落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>「インマヌエル 詩23」

2011-11-17 09:03:43 | 講釈
S11T29Ps023(L)
2011.11.20
降臨節前主日(特定29)<講釈>「インマヌエル 詩23」

1.降臨節前主日に読まれる詩23
詩23については久留米聖公教会では復活節第4主日(5月15日)に取り上げた。その時は詩23を文語訳をテキストとして全体を味わった。今回は詩23を1年の最後の主日のテキストとして考える。実は詩23は葬送式や逝去者記念の式において取り上げられる場合が多い。つまり年の終わりとか人生の終わりに詩23を読むと、普段に読むのとは随分味わいが異なり、詩23のもつ深い意味が出てくる。

詩23は第1節があまりにも有名で、そちらの方に関心が向いてしまうが、実はこの詩の最も重要なメッセージは4節の後半にある。「あなたがわたしとともにおられ、あなたの鞭と杖はわたしを導く」。とくに本日注目したい言葉は「あなたがわたしとともにおられ」という部分である。ここで用いられている「共にいます(インマーヌ)」という言葉は通常使われる「共にいる(イム)」とは異なり、神が共にいるという場合にだけ用いられる。この言葉に神を示す「エル」を語尾に付けると「インマヌエル」という言葉になる。「神共にいます(インマヌエル)」という言葉は聖書を貫く非常に重要な思想である。
「インマヌエル」、どこかで聞いたことがあるでしょう。

2.旧約聖書における「神共にいます」という思想
言葉遣いは色々あるが要するに「神共にいます」という思想は旧約聖書を貫く一本の太い線である。とくに民族の指導者たちに対する神の励ましの言葉は「わたしはあなたと共にいる」という言葉によって始まっているケースが多い。この「神共にいます」という思想が凝縮された言葉が「インマヌエル」である。
ただ、不思議なことにこの「インマヌエル」という言葉は旧約聖書では3回しか用いられていない。おそらく、古代イスラエル人にとって「神共にいます」ということは議論するような事柄ではなく、つまり概念化される以前の現実であったのであろう。従って「言葉」」ではなく、「モーセの杖」とか「神の筺」、最終的には「神殿」として現実に目に見える形として捉えられている。「インマヌエル」という言葉を3回用いているイザヤもこれを議論するような概念としてではなく、将来現れる救済者の名称として擬人化され用いられている(イザヤ7:14、8:8、8:10)。

3.「インマヌエルの謎」
新約聖書においても「インマヌエル」という言葉はマタイが1回だけ用いているだけである。しかも、それは生まれてくる子ども、つまり「イエス」と名付けられた子どもの名前としてイザヤ書7:14の言葉を唐突に引用しているだけで(1:23)、その後この言葉についての解説や展開が一つも見られない。その意味では謎に満ちたまま放置されている。
生まれて来る子どもの名前についてはマタイは混乱している。1:20で主の天使が父親になるヨセフに対して「その子をイエスの名付けなさい」と命じており、そのことについて著者マタイは、これは「主の預言」の実現であると解説している。そこまではいい。ところが、その「主の預言」の中で述べられている名前は「インマヌエル」である。マタイはイエスの名前について、わざわざとんちんかんな預言を引用していることになる。しかも、その引用は軽率な間違いという訳ではなく「インマヌエル」という名前についての解説まで施している。おそらくマタイはイエスについて、「インマヌエル」の預言、ないしは「インマヌエル」という言葉との関連についてもっと論じたかったのであろうが、それが未消化のままに時間が過ぎてしまったのであろう。
その後のキリスト教会においてもほとんどこの言葉を神学的テーマとして取り上げてきていない。イエスは神か人かという深刻な議論においても「インマヌエル」という言葉はほとんど無視されたようである。時折、行きずりのように「神共にいます」という意味で、説教などの使われたり、あるいは教会の名称として用いられることがあっても、神学的概念として、あるいは神学的テーマとして取り上げられることはほとんどなかった。

私がまだ神学生であった頃、西田幾多郎先生の第1の高弟であり、彼自身仏教哲学者である西谷啓治先生の講演を聴く機会があった。その時の聴衆のほとんどはキリスト者であったが、西谷先生は「あなた方はパウロが言う『我キリストと偕に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我がうちに在りて生くるなり』(ガラテヤ2:20)という言葉をどういう風に理解しているのか」と問いかけられた。それ以後、ずっとこの問いを考えている。この問いも、結局は「神共にいます(インマヌエル)」をどう受け止めているのかという問いである。キリスト者はわりあい平気で「神共にいます」ということを口にするが、この言葉が意味していることを真剣に、深く考えたことがない。「神」という絶対者、永遠者と「われ」という相対的存在、時間的人間とが共存するとはどういうことなのか、考えたことがない。キリスト者の間では、お別れの時の挨拶とか、試験に臨むときの励ましのと時などにほとんど使われるほとんど無意味な言葉になっている。
ところが、この「インマヌエル」という言葉を神学的テーマとして取り上げ、神学的概念として展開したのが、日本の哲学者、滝沢克己先生(1909-1984)である。滝沢がこの言葉を見出したのは、西田哲学における「絶対矛盾的自己同一」という哲学的概念との関連においてであり、滝沢はそれを「インマヌエルの原事実」と表現した。
滝沢の言う「インマヌエルの原事実」とは、ざっくり言って、人間が人間であるという事実は、その根底において神と人間とが接触している(第1の接触)からで、その接触点を「原点」と呼ぶ。これが西田哲学で言うと「絶対矛盾的自己同一」(有限と無限、絶対と相対、時間と永遠)ということで、聖書ではそれを「インマヌエル」と呼ぶ。この「インマヌエルの原事実」の光に照らされて、人間は信仰者として生きる事(第2の接触)が出来る。この点においてはキリスト者も仏者も同じ地平に立っている。

4.「インマヌエル」とは
インマヌエルとはイエスの別称と言うよりも、イエスがインマヌエルであり、「神共にいます」という人間の根源的事実を示す象徴的に表現である、という意味である。イエスがインマヌエルである。イエスにおいて人間は神と向かいあう。イエスにおいて、私たちは「神共にいます」と言える。その意味において、イエスは私たちにとって神であり、人であり、インマヌエルである。もう少し視点を変えると、私たちすべての人間の根底にインマヌエルとしてのイエスがおられ、そのイエスにおいて神共にいますということが現実となる。
ところで私たちは「神が共にいる」ということ、つまりインマヌエルをどういうときに感じるのであろう。ただ、頭の中で人間の根底にインマヌエルの原事実があるのだと言われても、結局は「ああ、そうですか。人間とはそういうものなのですか」と言うだけのことで、そこには何の喜びも、あるいは恐ろしさもない。こういうのを観念論という。ただ人間という存在について、そういうものだということを言っているに過ぎない。だからこそ、旧約聖書も、新約聖書も「インマヌエル」という言葉を哲学的に、あるいは神学的に論じることを避けてきたのであろう。インマヌエルとは私たちの現実的な生活と直接しているものである。だが、お腹がすいたとか、喉が渇いたとか、顔色が悪いとか、機嫌がいいとかいうように直接に見えるものではない。では、どういうときにインマヌエルという現実が姿を現すのだろうか。そういうことになると、旧約聖書も、新約聖書も、あるいは教会の歴史においても数多く見られる。創世記のヨセフ物語などはまさに神共にいますという物語であるといってもいいほどである。聖書においては「神共にいます」という人間の根源的な事実が実生活の中に「喜ばしい事実」として立ち現れるということを語っている。ただ単なる事実ではなく「喜ばしき事実」である。
今日は、思い切って、私の独断で一つの物語を取り上げる。それは父祖ヤコブの物語である。
ヤコブという人物は自分の才覚を信じていた代表的な人物である。それこそ裸一貫で祖父アブラハムと父イサクとが築いてきた財産に匹敵する財産を一人で稼ぎ、故郷に錦を飾った人物である。
ヤコブは双子の弟で、兄はエサウ、当然父の財産はエサウが嗣ぐことになっていたが、母親と結託して父親を騙し、相続権を奪った。ところが、そのことで、もともと乱暴な兄エサウは非常に怒り、ヤコブを殺そうとする。その状態を見て両親も密かにヤコブを家出させる。ヤコブの側からいうならば、父と母はエサウを取りヤコブを捨てたのである。ヤコブは僅かの身の回りのものをもって、たった一人で父の家を出た。そこは野獣や盗賊が跋扈する荒れ野である。恐らくヤコブの気持ちは「えらいことをしてしまった」という悔いと、今さら家に帰れないという寂しさと、将来への不安でいっぱいであったものと思われる。完全な孤独である。星のきらめく砂漠で石を枕に一人寝る。昼間の疲れで寝込んでしまう。
ここからは創世記28:12-19を読む。

<すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。>
これが旧約聖書における典型的な「神共にいます」という経験である。人生に行き詰まり、自分だけの力ではどうにもならない状況において、たとえをそうなった原因が自分自身にあったとしても、そこにインマヌエルの現実が顔を出す。連戦連勝が勝ち誇っているときにはインマヌエルの現実は見えない。悩みの中で、神なんかいないと思われる状況において、神はご自身の存在を明らかにする。

5.詩23:6
「神の恵みと慈しみは、生きている限り、わたしに伴い、わたしは永遠に主の家に住む」。フランシスコ会訳では、この部分を「恵みと慈しみとは生涯わたしに伴う」と訳している。人生の終わり、あるいは1年の終わりに詩23:6の言葉がしみじみと感じられる。この「伴う」という言葉を浅野順一先生は「追いかけてくる」と訳している。インマヌエルの事実は現実の場においては「神の恵みと慈しみ」として現れている。
最後に「足跡」という題の詩を紹介しよう。

ある夜、夢を見た。主と共に浜辺を歩んでいる夢を。
空の向こうには歩んできた人生のさまざまなシーンが映し出されて、
でも、いつも二筋の足跡がくっきりと浜辺の砂に残されている。
一つはわたしのもの、もう一つは主のものと。

人生の最後のシーンが映し出されて、砂の上に残された足跡を振り返る。
過ぎ去った人生の幾年月、苦しかったあの時、悲しかったあの頃、
だが、ああ、その時の足跡は、ただ一筋だけだった。
わたしは主に尋ねた。いぶかりながら、
主よ、わたしがあなたに従いますと、決心しましたときに、
あなたは、いつでも、どこでも、お前と一緒にいるよ、
とあのように堅くかたく言われました。
それなのに、何故、あの足跡を見て下さい。

ただ一筋の足跡を、わたしが最も苦しかったときに、
主よ、何故に、あなたはわたしを見放されたのですか。
主は答えられた。

わが子よ、愛するわが子よ、
わたしは決して、けっして 離れてはいないよ。
あなたが、苦しみ、あえいでいた、あのときに、
あなたが、悲しみの底にあった、あのときに、
わたしは、いつも、あなたを抱きしめて、あなたを背負って、
歩いていたのだよ。
見てごらん、あの一筋の足跡を。

いろいろな翻訳がありますが、高田キリスト教会の松尾克巳さんが翻訳し、同教会の百年誌に掲載されているものを紹介いたします。

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