落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第6主日(特定10)派遣

2006-07-14 21:12:56 | 説教
2006年 聖霊降臨後第6主日(特定10) (2006.7.16)
派遣   マルコ6:7-13
1. イエスの旅
本日のテキストの直前にこういう言葉がある。「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった」(6:6b)。この言葉は先週取り上げた「故郷での出来事」を締めくくる言葉であるが、同時に7節以降の12弟子の派遣の出来事へつなぐ編集句である。村々を巡り歩き、「宣教し、悪霊を追い出し」(マルコ1:39)、「イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった」(6:6b)という姿が、福音書特にマルコ福音書が描くイエスの普段の姿である。マルコにはないが、マタイやルカは「狐には穴あり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20、ルカ9:58)という言葉が記録されている。それが、イエスの旅であった。その旅は、出発点から目的地への旅といいよりも、あちらこちら自由に、必要に応じて、旅し、求められれば病気を癒やし、説教をするという旅である。
           
2. 原始教会における派遣
ところが、8節から11節において語られている旅は、特定の場所へ向かっての移動という色彩が濃厚である。むしろここでは、原始キリスト教会において巡回する伝道者たちへの規定が濃厚に反映しているように思う。その旅の状況が次の言葉に込められている。
「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(8~9節)。要するに、護身用の杖とサンダルとが必需品としてあげられているだけで、食料とかお金とか、着替えとかは現地で適当に調達する。調達といってもお金を払って買うという贅沢はできなかっただろうから、原則的には説教をしたり、病人を癒やしたりすることによって、恵んでもらうしか方法はなかったのだろう。もし食料が得られなければ食べないで済まさなければならない。あるいは乞食しなければならない。
3. 任地での生活
伝道者の巡回ということが制度的に成り立つためには、中央における宣教戦略と地方の方おけるある程度の受け入れ態勢が前提になっている。
10節の「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」という規定は意味深長である。含蓄のある規定であるが、要するに待遇の良し悪しについて、文句を言ってはならないということであろう。その点では100パーセント現地任せという姿勢である。
この規定が意味する基本的な点は、伝道者を迎えた現地の人々が伝道者の生活の面倒を見よ、ということであった。それに対応して、伝道者側でも教会が準備した生活に文句を付けてはならないということが規定されている。この点について、ルカはもっと詳しく述べる。「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな」(ルカ10:7)。マタイの場合は、もう少し深刻な状況を考慮して、「町や村に入ったら、そこでふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つまで、その人のもとにとどまりなさい」(マタイ9:11)とある。つまり、教会の内部における派閥に対する配慮ということであろうか。
4. 伝道者の質の問題
さて、以上の様な点が伝道者を迎える教会と伝道者とがどうあるべきかということを語っているが、ここに、より根本的な問題が隠されている。先ず第1に伝道者の側の問題として、伝道者自身の資質、特に霊的な力の問題があり、教会側の問題としては、迎える姿勢の問題がある。
7節には伝道者の資質の問題として「汚れた霊に対する権能を授け」とあり、信徒たちが「受け入る」のはこの「権能を持っている」からである。しかし、すべての伝道者が同じように権能を持っていたとは限らない。また、同じ伝道者にしても常に同じ様な権能を発揮できるとは限らない。時には無能な「ただの人」にすぎないときもある。マルコ福音書9章18節、28節では「無能な弟子たちの姿」が記録されている。派遣する伝道者のレベルの維持という問題は、特に教区のレベルでは重要な問題である。この点をないがしろにするときに、教会は生命を失う。
同様に、伝道者を迎える教会側にも重要な問題がある。イエスが故郷に立ち寄られたとき、故郷の人々はイエスを迎え入れなかった。イエスでさえ迎えられないときがある、ということは伝道者にとって大きな慰めであるが、もっと重要なことは、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いて癒やされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」ということである。霊的力というものは、迎え入れる人がいないところでは働かないという点である。そういう場所では、伝道者はただ出て行くだけである。
伝道者と信徒たちとが心から信頼し合い、共に祈るところで神の業は働く。

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