落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>休息に関する断想

2006-07-20 15:51:05 | 講釈
2006年 聖霊降臨後第7主日(特定11) (2006.7.23)
<講釈>休息に関する断想   マルコ6:30-44

1. 弟子たちの休息
5つのパンと2匹の魚の奇跡については、大斎節第4主日(2006.3.26)にヨハネ6:4-15をテキストとして既に語っているので、ここでは弟子たちの休息ということだけを取り上げる。働いたたら休む、これは生きるための大原則である。その意味では、生きるためには働くことと休むこととは同じ程度に重要なことであり、価値あることである。ところが、人間はしばしば、働くことことの価値は認めるが、休むことの価値を認めようとしない。
2. さぁ、しばらく休むがよい
ここでもう一つ目を引く言葉は「さぁ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」という主イエスの優しい言葉である。この様な言葉は他の福音書には見られない。
この言葉が置かれている文脈から考えると、弟子たちが主イエスから派遣されて、無事帰還したことをねぎらう特別な恩恵のように見られるが、ここに記されている「休む理由」を見ると、それはむしろ主イエスと一緒におるときの「忙しさ」が述べられている。つまり、この「休み」は特別な仕事を成し遂げたときの「特別休暇」ではなく、「日常的な休み」を意味している。
3. 聖書における「休み」
さて、目立たないけれども、聖書において「休む」という思想は無視できない。先ず、創世記の冒頭、天地創造の時から安息日の思想が登場している。天地万物を創造された神は6日間働いて7日目に休む。神が休むという思想は驚きである。むしろ神は休まないものであるという思想の方が自然である。「身よ、イスラエルを見守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩編121:3)とか、「わたしの父は今もなお働いておられる」(ヨハネ5:17)と言われた方が納得がいく。ところが、聖書における神は、天地創造の初めから「休む」。これは驚きである。
当然、創造主である神だけではなく、神が創造された万物も休みを必要としている。万物は休むことによって、創造されたときのエネルギーを回復する。休んでもいい、ということではなく、休まねばならない。そのことが、何の議論もなく、当然のこととして語られる。あたかも、聖書はそれが創造の時以来、万物に組み込まれた本性である、と言っているようなものである。
4. 安息日の規定
この天地創造の秩序に基づいて安息日の規定が生まれる。安息日の規定とは創造の秩序である。E典によると「(神が)7日目に休まれた」(出エジプト20:11)ということが安息日の根拠とされる。ここでの言い方は微妙である。原文を引用する。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」出エジプト20:8-11)。
「7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(10節)。これを命令とか戒律と取るか。むしろ、「神さまはお休みになっているのだから、あなたたちも神さまの休息を妨げないように、休むがよい」という勧め、あるいは許可であるように思う。安息日の規定というものは本来そういうものであったはずである。従って、安息日の律法化が始まると、権利としての安息日という思想が生まれる。D典では、「あなたはかつてエジプトの奴隷であった」(申命記5:15)という歴史的認識から、労働者の権利としての安息日という思想が成立した。つまり、どれとしての過重労働からの解放のしるしとしての安息日である。P典では、安息日についての規定は神学的に論議され、「わたしとあなたとの間のしるしである」(出エジプト31:12)、つまり安息日を守るということが神と民との関係の維持を意味するものとして理解されるようになる。
ここまで来ると、安息日というものが単に労働と休息という実際的なものというよりも、現実に存在するすべてのものに当てはめられるようになる。その典型が土地における安息である。
5. ヨベルの年
旧約聖書の農業を見ると、理想的な姿として、全ての農地に対して7年目を休耕することが命ぜられており、しかもそれが7回繰り返されて49年の次の年、つまり50年目には全ての農地を休ませねばならない。この年のことを「ヨベルの年」と呼び、その年には全ての土地の所有権が50年前の所有者に戻される、とされている。現代では常識になっているが、農地を休ませるという思想がすでに旧約聖書の中にあるということは驚きである。農地も休ませなければやせる。
この農地を休ませるという制度は、農地だけではなく、すべての経済関係にまで及ぶ。奴隷の所有権に関する規定、資産の貸借関係は、ヨベルの年にすべてご破算になるという。つまり、すべての経済関係はヨベルの年に元に戻る。従って、ヨベルの年を規準にして、それまでの残余期間によって価値が減少するので、貧乏人は金持ちから金を借り出そうとするし、金持ちは貸し渋る。
この制度は実際には実行されなかったようであるが、少なくとも理想的な姿としてイスラエルの人々は考えていたようである。これも旧約聖書における「休み」の思想の一つであろう。
6. 休ませないのは人間の問題
旧約聖書における安息日を休みということから鎖や足かせに変えたのは、人間の罪である。ヨベルの年を「絵に画いたもち」にしたのも、人間の欲である。人間は自分自身も休まなければ他のものも休ませない。
アモス書に面白い言葉がある。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ」(アモス5:8)。要するにここで言っていることは、新月祭だとか、安息日という宗教的戒律のために思うように商売ができないことを嘆いているのである。もちろん、預言者アモスはそういう嘆きを持つ人々を批判している。人間は休んでいる時間を非生産的な時間、無駄な時間と考える。しかし、神は休む時間を祝福の時(創世記2:3)と考える。聖書においては究極の休みが終末の祝福である(ヘブル書4;1,5,11、黙示録14:13)。
人間は休むことに祝福というよりも恐怖を感じている。働いている時間とは、他人によって、あるいは社会的義務によって拘束され、強制されている時間であり、その意味では「自分の時間」ではない。ところが、休んでいる時間は「わたしの時間」であり、自由な時間を意味する。自由な時間に何をしたらいいのか分からないのではなく、休みの時間こそ、その人自身の本質が露わになる時間でもある。それが恐ろしい。人間は誰かから強制されて何かをしている方が気休めになる。だから、人間は自分自身も休まないし、他人も休ませようとしない。そこにこそ人間の本質的な罪がある。
7. 主イエスは休むことを勧める
だからこそ、イエスは自分も休むし、弟子たちにも休むことを勧める。休むことによって、人間は自由を回復し、自分自身を取り戻す。イエスは人々に呼びかける。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)。この言葉についての解説は他日に譲る。イエスの福音の中心的メッセージは「休ませる」ということにある。
しかし残念なことに、本日の福音書のテキストにおいては、弟子たちも主イエスも休めなかった、というのが真相である。彼らが休めなかった理由は「大勢の群衆」が「飼い主のいない羊のような有り様」であったからである。「飼い主のいない羊」は休める状況にあっても「休めない」人々である。こういう人々が一人でもいなくなるまで、わたしたちは休めない。

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