落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> ありのままの私 1コリント7:17-23

2009-01-19 19:01:53 | 講釈
2009年 顕現後第3主日 2009.1.25
<講釈> ありのままの私 1コリント7:17-23

1. 7章から15章まで
7章1節の言葉によると、コリントの信徒への第1の手紙の7章から15章までの部分については、おそらく信徒側からパウロへの文書による質問状への回答だと思われる。一つ一つの問題が明白に分離されているわけではなく、複雑にからみあっているが、ともかく最初に取り上げられた問題は、結婚をめぐる男女間の問題である(1~7節)。そこから派生して未婚の女性の問題に触れ、配偶者が未信徒の場合について論じる(8~16)。この話題は25節以下でもう一度扱われるが、本日取り上げられている17節~23節は、結婚問題と奴隷問題とが組み合わされて、この現実的で生々しい問題に対するパウロの基本的な考えがまとめられている。
ここでまず、わたしたちは、この箇所から読み取れるパウロの牧会者としての姿である。取り上げられている問題はいずれも、この世における煩わしい問題である。一つとして明快に割り切れる問題ではない。問題が一つ解決したら、すぐに別な問題が起こってくる。それが日常的な煩わしさである。これらの煩わしい諸問題に、パウロは正面から取り組み語る。パウロの語り方の端々に「そんなこと、どうでもいいではないか」という意識があることは明白である。たとえば、割礼の問題にしても「割礼の有無は問題ではない」という。奴隷問題にしても、現実的な身分はどうでも、キリスト者は本質的な自由を得ているのだから・・・・という。そう思いつつ、パウロは信徒たちの現実的な諸問題に何とか答えを見いだし、「指示」あるいは「命令」をする。その姿勢が重要である。冷たくパウロを批判すれば、そこに「内部分裂」があり、現実と観念との混乱がある、といえる。しかし、教会の現実とはそういうもので、その現実から遊離して、あるいは逃避して、牧会は出来ない。ここに描き出されるパウロはそういうパウロである。
2. 奴隷問題と割礼の問題
当時のコリントの教会、これは必ずしもコリント教会だけでなく、どこの教会でも同様であろうが、深刻な問題を持っていた。それが、奴隷問題と割礼の問題であった。
当時の洗礼式文と思われる言葉の中に、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです」(ガラテヤ3:28)という言葉がある。まさに、彼らは洗礼を受けるときにそのように信仰を告白したのである。それが教会という共同体を形成する土台であり、信仰である。ところが現実の生活においてはやはり古い意識を引きずっていた。そこに建て前と現実との深刻なずれがあった。ある者は割礼を受けていることを恥とし、古いあり方を破棄し、当然もはや無意味化した「古い傷」を消すことに腐心し、それが新しい生き方であると考えたであろう。それとは対照的に、正統的な「神の民」に組み入れられた正当な印として割礼を重視していた者もいたであろうし、そう考える人々は「密かに」割礼の儀式を行っていたと想像される。両方の考え方がユダヤ人の中にも、また異邦人の中にもいたであろう。奴隷の問題についても同様である。洗礼を受けるまで、あるいは受けてからも奴隷の身分の者は教会の中では「奴隷でない」と主張したであろうが、そのことがかえって「批判」の対象にされただろうということも、十分に想像される。奴隷を雇っていた階層の人びとの中には、自分の全ての奴隷を解放した者も、あるいはそのまま奴隷を温存した者もいたと思われる。そこに主人と奴隷とが同じ教会の信徒であるという事態も生じたであろう。ピレモンとオネシモの例もある。
こういう状況が当時の教会の日常的な現実である。さて、こういう状況において牧師はどうするのか。簡単な問題ではない。一切触れない、という態度もとれる。しかし、それでは「キリスト・イエスにあって一つ」という信仰告白は空文化する。
3. 奴隷制度に対するパウロの姿勢
21節の言葉は、パウロが奴隷制度を容認している言葉として有名である。この言葉を虚心坦懐に読む限り、パウロが奴隷制度に対して無批判的であることは否めない。どう擁護しようが擁護のしようがない。口語訳聖書のように「もし自由の身になり得るなら、むしろ自由になりなさい」と翻訳することは、明白に「意図的間違い」である。その意味では新共同訳聖書の「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」という訳の方が良心的である。こういう場合、説教者はどうすべきか。はっきり言って、悩むことはない。パウロを堂々と批判すればいい。パウロも時代的制約の中で間違いを犯すのである。ここでは、明らかにパウロは間違っている。その意味では、「わたしたちには、すべてのことが許されている」のであり、「わたしたちは何事にも支配されない」(1コリント6:12)のである。ただ、パウロ批判に熱中するあまり、パウロが語ろうとしているメッセージを聞き落としてはならない。わたしたちの福音理解に立てば、奴隷制度は古代であれ、近代であれ、現代であれ、間違っている。聖書を読む場合にはその点を徹底的に批判しても、説教においては無視すればいい。
4. パウロのメッセージ
ここでのパウロのメッセージははっきりしている。「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです」(17節)という言葉に凝縮されている。ただ、ここでの翻訳に問題がある。原文では「身分」という言葉はない。口語訳では「状態」という語が挿入されているが、要するに「神に召されたときのままで生きなさい」という意味である。わたしたちの言葉でいうと、神は「ありのままの私」を召されたのであり、「そのまま生きなさい」ということになる。このメッセージが、現実において、結婚状態とか割礼の有無とか、奴隷の身分ということと絡まって、中心点がぼやけてしまっている。重要なことは「ありのままの私」である。
驚くべきことが淡々と語られている。神はわたしたちを「ありのままの私」として召し抱えている。神はわたしの「過去」もわたしの「現在」もわたしの「未来」もすべてひっくるめて「ありのままの私」を受け入れている。男性は男性のままで、女性は女性のままで、中性は中性のままで、ギリシア人はギリシア人のままで、ユダヤ人はユダヤ人のままで、日本人は日本人のままで、ドイツ人はドイツ人のままで、神は受け入れ、この世界で生きることを命じられる。神は決してこの世から切り離して別の世界にわたしたちを移すのではない。その人が生きてきた、そして生きているその世界で生きることを命じる。
ところが、人間は人間をありのままに受け入れていない。人間は共に生きている他者(隣人)に様々なレッテルを貼り、時には人間を「物」のように売買したり、その人間の上に爆弾を落としたりする。神が「良し」とする人間を「悪」とする。
5. 「そのことを気にしてはいけません」。
そのことと関連して、もう一つ注目すべき言葉がここにある。それは「そのことを気にしてはいけません」という言葉である。一応、この言葉は「召されたときに奴隷であった人も」と気にするであろう人が示されているが、この言葉はすべての人に当てはまる言葉であろう。つまり、「ありのままの私」について、「気にする人」、「ありのままの私」に問題を感じているすべての人に対して、「気にするな」と語っている。
実は、すべての人間が、「ありのままの私」に問題を感じているのではなかろうか。「こんな私はいや」という気持ちは誰でも抱いている。他人のことは本当にはわからないが、少なくとも、わたし自身は「ありのままの私」に自信が持てない。もう少し「ましな私」になりたい、と思っている。もし、それが叶わないならば、せめて「着飾った私」を見せたい。ここに、「もう少しましな『私』を求める私」と「ありのままの私」との分裂がある。「自分を見ている自分」と「見られている自分」と言ってもいいだろう。「気にする」とはこの2人の「私」の間の分離葛藤である。この問題を悩み抜いたのがパウロである。
パウロはその悩みについて、次のように告白している。少し長いが重要なことなので引用する。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか(ロマ書7:18~24)」。一人の人間としてこれほど深い悩みはあるだろうか。しかし、このパウロの言葉がわたしたちの心に響くのは、わたしたちも同じ事で悩んでいるからである。パウロはこの悩みを悩み抜き、その悩みの究極において、結局、「私は私でしかない」という境地に立ったのである。それを「開き直り」というなら確かに「開き直り」であろう。しかし、開き直りにも悟りとしての開き直りもあれば「悪しき開き直り」もある。「悪しき開き直り」とはそこ(底)まで達しないで自己を正当化しているに過ぎない。しかし、この開き直りは悩みのどん底で「底が割れる」という体験である。この体験をパウロは次のように語る。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」(同25節)。「神の律法に仕えている私」と「罪の法則に仕えている私」という矛盾した私をそのまま受け入れてくださる、というメッセージを主イエス・キリストから受けたのである。これが「わたしは私のままでいい」という「悟り」である。

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