落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第11日(特定15)説教 キリスト者の日常生活

2009-08-12 09:27:07 | 説教
2009年 聖霊降臨後第11日(特定15) 2009.8.16
キリスト者の日常生活  エフェソ5:15~20

1. キリスト者の日常生活
ここでは、キリスト者の日常生活についての勧めが述べられている。16節で用いられている「時代」という言葉は正確には「日」または「昼」を意味する単語の複数形で、「日々」を意味する。従ってここで問題になっているキリスト者の生き方の場は日々つまり日常である。日常こそがキリスト者がキリスト者であることの本領を発揮すべき働き場である。ここ以外のところでどんなに「すばらしい信仰生活」を過ごしたところで、それはただそれだけのことで、生きているという意味は出てこない。
日常生活を成り立たせている必須条件は隣人と共に生きる場であるということにある。山奥で生活していてもそれは隠遁生活ではあっても日常生活ではいわない。それは一種の非常事態である。隠遁生活が無意味だというのではない。それなりに意味がある。日常生活の中で、その日常性に疲れたとき、わたしたちは一人になりたくなる。それは決して日常性ではない。日常性とは、誰かと共に、食べたり、寝たり、遊んだり、笑ったり、泣いたりするのが日常性である。
エフェソ書の著者は、キリスト者が勝負すべき日常生活という場は「悪い」という。決して楽な場所とは考えていない。むしろ、そこはキリスト者の信仰生活にとって非常に難しい場所である。毎日毎日がいやな日の連続である。それは必ずしも迫害の時代であるとか、経済的に極度の貧困であるということを意味しない。ここで取り上げられている悪い時代だという意味は2つある。一つは積極的に「主の御心」を悟りやすいか否か。もう一つは消極的に「身を持ち崩」しやすいか否か。その意味では現在は聖書の時代よりも「もっと悪い時代」なのかもしれない。
2. 神の御心を悟りにくい日々
キリスト者を取り囲む具体的な場、毎日毎日は神の御心を悟りにくくなっている。一つには情報が多すぎて、何かを知るための努力というものがほとんど不必要になってきている。そういう中で、自分が何かを知りたいと思って求めると、なかなか得られない。現代社会というものは人間を「受け身の人間」にしてしまう。
3. 身を持ち崩しやすい日々
受け身の生活が身に付くと、苦しんで何かをするとか、主体的になるということが面倒くさくなる。そのこと自体が既に「身を持ち崩す」ということであるが、このような情況というものは、もっと深く崩れていく。ここでは「酒に酔う」ということが取り上げられているが、問題は「酒」だけではない。テレビでも、ゲームでも、ゴルフでも、自動車でも、現代人の身を持ち崩させるものは溢れている。最近は麻薬の害が叫ばれている。
4. 「時をよく用いなさい」
こういう時代にあって、キリスト者が毎日毎日なすべき、努力すべき務めとして「時をよく用いなさい」と勧められている。この言葉は面白い。元々の意味を直訳すると「一瞬一瞬」という時間、あっと言う間に過ぎ去ってしまう「一瞬」、二度と繰り返すことのない「その時間」を「買い占めよ」という意味である。「買い占める」という言葉は非常に面白い。商売をしている人ならば分かることであるが、「買い占める」ということは非常に難しい。普通の「買い物」とは訳が違う。買い占めるというのは、正に「勝負」である。そこには大変な決断がいる。もし、誰もそのものの値打ちを知らないならば「買い占める」ということは比較的簡単かも知れない。しかし、他に買いたい人がおると、「買い占める」ということは「戦い」になる。
5. 互いに仕え合う
キリスト者にとって日常生活こそが「勝負のしどころ」である。一瞬一瞬という時間を買い占めるということは、具体的にはどういうことを意味しているのだろうか。いろいろ考えることはあるが、要するに意味のある時間を過ごすということであり、時間を無駄にしない、ということであろう。ここでいう「時」とは物理的時間を意味しない。むしろ人と人とが関わる時間である。その一つ一つの関わりを無駄にしないで、有益な人間関係の形成する。実はその秘訣を示す言葉が21節にある。この21節をこの部分の総括と見るか、あるいは次の文脈を導き出す導入の言葉と見るか議論のあるところであるが、要するに、キリスト者の日常生活を総括する言葉であることには違いない。読んでみよう。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」。
ここで一寸注目すべき点は、「キリストに対する畏れ」というとらえ方である。エフェソ書の時代では既にキリストを「畏れるべきもの」として捉えていたことを示す。これは基本的には神に対する態度を示す。ということは、対人関係においてお互いに相手を、妻は夫に、夫は妻に、親は子どもに、子どもは親に、主人は奴隷に、奴隷は主人に「神に対する畏れ」をもって仕える。これは当時の社会においては革命的な事柄であろう。

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