落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

降臨節第3主日説教 歓迎

2004-12-06 19:47:59 | 説教
2004年 降臨節第3主日 (2004.12.12) 
歓迎  イザヤ35:1-10

1. まず始めに
まず始めに、本日の特祷から考えたい。祈りの中心部は「わたしたちは罪に妨げられて、苦しんでいますので、豊かな恵みをもって速やかに助け、お救いください」となっている。この祈りを単純に理解すると、わたしたちの苦労の原因は罪にある、言い換えるとわたしたち自身が悪いことをしたので苦しんでいるのだということになる。本当にそうだろうか。むしろ、問題はその罪とは誰の罪なのか、ということにあるように思う。じっくり読むと、この祈りにおいて苦しみの原因となっている罪とは「わたしの罪」ではないということである。ここでの罪とは「わたしを妨げるもの」であり、わたしに向かって襲いかかってくる罪である。誰かの罪というよりも、罪という現実の中でわたしたちは生きている、ということがまずここで認識されなくてはならない。従って、わたしたちは神に助けを祈ることができる。もし、苦しみがわたしの罪の結果であるならば、神に祈る前に、先ず反省し、罪を断ち切るということが大切である。おでは、そういう懺悔の祈りというよりも、神に対して「側に来てください」ということを願っている。罪という現実の中で痛めつけられ、苦しめられているので、わたしの側に来てください。これは実に切実な祈りである。神が側に来てくださるなら、どんな苦しみでも耐えることができるし、また最後の勝利を信じることができる。

2. イザヤの預言
本日の旧約聖書はイザヤの預言の言葉である。この預言の中心は「雄々しくあれ、恐れるな」である。なんと勇ましい言葉であろう。この言葉は「心おののく人々」(4節)に語られたメッセージである。人生の不条理を嘆き、未来への展望が開かれない、苦しい状況の中で不安に毎日を過ごしている人々に対する神のメッセージである。「見よ、あなたたちの神を」(4節)。「敵を打ち、悪に報いる神を」見上げよ。「神は来て、あなたたちを救われる」(4節)。5節から10節までの言葉は神がわたしたちのために何をなされるのか、ということが述べられている。
これらのイザヤの言葉を、本日の福音書(マタイ11:2-11)において、バプテスマのヨハネが獄中から主イエスに対して、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」という質問に対して、その答えとして主イエスご自身が引用しておられる。主イエスこそ、わたしたちの側に立ち、わたしたちをすべての罪から守り、元気づける方である。

3. クリスマス
間もなくわたしたちはクリスマスを迎える。クリスマスとは主イエスご自身をわたしたちの心の中にお迎えすることである、と言われる。その通りであろう。しかし、それ以上に重要で、確かなことがある。それは、クリスマスにおいて、わたしたちが主イエスを迎えるのではなく、実はわたしたち自身が主イエスから迎えられているということに気付くであろう。イザヤは語る。「主に贖われた人々は帰ってくる。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」(イザヤ書35:10)。

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