S12E01(S)
2012.1.8
顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 説教「鳩のように」 マルコ1:7-11
1.マルコの語るイエスの洗礼
まず、イエスが洗礼を受けたかどうか、はっきりしていなかったようで、そのことについていろいろ議論があったようである。それを初めてはっきりと「イエスは洗礼を受けた」と宣言したのはマルコである。誤解されると困るが、私もイエスが洗礼を受けたということに疑問があるわけではなく、書かれた資料としては、マルコ以外にないという事実を指摘しているだけである。
マルコが語るイエスの洗礼の場面での大きな特徴は、受洗の場面に他の人を登場させていないということである。その点ではマタイもルカも第三者が居合わせていたことを前提として語られている。なぜマルコは第三者を居合わせていないのか。つまりイエスが洗礼を「天が開け,聖霊が鳩のように主イエスの上に降る」という情景の目撃者、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞いた証人がいない。もし、そこに誰かがおれば、イエスの洗礼は一種の「異常現象」であったことになる。ルカはわざわざ聖霊は「目に見える姿でイエスの上に降って来た」(ルカ3:22)と語り、ヨハネ福音書に至っては、洗礼者ヨハネ自身の証言として「わたしは『霊』が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1:32)と言わせている。ところがマルコは「御自分に降ってくるのをご覧になった」(マルコ1:10)、「ご自分に」とイエスの内的な経験として語る。これがマルコの描くイエスの洗礼の一つの特徴である。
2. 聖霊による洗礼
洗礼者ヨハネによる洗礼は「水による洗礼」である。水による洗礼の特徴は目に見えるということである。その現場にいる者全てが見える。教会での洗礼式の場合、その場に居合わせている人は全て証言者である。しかしイエスが洗礼には証人がいないし、また経験そのものが目に見えない内的なものであった。この内面的な経験を「聖霊による洗礼」という。使徒言行録19章に洗礼に関するエピソードが記録されている。
パウロがエフェソの教会を訪れた時、そこにはアポロという人物の伝道によって洗礼を受けた信徒たちがいたという。パウロは彼らに「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えた。それを聞いて、パウロはさらに「それなら、それはどんな洗礼なのか」と問う。すると彼らは「ヨハネの洗礼だ」と答える。そこでパウロは洗礼ということについて、ヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」であり、本当のキリスト者になるためには「イエスの名による洗礼」を受けなければならないと語る。それで彼らは「イエスの名による洗礼」を受けたいと願い出て、パウロが彼らの上に手を置き、彼らは本当のキリスト者になった、という。(1-7)。
このエピソードが「水による洗礼」と「聖霊による洗礼」との関係について最もよく説明している。つまり「水による洗礼」とは「悔い改めの洗礼」であり、その洗礼ではキリスト者としては不十分で、本当の洗礼とは「聖霊による洗礼」でそれは目に見えない内的な経験だということである。それを日本聖公会では洗礼式と堅信式(信徒按手式)の二重の式として行われている。
このように、見てくるとイエスの洗礼について特に強調している点がはっきりしてくる。つまり、イエスが水による洗礼を受けたときに経験した出来事は、わたしたちも洗礼を受けたときに経験したことと同じ経験である。わたしたちが教会に来て、洗礼を受けたとき、それは悔改めの洗礼でもあったが、それは同時に聖霊による洗礼でもあった。それは決して「異常現象」として経験したことではなかったが、確かにその後の私たちの生活を変える出来事であった。
3. 神の子の宣言
マルコ福音書におけるイエスの洗礼にはもう一つ重油名ことが述べられている。これも無視できない重要ことである。イエスが洗礼を受けたとき、イエス自身は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉が聞いたという。この言葉の出典は詩2:7であるが、この言葉をイエスに結びつける伝承自体はマルコよりもかなり古い。使徒言行録に残されているパウロの説教(使徒13:33)にも引用されている。パウロはイエスの復活との関連の中で、「詩編第2編」の言葉として出典を明らかにした上で引用している。ヘブル書(1:5、5:5)にもこの言葉は引用されているし、福音書ではイエスの変容の出来事とも関連づけられている。おそらく、この言葉をイエスの受洗に関連づけたのはマルコであろうと想像している。
マルコがこの「神の子宣言」をイエスの受洗という出来事と関連づけた意味あるいは目的は、私たちの洗礼経験と深く関連している。つまりイエスの洗礼が私たちの洗礼と同じ経験であるというマルコの主張によれば、この「神の子宣言」も私たちの経験である。私たちは洗礼を受けイエスの仲間にされるとき、神の子と宣言された。洗礼を受けたとき、私たちも神の子となる。
このことを神学的に、ということはマルコとは反対の方向を向いているが、明確に語ったのがヨハネである。「言(ロゴス、すなわちキリスト)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人には神の子となる資格を与えた」(1:12)。
2012.1.8
顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 説教「鳩のように」 マルコ1:7-11
1.マルコの語るイエスの洗礼
まず、イエスが洗礼を受けたかどうか、はっきりしていなかったようで、そのことについていろいろ議論があったようである。それを初めてはっきりと「イエスは洗礼を受けた」と宣言したのはマルコである。誤解されると困るが、私もイエスが洗礼を受けたということに疑問があるわけではなく、書かれた資料としては、マルコ以外にないという事実を指摘しているだけである。
マルコが語るイエスの洗礼の場面での大きな特徴は、受洗の場面に他の人を登場させていないということである。その点ではマタイもルカも第三者が居合わせていたことを前提として語られている。なぜマルコは第三者を居合わせていないのか。つまりイエスが洗礼を「天が開け,聖霊が鳩のように主イエスの上に降る」という情景の目撃者、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞いた証人がいない。もし、そこに誰かがおれば、イエスの洗礼は一種の「異常現象」であったことになる。ルカはわざわざ聖霊は「目に見える姿でイエスの上に降って来た」(ルカ3:22)と語り、ヨハネ福音書に至っては、洗礼者ヨハネ自身の証言として「わたしは『霊』が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1:32)と言わせている。ところがマルコは「御自分に降ってくるのをご覧になった」(マルコ1:10)、「ご自分に」とイエスの内的な経験として語る。これがマルコの描くイエスの洗礼の一つの特徴である。
2. 聖霊による洗礼
洗礼者ヨハネによる洗礼は「水による洗礼」である。水による洗礼の特徴は目に見えるということである。その現場にいる者全てが見える。教会での洗礼式の場合、その場に居合わせている人は全て証言者である。しかしイエスが洗礼には証人がいないし、また経験そのものが目に見えない内的なものであった。この内面的な経験を「聖霊による洗礼」という。使徒言行録19章に洗礼に関するエピソードが記録されている。
パウロがエフェソの教会を訪れた時、そこにはアポロという人物の伝道によって洗礼を受けた信徒たちがいたという。パウロは彼らに「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えた。それを聞いて、パウロはさらに「それなら、それはどんな洗礼なのか」と問う。すると彼らは「ヨハネの洗礼だ」と答える。そこでパウロは洗礼ということについて、ヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」であり、本当のキリスト者になるためには「イエスの名による洗礼」を受けなければならないと語る。それで彼らは「イエスの名による洗礼」を受けたいと願い出て、パウロが彼らの上に手を置き、彼らは本当のキリスト者になった、という。(1-7)。
このエピソードが「水による洗礼」と「聖霊による洗礼」との関係について最もよく説明している。つまり「水による洗礼」とは「悔い改めの洗礼」であり、その洗礼ではキリスト者としては不十分で、本当の洗礼とは「聖霊による洗礼」でそれは目に見えない内的な経験だということである。それを日本聖公会では洗礼式と堅信式(信徒按手式)の二重の式として行われている。
このように、見てくるとイエスの洗礼について特に強調している点がはっきりしてくる。つまり、イエスが水による洗礼を受けたときに経験した出来事は、わたしたちも洗礼を受けたときに経験したことと同じ経験である。わたしたちが教会に来て、洗礼を受けたとき、それは悔改めの洗礼でもあったが、それは同時に聖霊による洗礼でもあった。それは決して「異常現象」として経験したことではなかったが、確かにその後の私たちの生活を変える出来事であった。
3. 神の子の宣言
マルコ福音書におけるイエスの洗礼にはもう一つ重油名ことが述べられている。これも無視できない重要ことである。イエスが洗礼を受けたとき、イエス自身は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉が聞いたという。この言葉の出典は詩2:7であるが、この言葉をイエスに結びつける伝承自体はマルコよりもかなり古い。使徒言行録に残されているパウロの説教(使徒13:33)にも引用されている。パウロはイエスの復活との関連の中で、「詩編第2編」の言葉として出典を明らかにした上で引用している。ヘブル書(1:5、5:5)にもこの言葉は引用されているし、福音書ではイエスの変容の出来事とも関連づけられている。おそらく、この言葉をイエスの受洗に関連づけたのはマルコであろうと想像している。
マルコがこの「神の子宣言」をイエスの受洗という出来事と関連づけた意味あるいは目的は、私たちの洗礼経験と深く関連している。つまりイエスの洗礼が私たちの洗礼と同じ経験であるというマルコの主張によれば、この「神の子宣言」も私たちの経験である。私たちは洗礼を受けイエスの仲間にされるとき、神の子と宣言された。洗礼を受けたとき、私たちも神の子となる。
このことを神学的に、ということはマルコとは反対の方向を向いているが、明確に語ったのがヨハネである。「言(ロゴス、すなわちキリスト)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人には神の子となる資格を与えた」(1:12)。