わが恩恵なんじに足れり。
この言葉は信仰の父アブラハムの、あるいは偉大な指導者モーセの、さらには苦難を乗り越えたヨブの言葉でさえもない。過去のどの聖人の言葉の引用でもない。だからこそ、神が今わたしに語られた言葉であるとしか言いようがない。しかも、3回も同じ祈りを繰り返したにもかかわらず、その祈りは聞き入れられず、その代わりに語られた言葉である。語られたと言うより、わたし自身の中から産み出された言葉である。ちょうど、母親が痛みと苦しみと喜びと満足と共に産み出した子どものように。だから、わたしにとっては使徒パウロの言葉でさえもない。(2004.11.7)
この言葉は信仰の父アブラハムの、あるいは偉大な指導者モーセの、さらには苦難を乗り越えたヨブの言葉でさえもない。過去のどの聖人の言葉の引用でもない。だからこそ、神が今わたしに語られた言葉であるとしか言いようがない。しかも、3回も同じ祈りを繰り返したにもかかわらず、その祈りは聞き入れられず、その代わりに語られた言葉である。語られたと言うより、わたし自身の中から産み出された言葉である。ちょうど、母親が痛みと苦しみと喜びと満足と共に産み出した子どものように。だから、わたしにとっては使徒パウロの言葉でさえもない。(2004.11.7)