとも相応しくない人たちのようにとさえ思われる。イエスがどういう基準で弟子たちを選んだのかは分からない。ただ現実に選んだ弟子たちを見て、イエスの選択基準を推定しても、理解不能である。また弟子たちにしてもイエスのことをほとんど何も理解していない。マルコ福音書が描く弟子たちの姿の非常に大きな特徴の一つはイエスに対する無理解ということである。今、それを詳細に論じることはできないが、弟子たちは最後まで師匠を理解することは出来なかった。イエスと共にいる時に弟子たちが何かしたという記録は6:12だけで、これも具体性に欠けており明らかに編集句であろう。弟子たちはイエスの足を引っ張ることばかりしている。最後の最後、イエスが十字架にかかる時に彼らはイエスを棄てて逃げ出している。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14:50)。しかもマルコ福音書においては弟子たちは復活のイエスにも会っていない。墓にさえ行っていない。最後の最後まで付いて行った婦人たちでさえ、イエスの遺体が墓からなくなっているのを見て「婦人たちは墓から出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16:8)とマルコは述べている。この言葉が本来のマルコ福音書の最後の言葉である。その意味では弟子たちは師匠について全く理解していない人間の代表のようなものである。イエスは自分のことを初めから終わりまで理解できない人間を選んで弟子とした。つまりイエスと弟子たちとの関係は「謎」であるということに留めておかねばならないであろう。
じゃ何故イエスは弟子たちを必要としたのだろうか。ただ一つ考えられることは、イエスは十字架にかかって死ぬということである。イエスが死んだらイエスの仕事は終わってしまう。
むしろイエスの本当の仕事はイエスの死後に始まる。イエスの死後に弟子たちはやっとイエスのホンモノの弟子になれた。イエスはそのことを宣教の初めらか自覚し、見通していたに違いない。マルコはそのことを福音書を通して描いていたのであろう。

3.「弟子」から「使徒」へ
しかしよく考えてみると、イエスと弟子たちとの関係についての情報を私たちは弟子たちの口を通してしか知り得ない。要するにどれ程の期間かよく分からないが、ともかくイエスと一緒に生活し、行動を共にしたが結局イエスのことがよく分からず、最後にはイエスを棄てて逃げたいわゆる弟子たちを通してしか分からない。しかし彼らがあのまま逃げ去ってしまったら、イエスのこともましてイエスと弟子たちとの関係も歴史の藻屑として消えてしまったであろうし、キリスト教も教会も存在しなかったであろう。当時そのような宗教的、政治的リーダーは沢山いた。イエスもそのようなリーダーの一人に過ぎなかったであろう。ただイエスの場合彼らと異なる点は弟子たちがいたということである。しかし、その弟子たちも逃げ出してしまったのである。
さて、そこから大転換が始まる。弟子たちが戻ってきた。
ともかく、私たちが知っているイエスとはこの弟子たちによって語られているイエスである。彼らの思い出の中のイエスであり、イエスの教えとか生き方とは基本的には彼らの口を通して与えられたものである。従って厳密に言うと弟子たちが出会う以前のイエスのことを私たちは知りようもない。その意味ではマルコ福音書がイエスの活動の最初に弟子たちを招いたということには意味がある。
教会が成立し組織化していく中で「弟子」は「使徒」と呼ばれるようになり、使徒の権威化が進む。使徒であることの権威の根拠について使徒言行録1:22-23で次のように述べられている。「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者」である。つまり初期の教会において生前のイエスに会ったことがある、話を聞いたことがあるというようなイエスとの関係の濃淡が「権威」となったのであろう。従って「弟子」とは本来の師弟関係というよりもイエスとの関係の濃いさであろう。逆に言うと「12使徒」の遡源としての「12弟子」である。極端に言うと「私はイエスから使徒として任じられた」ということが非常に重要なこととされた。それが福音書に反映している。
ついでに一言付け加えると、マルコは使徒たちが語るイエスを骨組として、ガリラヤ地方に散らばっているいろいろな伝承を集めて福音書を書いた。その中には使徒たちの語らないこともかなりあったものと思われる。

4.何故彼らは戻ってきたのか
さて、弟子たちのことを考える場合に、最も大きな謎は、なぜ彼えらは戻ってきたのかということである。彼らはイエスの十字架を目前にして逃げたのである。このまま逃げてしまえば、彼らには普通の生活があったであろう。戻ってくるということは、イエスと同じ苦労と悲劇が待っていることはほとんど確実な状況であった。それなのに、それが分かっているのに彼らは戻ってきた。何故だろう。
今日のテキストは生前のイエスの言葉というよりも、十字架後のイエスの言葉であろう。彼らはイエスを見すてて郷里の戻り元の漁師に戻っていた。その時に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(1:17)の言葉を聞いた。その時にイエスと共に過ごした日々を思い起こし、あの時の充実した日々を思い出した。そして、その時の仲間たちに呼びかけた。彼らは再結集し、共同生活を始めた。これが教会の始まりであろう。

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