落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 「愚か者よ」 ルカ12:13-21

2013-07-28 11:35:25 | 講釈
皆さま、暑いですね。いかがお過ごしですか。
一月に一回の礼拝奉仕になりますと、説教と説教の間が開きすぎて、その間に、いろいろなことが入ってきて「間が抜けて」しまいます。今回は、7月の中旬頃、阿蘇への一泊旅行、下旬には孫息子の(九州への)帰省、その間に辻邦生の『背教者ユリアヌス』を断続的に読むなど、結構忙しく過ごしています。お盆の頃には娘と孫娘とが来訪する予定です。
9月からは一月に二回のテンポに戻す予定です。

2013T13(L)
2013年 聖霊降臨後第11主日(特定13) 2013.8.4
<講釈> 「愚か者よ」 ルカ12:13-21

1. ルカ福音書における富に関する警告
本日のテキストに入る前に、ルカの金銭観についての基本的な考えをまとめておく。
ルカ福音書は金持ち(富)に対しては非常に厳しい視点を持っている。最も基本的な姿勢は「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(14:33)という言葉に示されている。ルカにとって単に富だけではなく、いっさいの私的所有物(ルカ5:11、5:28、14:26、18:28)がイエスの弟子であることの妨げとなる。この点について、もう少し詳細に見ていくとマルコ4:19の「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」という言葉を「人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」(ルカ8:14)と書き換えている。つまり、マルコの「その他いろいろな欲望」という一般的な欲望をルカは「快楽」という言葉にまとめる。ここでいう快楽とは放蕩(15:13)、贅沢な生活(16:19)を意味するのであろう。
また富そのものについてのむなしさを「愚かな金持ち」の譬え(12:13-34)で語り、「金持ちとラザロ」の譬えでは、金持ちはただ金持ちであるというだけで来生での不幸を笑い、ラザロはただ貧乏であるというだけで来生での幸せが保障されていると語る。
またファリサイ派の人々を「金に執着する(連中)」(16:14)と表現し、「不正な管理人」(16:1-13)の譬えでは「不正にまみれた富で友達を作る」ことが勧められ、「神と富とに仕えることはできない」と結論づける。一見するとルカは富そのものを汚れたものとしているかのように思われるが、実は「金の有用性」についても語る。ザアカイ物語では財産を貧しい人に施すことが賞賛されている(19:1-10)。
「持ち物」についてルカだけが述べている記事がある。多くの女性たちが「自分たちの持ち物をもってイエス一行に奉仕した」(8:3)という記事である。ルカは理想的な共同体として「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(使徒言行録2:44-45)と描いている。財産(富)は施す(=分かち合う)ことによって「富を天に積む」(12:33)ことになる。

2. テキストの構造と語義
本日のテキストは金銭、あるいは財産についての群衆に対する教えがまとめられている。構造としては3つの部分に分けられる。
先ず最初の部分(13-14)は群衆の一人がイエスに対して「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」という言葉から始まる。遺産の分配ということは深刻な問題である。遺産問題はその人にとって最も身近な兄弟姉妹との間で起こる事柄なので、その深刻さは外部の人々には想像もできない。遺産はあればあるで、あるいは、なければないで、その人の職業や生き方とも深く関係する場合もある。私自身のことを考えても、もし私の親が資産家で莫大な遺産を残すというようなことがあったとしたら、今とは全く異なった人生を送ったかも知れない。その意味では、私の両親は貧乏で、私たち兄弟に何も残さなかったから、私たち3人の兄弟は今のような生き方をしているのだと思う。
私のことはともかく、遺産の分配ということには常に不満が残るものである。数字で割り切れる資産もあれば、簡単に割り切れない資産もあったり、思い出というその家族にしか分からない財産もある。
という訳で、ある人がイエスに相談に来たのであろう。イエスなら私の不満な気持ちを理解してくれるとでも思ったのだろうか、あるいはイエスが兄弟たちとの関係を何とか調停してくれるとでも思ったのか。それに対するイエスの態度はあまりにも冷たい。普段のイエスの姿勢を知っている者にとっては、これが実話だとは思えないほど冷たい。しかしだからこそ逆に実話だとも思える。
イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」。つまり「そんなこと知らん」。そんなこと、何故私に訴えるのか。それこそ、それはあなた方自身で解決すべき事柄ではないか。ほとんど「門前払い」である。これが第1の部分。この部分についてはトマス福音書の72節にも記録されている。
第2の部分(15)には、2つのことが述べられている。
一つは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」。この教えは、イエスの言葉であろうと、そうでなくても、人間の生き方として重要であるが、ごく常識的な教えである。子どもへの教訓物語として、例えば「舌切り雀」の物語にも見られるように、欲張ったら罰が当たりますよ、という種類の教訓である。
もう一つは「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」。これもごく当たり前の教訓で、金と命、どっちが大切かと問われたら、誰でも命の方が大切だと答えるであろう。ところが、今、日本で問われている最も深刻な問題が、ここにあるということは説明する必要もないであろう。ただ、この言葉はもっと複雑な内容を含んでいるように思う。
フランシスコ会訳では「人の命は、財産によるものではない」と訳されている。あるいはマタイ福音書の山上の垂訓においては、「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(6:27)とも言われている。ところが最近では人の命も財産によってどうにかなるようになっている。高い医療費を支払えば、多少なら寿命を延ばすこともできるし、快適な環境を整え、世話をする人をおおぜい雇うことができれば、快適な老後を過ごすこともできるであろう。その意味では確かに「人の命は財産による」とも言えないことはない。むしろここでの「命」とは動物的な「生命」ではなく、「生きる」という抽象的な意味、ある意味では「生き甲斐」を意味しているとも考えられる。
第3の部分(16-21)はルカだけが取り上げている非常に解りやすい譬え話である。おそらくこの譬えはイエスが実際に語ったもであろう。いかにもイエスらしい。この譬えについては、トマス福音書の63節にも記録されている。
「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

3.「愚かな金持ち」の譬え
本日は「愚かな金持ち」の譬えだけを取り上げる。イエスが群衆に語ったとされるこの譬え話は16節から20節までで、この譬えにルカは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」という教訓的結論を付けたのであろうとされる。実はルカが変な教訓を付けてしまったために、この物語自体がもつある種強烈なメッセージが埋もれてしまっている。この物語自体のメッセージは「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」である。
ここで「愚か者」と言っているのは神である。神はこの金持ちの何が愚かだというのであろうか。答えは2つある。
第1の愚かさとは、「今夜、お前の命は取り上げられる」のだということを知らないということ。まさか「死ぬということ」を知らないはずはない。むしろ問題は死ぬということが「今の問題」になっていないということである。遠い将来のこと、この金持ちの言葉でいうと、「これらから先、何年も生きた」(19節)後の話である。要するに遠い先の話である。ところが神は「今夜」という。人間は常に「死」を先のこととして考えている。しかし神は「今のこと」として語る。つまり、今のことを考えるときに死ぬということを計算に入れていない。これが人間の第1の愚かさ。
その上で、もう一つの愚かさは「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」。この問いは簡単に見えて、よく考えてみるとなかなか難しい。現在のように遺産相続についての法律があるから、その法律に従って誰のものになるのかはっきりしているようであるが、実は実際の場面になると非常にややこしく、いろいろな問題が出てくる。そもそも「遺産」とは誰のものなのか。何とはなしに遺産は死んだ人のものであり、死んだ人の意志を尊重しなければならないと思っているし、法律でもそのことを前提にしている。
しかし、それは本当に死んだ人のものなのか。新共同訳では消えているが(口語訳でも文語訳でも正確に訳されている)、原文では17節の「思い巡らす」は「(自分の)こころの中で思い巡らす」であり、「作物」は「私の作物」であり、18節の「倉」は「私の倉」であり、「穀物や財産」は「私の穀物や財産」である。そしてここでの言葉は「自分の魂」に向かっての独り言である。つまり、これから先ずっと「食べたり飲んだりして楽しむ」のは、「私だけの世界」である。ここには隣人や共に働いた同労者や神が入り込む余地が全くない。完全なるエゴイズムの世界である。死んだ後も、これらの財産は「自分のもの」と思い込んでいる。ここに突如神が登場し語る。「愚か者」。それは本当にあなたのものなのか。よく考えてみろ!

4.この物語をどう受け止めるのか
さて私たちはこの物語をどう受け取るのか。それは私の問題ではなくあなたの問題である。この物語を聞いて自分の生活の何をどう変えるのか。いや変える必要がないかも知れない。
ルカはこの物語に彼なりの教訓を付けている。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。つまり「自分のための富」と「神の前での豊かさ」とが対比している。言い換えると、このすぐ後に出てくる「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」(12:33)ということであろう。非常にありふれた教会的説教である。このルカの教訓的付加に同意するなら、その通りに実践したらいいと思う。事実、この教えが2千年の教会の歴史において教会がいろいろな社会福祉事業を行ってきた動機である。
しかしこの教えには根本的欠陥がある。それは慈善事業という本来は他者のための行為の裏に「自分の宝を天に積む」という動機が隠れているということで、これがキリスト者が「偽善者」と呼ばれる原因となっている。隣人愛の裏に自己愛がある。しかし偽善といわれようと、隣人のために何かをするという行為は尊い。しないよりましである。

5.イエスの真意は何か
だが、それがイエスの真意であったのだろうか。
「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」。この言葉の真意はどこにあるのだろうか。繰り返し読むと、上に述べた様な正当な理解が後ろに後退し、だんだん全然違った意味が見えてくる。
それは一言でいうと、自分が稼いだ自分の財産は自分が生きているうちに「自分で使えよ」という言葉である。少なくとも、ここでは使い道については一言も触れられていない。何が有用で、何が無駄か等ということは問題とされない。ただ、資産を残すことの馬鹿らしさを笑っているのである。だいたいイエスの中に子孫のために遺産を残すというような発想はない。イエスの周りにいた人々はほとんど遺産などには無縁な人々である。汗水流して自分が稼いだ金は、自分のものであり、それを自分のために自由に使うことが出来る。しかし死んだら、もうあなたのものではなくなる。だから大きな倉を建ててそこに貯め込むなんていう馬鹿なことをするな。あなたが生きている内に使え。残すなんていうことは馬鹿だ。金というものは貯めるものではなく、使うものだ。イエスの真意はここにある、と私は思う。自分で稼いだ金を放蕩三昧に使おうとあるいは社会事業のために寄付しようと全く同じことなのだ。その富を貧しい人に施したら、それは「富を天国に積む」ことになる、などという思想は後の教会の教訓である。

6.それは誰のものか
実はここにもう一つ重要な問いが隠されている。死んだら、誰のものになるのかという問いは、生きている今はいったい誰のものなのかという問いを含んでいる。私が汗水流して稼いだから私のものだという理屈はどこまで通じるのか。私が稼ぐことが出来たのは家族の支えがあったからではないのか。共に働いてくれた同労者があって出来たのではないのか。天候その他あなたの能力ではどうにもならない「幸運」によって可能だったのではないのか。そこで稼がれた富はそれら全ての人びとに平等に配られているのか。結局、あなた自身が使い切れないほどの富を手に入れたということは、同時に誰かが当然得るべき富を奪っているのではないのか。それを短い言葉で「搾取」という。使い切れない富とは搾取・収奪の結果である。社会に対するイエスの射程距離はそこまで及ぶ。その上で、あなたの富はあなたの所有であると同時にあなただけの所有ではない。それなら、あなたが生きている内に、それらすべの人々と分かち合うべき富ではないのだろうか。それは施しではないし、天に富を積むことでもない。馬鹿ではないという生き方である。






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