落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 待つということ 1コリント1:1~9

2008-11-24 09:28:25 | 講釈
2008年 降臨節第1主日 2008.11.30
<講釈> 待つということ 1コリント1:1~9

1. 書簡というもの
今年度(B年)は使徒書を取り上げる。聖餐式の日課において「使徒書」とは、使徒言行録から後ろの諸文書で、主に書簡類で、それに初代教会の歴史を取り扱った使徒言行録とちょっと特殊なヨハネ黙示録が入る。書簡類は当然、発信者と受信者とがおる。基本的には発信者側の必要に応じて、個別的状況の中で、伝えられるべきメッセージがあって、書かれたものである。当然、発信者はその文書が将来「聖書」と呼ばれるようになるということは予想していないのが、原則である。
しかし、パウロ以後の書簡類になると、教会においてパウロの書簡の読まれ方というものがかなり定着しているので、そのような読まれ方を前提に書かれたと思われるものもある。
本日のコリントの信徒への手紙1はパウロの手紙の中でも比較的初期に書かれたもので、その名前が示すようにコリントの教会宛の手紙である。コリントの教会はもともとパウロの第2伝道旅行(48年~49年、あるいは51年~52年、使徒言行録18章)の際に創設された教会である。そのことについて、パウロはこの書簡の中で「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(3:6)と言う。しかし、パウロが去った後、保守的なユダヤ人によってパウロに対する中傷がなされ、教会は混乱していた。そのことを憂えて、パウロはこの書簡を書いたのである。
さて、書簡をもらった場合、受取手は一気に全部を読むもので、今日は一枚目だけとか、明日は2枚目だけというような読み方はしない。そんな読み方をしていては発信者の意図はごちゃごちゃになってしまうであろう。また、一読して意味がつかめない場合には、繰り返し読むか、あるいはその部分だけを後で辞書などを使って判断する場合でも、常に全体の中の一部として「調べる」のである。ところが、わたしたちが教会でこれらの書簡を読む場合、一部分だけを取り出して読むのが普通である。聖書に収められている書簡については、そういう読み方をする。
まして、本日のように、最初の書き出しの部分だけを取り出して読んでもあまり意味がない。むしろ、この部分はいわば「挨拶」の言葉で、言いたいメッセージつについて多少予感させるものはあっても、それはあくまでも「予感」であり、場合によってはアイロニーとして逆の表現をとっている場合もある。例えば叱責の手紙であっても、そうだからこそ挨拶の部分では出来るだけ冷静に相手を褒めたりすることもある。
2. パウロの世界宣教におけるコリントの位置づけ
パウロは、キリスト教はユダヤの片隅にとどまっているべきではなく、世界への目を向け、世界に広がっていくべき宗教であると確信していた。そうなると、目の前に広がるローマやギリシャ世界が視野に入ってくる。ともかく、最終的にはローマであるとしても、まずは、パレスチナ(「アジア州」使徒16:6)からギリシャ世界に入らねばならない。そこで、第2次伝道旅行の際に、50年前後、とうとうギリシャ半島に足を踏み入れた。その最初の場所がマケドニアであった(16:6)。当時、ギリシャ世界の中心はアテネとコリントであり、はっきり言って、アテネ伝道は失敗であった(17:16~34)。そして、次に目を付けたのがコリントで、ここではパウロはじっくり腰を据えて、「1年6ヶ月」(18:11)伝道しており、その結果コリントの教会が成立したのである。コリントの教会は文字通り、ヨーロッパにおける「第1教会」であった。知的にも、経済的にも豊かな信徒たちも多く、礼拝や教会の諸集会にも大勢の人々が集まったものと思われる。
パウロはこの書簡の挨拶の部分で、コリントの教会の信徒たちについて、「あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点において豊かにされており」、「賜物に何一つ欠けるところがない」と言う。確かに、コリントの信徒たちにはそれだけのものがあったのだろうと思われる。従って、この言葉は「口先だけの」お世辞ではない。
3. 非のうちどころのない者
ところで、この挨拶文で注目すべき点は、コリントの信徒たちについて「最高の賛辞」を述べつつ、同時に、「主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」と言っている点である。神から与えられるべき「賜物に何一つ欠けるところがない」なら、今すでに「非のうちどころがない者」ではないのだろうか。パウロは、明らかにコリント教会の信徒たちには「非」がある、「欠けているところがある」と思っている。だからこそ、この書簡を送ったのである。本日のテキストは「挨拶文」であるので具体的な問題には触れないが、問題があることが暗示されている。現在は「駄目な存在」であるが、イエス・キリストの日には「非のうちどころのない者」にされるという希望である。キリスト者の希望の根底にそれがある。
4. 現れを待つ
本日より降臨節(アドベント)に入る。降臨節のテーマは「待つ」ということである。とくに「アドベント」という言葉が示しているように「到来」を待つ。ただ、漫然と「待つ」のではなく、向こうから来るのを待つ。ここに、アドベントにおける「待つ」の意味がある。
「待つ」ということには「希望」が伴う。希望がなければ待つことは出来ない。待たないということは「諦め」である。諦めは一見「信仰」に似ているが、本当は「絶望」である。絶望しているが、じたばたしない、というのが宗教的な諦めであろう。それは「待つ」ということと現象的には似ているが決して同じではない。「待つ」ということには「希望」がある。そこが仏教の「悟り」とキリスト教の「信仰」との違いである。
この主日のために、このテキストが選ばれている理由は、おそらく7節の「わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」という言葉の故であろう。パウロはコリント教会の信徒たちは、神から与えられるべき賜物を豊かに与えられているが、それでもなお完全ではない。だからこそ、それが完全にされる時を待っている。主イエス・キリストが現れるとき、完全なものとされるという希望を持って待っている。
5. 神への信頼の本質
このことに関して、この手紙の中で語っている最も重要なメッセージを示しておく。
「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である(13:9~13)」。
この文脈で、この言葉を読むとき、愛の賛歌の部分が生きて輝いてくる。
待つことは、来るか来ないかわからにものを待つのではない。必ず、絶対に来る者を待つのである。来ることを信じているから希望を持って待つのである。来る者を愛するがゆえに、未だその方の姿が見えないけれども、信じて待つのである。キリスト教が発見した信仰の本質とは待つことであり、希望と愛とをもって待つことである。

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