落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<覚え書き> 主教職考  使徒言行録1:15~26

2009-05-20 10:13:46 | パン屑
2009年 復活節第7主日 2009.5.24
<覚え書き> 主教職考  使徒言行録1:15~26

1. はじめに
この主日の説教は実際に説教台から語られる予定はないので、思い切って「主教選挙」について論じておく。ここでいう「主教選挙」とは現在の日本聖公会の主教選挙であるが、とくに特定の教区や主教のことを念頭に置いているわけではない。
2. 最初の主教選挙
先ず初めに、本日のテキストは教会の歴史において最初の主教選挙ともいうべき出来事についての記録であることを確認しておこう。もちろん、この出来事が実際にはどういう形でなされたのかは確定できないが、少なくとも使徒言行録の著者はそのことを明白に意識にしてのべている。もちろん、この場合、使徒と主教とを単純に同定することはできないが、そのことについては別の機会に論じることとする。
その時の手続きを確認しておく。
まず、ペトロが「兄弟たちの中に」立ち上がって演説をする。演説の最初の部分は、「同じ任務を割り当てられていた」「仲間の一人」が死んだ経過報告、つまり使徒職の欠員の確認がなされている。この部分の表現はなかなか意味深長である。丁寧に11人の名前が明記されている。従って、「兄弟たちの中に立ち」という表現も11人の仲間ということがかなり意識されているように思う。その「仲間の一人」が死んだのである。そして、死んだユダを含めて12人は「同じ任務を割り当てられていた」という。「使徒としてのこの任務」(25節)が意識されている。
次に、ユダの死に対する初代教会の姿勢の問題として「呪いの」詩編(69:26)が引用され、ユダの後継者についての詩編が引用されている。読んでみると、「彼の生涯は短くされ、地位は他人に取りあげられる」となっている。これはなかなか意味深長であるが、初代教会ではこの詩編に基づいて、12使徒の職位を固定したものとして考え、ユダの代わりにその「職務を分担する」者を選ぶ根拠とした。
その職務に就く人の条件として「ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天にあげられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれかひとり」(21節)ということが述べられている。
その条件に合う者の中から、二人が候補者として選ばれた。それがユストともいうヨセフとマティアであった。ここまではいわば人間的判断である。そして、最後はやはり神の意志を問うている。二人を立てて、祈り、最後にくじで決めている。これは注目に値する。その結果マティアに当たったので、彼が11人の使徒の仲間に加えられることになった。
ここで述べられている使徒の資格は後代の主教の資格とはかなり異なる。使徒言行録の著者は使徒職をマティアを含む12人に限定し、パウロさえも使徒とは呼ばない。
3. くじで選んだ
とくに注目したい点は、使徒の選出が最終的にはくじによって決定されたということである。もっとも、このくじの前に、使徒としての条件が明確にされ、その条件に合う人の中から候補者を二人に絞っている。つまり、この段階で人間の知恵は十分に発揮されている。その結果が二人である。いうならば、どちらが選ばれても使徒としての資格を持っている。
わたしたちの主教の選出において重要なことは、人間が選ぶという局面と神が選ぶという局面とをいかに制度化するかということである。これが分離されている限り、神が選ぶという局面は建前化する。歴史的には、その点についていろいろな工夫がなされてきたことは明らかである。そこが、主教の選出と、自分たちの代表を選ぶという民主主義の手続きとが、根本的に異なる点である。人間の判断が50パーセント、神による決定が50パーセントというわけでもない。人間側の努力としては100パーセント尽くす。その上で、最終的決定を神に委ねる。従って、そこで決定された主教はわたしたちが選んだのではなく、神による決定によるという確信の根拠がある。当然、主教の選出方法については多くの歴史的変遷があり、それらの歴史的経過の末、現在の日本聖公会での主教選出の手続きは成立している。つまり、聖職団と信徒代議員とでそれぞれ別に投票し、それぞれで同時に3分の2以上の得票において決定するという方式にはそれなりの正統性がある。単純な多数決よりはかなり複雑化しており、それだけの賛同者なしには主教として選ばれないというのも、確かに一つの方式であろう。しかし、この選出方法が唯一絶対のものではないことは当然で、アングリカン・コミュニオンにおいても選出方法は多様である。日本聖公会の選出方法はポジティブに機能している限りあまり問題はないが、ネガティブに機能すると問題が生じる。具体的にいうと、聖職団と信徒代議員との過半数がこの人は主教として相応しいと思っても、聖職団あるいは信徒代議員の3分の1が反対したら主教に選ばれないということである。つまり、少数意見が大勢を支配するということになる。そうなると、結局は教区内の派閥や利害関係や、好き嫌いの力学によって選挙結果の動向が決まってしまう。多くの場合、主教としてのカリスマの豊かな人物にはそういう人が多い。その結果、個性が強く、敵味方がはっきりしている人物が主教に選ばれる率は非常に低くなっている。言い換えると、「誰にでも好かれる」かあるいは「よく分からない」、八方美人的な人間が選ばれるケースが増えている。早い話、限られた数の聖職団の3分の1以上の聖職が反対すると主教には選ばれない。聖職の数が20人ほどだとすると7人の聖職から嫌われていたらもう駄目である。と言っても、政治の世界のように「運動」は建前上なされない訳であるから、調整は非常に困難になり、最悪の場合は自分の教区で主教を選出はできず、総会に委ねるということになる。それが現実ではないか。総会での選出の問題点については、ここでは取り上げない。
それでは、いかにして神の決定ということを日本聖公会という組織の中で具体化できるのだろうか。最終的な答えは、一人一人の議員(聖職と信徒代議員)の霊性によるしかない。その霊性とは、個人的な利害関係や好き嫌い、人間関係の距離感等から完全に自由になっていること、としか言いようがないが、それはほとんど不可能に近い希望にすぎないであろう。ここはそれに対する答えを出すべき場ではないので、そのことについては判断を停止する。
ただ、初代の教会において、最終的決定をくじに委ねたということについては、「神話的」だとすることはできない。案外、問題の本質を突いた答えなのかも知れない。ただ、残念ながら、ここで選ばれたマティアがその後どういう働きをしたのかについて聖書は何も語らないし、そこで選ればれなかったユストともいうヨセフのその後も何も語られていない。むしろ、使徒言行録が語るようにその後の教会は使徒ではないパウロやステファノ、バルナバ、フィリポ等の働きによって発展したのである。むしろ、キリスト教に対する迫害が激しくなってきたとき、使徒団の代表者と見なされたペトロは、使徒言行録12:17で「そこを出ていって他の所へ行った」という言葉を残して姿を消す。現代の言葉でいうと「地下に潜った」。言い換えると、使徒団の代表者という職務は「表に建たなくてもできる」ということである。その後にペトロの姿が現れるのは、初期の教会が分裂するかも知れないという危機に直面した際に急遽開催されたエルサレム会議の席である。そこで使徒ペトロはユダヤ人キリスト者と非ユダヤ人キリスト者との一致を呼びかけるという歴史に残る大説教をしている(使徒言行録15:7ff)。この説教の結果教会は新しい方向付けを得ている。そして具体的な方針についてはヤコブが取り仕切っている。ヤコブは使徒ではない。
4. 使徒の職務の限定
このことは、初期の教会における使徒の役割と現代の教会における主教の役割とを考える際、非常に重要な示唆を与えるのではなかろうか。使徒言行録の6章に7人の執事を選出按手した際に、12人の使徒は「わたしたちは祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(6:4)と宣言し、一同はこの提案に賛成している。使徒ペトロは、上に見たとおり、普段は宣教の第一線から身を引き、しかしここという重要な場面で決定的な方向付けをする。エルサレム会議に姿を現した使徒ペトロは教会の進むべき道について大局的立場から説教をしている。これが「祈りと御言葉に専念する」使徒の職務である。使徒の職務は説教にある。ここに重要な職務(機能)の分化が見られる。
宣教の先頭に立つのは使徒ではなく使徒以外の聖職と信徒であり、使徒はその背後にあって「祈りと御言葉に専心する」。
5. わたしの提案
この職務の分化ということについて、一つの大胆な提案をしたい。この祈りと御言葉への専心とは、言い換えると使徒職から人事と経済とをはずすということである。現在では定年制により主教職も終身職ではなくなったとは言え、定年あるいは余程のことがない限り主教職は辞職できないことになっている。言い換えると「職を賭して何かを決定する」ということができないのが主教職である。教皇無謬というカトリック教会における基本的な教理について、プロテスタント諸教会では「馬鹿らしい」と簡単に否定するが、実はそこには非常に深い真理が込められている。この教理は裏から考えると、間違いの可能性が一分でもある場合には、教皇はその決定に参加しないということであろう。責任をとって職を辞することができる人に委ねる。ヨハネ福音書第8章の姦通の現場を捕らえられた女性に対して「わたしもあなたを罪に定めない」(8:11)と言われたイエスの態度をもう一度読み直す必要があるのではなかろうか。この「定めない」という姿勢こそ主教の取るべき姿勢ではないだろうか。その意味において、失敗の可能性が大きい生々しい役割は主教職になじまないのではないだろうか。むしろ、失敗する可能性がある役職においては、3年とか4年という期限、あるいは責任をとって辞職する可能性が担保されていることが重要である。
日本聖公会では採用されていないが世界の聖公会においてはアーチディーコン(Archdeacon)という役職がある。大執事と訳される場合が多いが、要するに主教を補佐する立場である。この場合「補佐」というよりも「執行機関の長」を意味し、わかりやすくいうと「内閣官房長官」のような立場であろう。この制度を取り入ればいいと思う。大執事の選出方法については、過半数による選挙が適当であろう。象徴的な言い方をすると教区会において主教は教区の進むべき方向や霊的な問題について演説(説教)し、それを受けて大執事が議長となって具体的な問題を審議する。
6. 魂の牧者
主教の選出の方法については、いろいろ協議する可能性はあるが、結局いかなる方法が選ばれようと、結果はそれ程大きな変革が期待できない。むしろ、主教選出の方法についてはそのままにしておき、主教職の内容を制限することによって、主教に選ばれるべき人物についてのイメージを半角するという点にある。その聖書的根拠としては、主教職を1ペテロ2:25の「魂の牧者」に特化するということである。
以上はあくまでも定年退職した一人の司祭の個人的な意見であり、いわば「たわごと」にすぎない。

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