落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 義の太陽

2007-11-12 11:14:42 | 講釈
2007年 聖霊降臨後第25主日(特定28) 2007.11.18
<講釈>義の太陽   マラキ書3:13-24

1. 「降臨節前主日」(特定29)の名称読みかえについて
昨年5月(2006)に開催された第56(定期)教区会において、主教会提案の「祈祷書中の教会暦の一部を読み替え、その試用を認める件」が可決された。具体的には降臨節前主日(特定29)を「聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復(降臨節前主日)」と改めるということである。意図は、特祷の内容を重視し、世界各国の聖公会に合わせるということにあるようである。つまり、聖霊降臨後最終主日は一年を総括し、すべてのものがキリストのうちに集められ、解放されることを祈り求め、わたしたちの心を新しい年へと向かわせる礼拝である、とする。簡単にいうと一年の終わりの主日は一年を総括する日である。
それに対して、本日の主日は、わたしたちに「終わりについて」考えさせるテキストが選ばれている。キリスト教の思想においてはすべてのものの始まりを意味する創造論と共に万物の終わりについての思想も重要である。終末論(エスカトロジー)とは、「世界の終わりについての教え」であり、初期のキリスト教では「再臨論」として熱狂的に待望されたことである。その教えは現在でも使徒信経でもニケヤ信経でも唱えられている。従って、一年に一度ぐらい、終末について考えることはわたしたちの信仰生活にとって非常に重要なことである。終わりについて考えるということは実は終わりそのものよりも、現在を終わりに向かって整えるということにほかならない。
2. 旧約聖書の最後の書
マラキ書は旧約聖書の最後の書である。もちろん、現在わたしたちが手にしている聖書の中で最後に書かれたかどうかは不明であるが(多分ダニエル書の方が後で書かれたものと思われる)、内容的には明らかに最後を飾るにふさわしいという意味である。「マラキ」という単語の意味は「わたしの使者」という意味で、おそらくこれは本名というよりも、ペンネームであろう。実名を伏せることによって、目の前の社会を鋭く批判する手法である。文章は黙示文学的表現が多く、その点ではダニエル書とよく似ていると言われているが、時代的には紀元前4世紀末から紀元前3世紀の初め頃の著作であると考えられている。
終末についてのマラキの預言は、他の預言者たちとほとんど違わない。ただ一点、マラキは他の預言者とは異なる表現をしている。その日に起こることについて、一般的には「人の子」の出現ということが語られる。ところが、マラキはそれを「義の太陽」という表現をする。これはユニークである。旧約聖書の中でただ一回しか使われていない表現であるが、非常に印象的である。「義の太陽」という表現によって、メシヤの到来という黙示文学的な預言は現実的なイメージが与えられ、人びとの心の中に深く印象づけられる。
メシヤの到来とは、夜が明け、朝を迎える出来事なのだ。今は「真っ暗な夜」なのだ。夜は日の出と共に破られ、太陽と共に新しい一日が始まり、闇の中で見えなかったものがすべて明るみに引き出される。マラキ書が一年の最後を飾るに相応しいという意味は、ここに「義の太陽」というイメージが出てくるからである。
3. 「義の太陽」について
「義の太陽」というユニークな表現について、少し考察を加えておく。ここでは「義の太陽」について次のように述べられている。
「わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」(3:20)。何とはなしに読んでいると何とはなしに読み過ごしてしまう。しかし、一寸注意すると、変なことが言われている。ここで「義の太陽」が昇るといわれている。太陽は正義の象徴であろう。それはいい。しかし、次が問題である。何か、当然のごとくに、その太陽には「翼」がある。これはおかしい。太陽が昇るということには疑問はない。しかし、太陽に翼があるとなると、これは問題である。更にだめ押しのように、その翼には「癒やす力」があるという。これを語っている著者は太陽に翼があることに少しも違和感を持っていないようである。また、おそらくこれを読んだ人びとも違和感がなかったのだろう。むしろ、ここで語られている特別なメッセージは、その翼に「癒やす力」があるということにある。
この翼のある太陽ということには説明が必要である。マラキ書の著者にとっても、読者にとっても自明ではあるがわたしたちには知られていないことがここにある。太陽の両側に翼を付けたイメージは「有翼日輪」と呼ばれている。このモチーフは、エジプトの太陽神礼拝に源を持つといわれているが、そのイメージはペルシャの善悪二元論を柱とするゾロアスター教に取り込まれ、さらに仏教の大日如来信仰へと展開されたと言われている。ここではこの問題にはあまり深入りできないが、その頃の地中海世界をはペルシャ文化が支配し、その宗教であるゾロアスター教が盛んな時代であった。従って、有翼日輪の紋章やレリーフがどこに行っても仰々しく飾られていたことだろう。彼らにとって有翼日輪は日常的なものであった。それを見る度に、人びとはペルシャ帝国の支配を感じていた。まさに、有翼日輪は「権力と武力」の象徴であり、それに対する抵抗は直ちに帝国への反抗と見なされた。そういわれてみると、米空軍のコンドルもそれに近いイメージである。ペルシャ王家を象徴する有翼日輪に、従うことが正義であり、平和であるが、これに逆らい、反旗をひるがえすことは悪であり、平和を乱す者として滅ぼされた。
このような状況の中で、預言者マラキはあえて有翼日輪のイメージを取り上げて、終末に現れる「救済者」を語る。この場合「義の太陽」という言葉の「義」とはペルシャ帝国の「正義」に対抗するもう一つの「正義」という意味に理解するよりも、「本物の」という意味に解釈する方が妥当であろう。本物の太陽の翼は、「武力」ではなく「癒やす力」である。分かりやすいモデルで説明すると、ペルシャ帝国の有翼日輪は民衆の頭上に「恐怖」という爆弾を投下するが、「本物の有翼日輪」は、民衆を優しく覆い(落下傘によって)、「癒やす力」としての食料や医薬品をで与える。
この文脈において、21節の「わたしが備えているその日に、あなたたちは神に逆らう者を踏みつける」という激しい言葉は、やはり有翼日輪が元来「戦う神」であるという残映を完全に払拭できなかった、矛盾の露呈であろう。いくら、「救援物資」を運ぶ飛行機であっても「軍用機」であるという事実は免れないということか。
4. マラキの批判と希望のメッセージ
預言者マラキが活動した時代を一言で表現するならば、神殿における祭儀への徹底的な失望、あるいは絶望ということであろう。祭儀は形骸化し、祭司たちの堕落は目を覆うものがあった。宗教が腐敗し堕落するということは、国民の間での道徳が退廃するということでもある。一旦堕落の道を進み始めると、もうその進行を止めることはできない。その一例を紹介しておこう。読むだけで十分理解できる。
「子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるなら、わたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるなら、わたしに対する畏れはどこにあるのかと、万軍の主はあなたたちに言われる。わたしの名を軽んずる祭司たちよ、あなたたちは言う。我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。あなたたちは、わたしの祭壇に、汚れたパンをささげておきながら、我々はどのようにして、あなたを汚しましたか、と言う。しかも、あなたたちは、主の食卓は軽んじられてもよい、と言う。あなたたちが目のつぶれた動物を、いけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても、悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと、万軍の主は言われる」(1:6-8)。
当時の祭司たちはこれぐらい堕落していた。もう一つ決定的な言葉を紹介しておこう。
「あなたたちは、自分の語る言葉によって主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う。どのように疲れさせたのですか、と」(2:17)。祭司たちは少しも分かっていない。
もう一個所、だめ押しの一点である。本日にテキストの中から。
「あなたたちは、わたしにひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う。どんなことをあなたに言いましたか、と。あなたたちは言っている。『神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え。神を試みても罰を免れているからだ』」(13-15)。
彼ら(当時の祭司たち)はいったいどんな神学を持っていたのか。もう無茶苦茶である。
5. ひどい言葉
神は「あなたたちは、わたしにひどい言葉を語っている」と言われる。それに対して人間は「どんなことを言いましたか」と答える。ここでは「言ったとか、言わなかった」ということの議論である。こういうことはわたしたちの日常生活でしょっちゅう起こっていることである。しかし、問題は言ったとか言わなかったとか、そういう意味ではないとか、誤解ということではない。重要なことはそういう生き方をしているということである。一つ一つの言葉ではなく、その人の生活の全体が語っていることがここでは問題にされている。その「ひどい言葉」とは、「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前に喪を服している人のように歩いても、何の益があろうか。むしろ、高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ」。実に明白に神を信じない人々の生き方を述べている。たとえ、口では「神を信じる」とか、正義を尊ぶとか言っても、根本的なところでこう思っている人は結構多い。テレビや新聞に登場する多くの犯罪事件は、決してわたしたちから遠くにあるのではなく、一つ間違えればすぐにその当事者になりかねないことである。問題はその「一つ間違えるか間違えないか」という分岐点である。本日のテキストでいうと「そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と神に仕えない者の区別を見るであろう」という「区別」である。確かに現実を見ると、なぜ正しい者が苦しみ、高慢な者が栄えるのか理解に苦しむ。現実は不条理に満ちている。わたしたちはそれを嘆く。平気で悪いことをする連中が幸福そうにしているのを見ると腹ただしささえ感じる。
6. 「記録の書」
16節の言葉は面白い。何かホッとする挿入である。どんなに社会が乱れ、堕落していてもすべての人間がそうだというのではない。必ずその中に「憂えている人、泣いている人、義に飢え渇いている人」、「主を畏れ敬う人」がいる。そういう人びとが集まって、語り合っている。おそらく、密かに、隠れるようにして集まり、語り合い、祈りあっている。神は、その人たちの言葉に耳を傾け、神の前に「記録」されている、と言う。わたしもそれを信じる。
17節、18節はそのような人びとへの神からの秘密メールである。16節は散文で書かれているが、17、18節は詩文である。ぜひ、この秘密メールを心に留めておこう。これこそが、義に飢え渇く人びとへの神からの愛のメッセージである。
「わたしが備えているその日に、彼らはわたしにとって宝となると、万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう」。
その日のために、現在のすべてが「記録の書」に記録されているのである。
これは「福音」である。これが「福音」だ。文字通り「よき音信」である。その日が来たら、わたしたちは「神の宝物」になる。いや、そうではない。今も神の「宝物」であるが、その日にそれが公になる。本物の太陽が現れるとき、すべてが明るみに引き出され、善と悪と、信仰と不信仰とが明白に区別され、悪は裁かれる。

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