落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> キリスト者の日常生活  エフェソ5:15~20

2009-08-10 14:58:22 | 講釈
2009年 聖霊降臨後第11日(特定15) 2009.8.16
<講釈> キリスト者の日常生活  エフェソ5:15~20

1. 文脈
既に先週の<講釈>で述べたように、4:25~6:20ではキリスト者の「新しい生き方」について具体的な問題を取り上げ論じ、6:21~24は書簡としての締めくくりの挨拶となっている。とくに、4:25~5:5までは格言的な文章になっている。それを受けて5:6~14では「光の子」という言葉を用いて説明しているが。文脈としては挿入文的な感じがする。この部分については、エルサレムの神殿の崩壊の頃、大多数のエッセネ派の人々がキリスト教に加わり、彼らの影響が見られる学者もいるが、そうかも知れないし、そうでないかも知れない。
本日のテキストとして選ばれている5:15~20(解釈者によっては21節までをひとまとめとする。)は、キリスト者の生き方を総括的に述べており、22節以下では夫婦関係(22~33)、親子関係(6:1~4)、奴隷と主人(6:5~9)といういわばキリスト者の家庭問題に立ち入った議論と対照的になっている。
2. 終末論と日常性
緊急事態が発生したときには、とくにそれが生きるか死ぬかというような時間の場合には日常的な考えや価値意識や倫理観は中止される。殺人という究極的な犯罪においても、それが緊急事態や正当防衛においては罪にならない。そういう状況では「緊急避難」ということが最優先される。終末論とは基本的にはそういう緊急事態を意味する。最初期のキリスト教信仰においてはこの終末意識が最優先され、そこでの生き方が問題にされてきた。ところが、エフェソ書の時代になるとそういう意識は薄れ、むしろ日常生活が重要視されるようになる。
3. キリスト者の日常生活
16節の「時代」という言葉は正確には「日」または「昼」の複数形で「日々(ヘーメライ)」を意味する言葉で、わたしたちの言葉でいうと日常生活の場を意味する。キリスト者といえでも「あの世」で生きているわけではなく、すべての人々と共に日常的な生活をしている。問題はこの日常性の中でキリスト者はどういう生き方をするのか。ここ以外のところでどんなにすばらしい信仰生活を過ごしたところで、それはただそれだけのことで、生きているという意味は出てこない。教会の中でどんなに敬虔な信仰生活を過ごしているとしても、その人の日常生活がなっていなければ虚しい。実は日常性そのものがキリスト者がキリスト者であることの本領を発揮すべき働き場である。エフェソ書の著者はそれを問題にしている。
日常生活を成り立たせている必須条件は隣人と共に生きる場である。ジャングルの中でたった一人さまよって生きている場を日常生活とはいわない。それは緊急事態である。日常生活の中で、その日常性に疲れたとき、わたしたちは「一人に」なりたくなる。それは決して日常性ではない。日常性とは、誰かと共に、食べたり、寝たり、遊んだり、笑ったり、泣いたりするのが日常性である。その意味で少し先走ったことを言うと、教会そのものが日常性であると共に、教会は日常性から離れた場所にある。教会という場所は日常性と非日常性とが交わる場所であり、中間地点でもあるし、またそうならねばならない場所でもある。
エフェソ書の著者は、キリスト者が勝負すべき日常生活という場は決して「楽な場所」とは考えていない。むしろ、そこはキリスト者の信仰生活にとって非常に難しい場所である。毎日毎日がいやな日の連続である。それは必ずしも迫害の時代であるとか、経済的に極度の貧困であるということを意味しない。ここで取り上げられている悪い時代だという意味は2つある。一つは積極的に「主の御心」を悟りやすいか否か。もう一つは消極的に「身を持ち崩」しやすいか否か。その意味では現在は聖書の時代よりも「もっと悪い時代」かもしれない。
4. 神の御心を悟りにくい日々
キリスト者を取り囲む具体的な場、毎日毎日は神の御心を悟りにくくなっている。一つには情報が多すぎて何かを知るための努力というものが不必要になってきている。そういう中で自分が何かを知りたいと思って求めるとなかなか得られない。現代社会というものは人間を受け身の人間にしてしまう。
5. 身を持ち崩しやすい日々
受け身の生活が身に付くと、苦しんで何かをするとか、主体的になるということが面倒くさくなる。そのこと自体が既に身を持ち崩すということであるが、このような情況というものは、もっと深く崩れていく。ここでは「酒に酔う」ということが取り上げられているが、問題は酒だけではない。テレビでも、ゲームでも、ゴルフでも、自動車でも、現代人の身を持ち崩させるものは溢れている。
6. 「時をよく用いなさい」
こういう時代にあって、キリスト者が毎日毎日なすべき、努力すべき務めとしてパウロは「時をよく用いなさい」と勧める。この言葉は面白い。元々の意味を直訳すると「一瞬一瞬」という時間、あっと言う間に過ぎ去ってしまう「一瞬」、二度と繰り返すことのない「その時間」を「買い占めよ」という意味である。買い占めるという言葉は非常に面白い。商売をしている人ならば分かることであるが、買い占めるということは非常に難しい。普通の買い物とは訳が違う。買い占めるというのは、正に勝負である。そこには大変な決断がいる。もし誰もそのものの値打ちを知らないならば、買い占めるということは比較的簡単かも知れない。しかし他に買いたい人がおると、買い占めるということは戦いになる。
キリスト者にとって日常生活こそが勝負のしどころである。一瞬一瞬という時間を買い占めるということは、具体的にはどういうことを意味しているのだろうか。いろいろ考えることはあるが、要するに意味のある時間を過ごすということであり、時間を無駄にしない、ということであろう。
キリスト者にとって日常生活こそが「勝負のしどころ」である。一瞬一瞬という時間を買い占めるということは、具体的にはどういうことを意味しているのだろうか。いろいろ考えることはあるが、要するに意味のある時間を過ごすということであり、時間を無駄にしない、ということであろう。実はそのことについて総括する文章が21節にある。この21節をこの部分の総括と見るか、あるいは次の文脈を導き出す導入の言葉と見るか議論のあるところであるが、要するに、キリスト者の日常生活を総括する言葉であることには違いない。読んでみよう。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」。
ここで一寸注目すべき点は、「キリストに対する畏れ」というとらえ方である。エフェソ書の時代では既にキリストを「畏れるべきもの」として捉えていたことを示す。これは基本的には神に対する態度を示す。ということは、対人関係においてお互いに相手を、妻は夫に、夫は妻に、親は子どもに、子どもは親に、主人は奴隷に、奴隷は主人に「神に対する畏れ」をもって仕える。これは当時の社会においては革命的な事柄であろう。
7. 7つの勧め
(1)細かく気を配って歩みなさい。
(2)時をよく用いなさい。
(3)主の御心が何であるかを悟りなさい。
(4)酒に酔いしれてはなりません。
(5)詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合いなさい。
(6)主に向かって心からほめ歌いなさい。
(7)いつも、あらゆることについて父である神に感謝しなさい。

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