落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> イエスの軛・わたしの軛 マタイ 11:25-30

2008-07-01 21:17:06 | 講釈
2008年 聖霊降臨後第8主日(特定9) 2008.7.6
<講釈> イエスの軛・わたしの軛 マタイ 11:25-30

1. 資料分析
マタイ福音書の11:2~12:50では、イエスを取り巻くユダヤ人社会の問題、とくにユダヤ人とイエスとの対立の状況が描かれている。まず最初に取り上げられる問題はイエスと洗礼者ヨハネとの関係である(11:2~19)。実際、当時のイスラエル社会においてイエスのことについて議論する際に洗礼者ヨハネとの関係、相違点が議論されたのであろうと思われる。この部分はQs16~Qs18を資料としている。次ぎに、イエスを受け入れなかった町々の状況が描かれる(11:20~24)。この部分はQs21~22を資料としている。そして、本日のテキストに続く。
25節から30節では、イエスの宣教を受け入れた者たちと受け入れない者たちとについてのイエスの言葉である。この部分は、前半(25~27)と後半(28~30)とで、内容や文体から見て明らか異なり、もともと別々な語録がここでまとめられたものであると見なされる。前半はQs24を資料としているが、後半はマタイ独自の資料によるものと思われる。
2. イエスの祈り
本日のテキストは祈りで始まる。祈りは賛美である。しかし、ここで注目すべきことは、イエスを取り巻く状況は決して賛美したり、感謝するような状況ではなかった。この直前の、イエスの呪いとも思われる言葉を読むと、いわばイエスはユダヤ人社会の主流から受け入れられていない。ヨハネの運動と対比しても、批判こそされ、マイナスの評価をされている。洗礼者ヨハネの場合は、かなり激しい言葉で当時の宗教指導者たちを批判はしているが、それは社会一般からも賛同者を得られる範囲であり、あるいは民衆への激しい言葉は宗教家たちにとっても賛同できる範囲のことであった。とくにヘロデ王に対する批判は多くのユダヤ人の意志に適うものであったのであろう。
しかし、イエスの批判は一見優しそうな表現ではあるが、ユダヤ社会の根幹を揺るがすものであった。批判というものは表現の激しさに意味があるのではなく、論点の徹底性にある。従って、イエスはヨハネよりははるかに「危険人物」とされたのである。
そういう状況の中で、イエスは祈っている。しかも、その祈りは「賛美」である。その賛美の内容は、見方によれば、実際にわたしたちはそういう見方はしないが、愚痴とも取れる内容である。わたしの所には「知恵ある者や賢い者は来ない。近寄ってくるのは幼子のような者たちだけである」。しかし、次の「そうです」という言葉は非常に印象的である。祈りの中で、この「そうです」にまで至るということが重要である。この「そうです」によって、愚痴は賛美に変わる。「そうです。これが父の御心でした」。
3. すべてのことは、父からわたしに任されています(27節)
「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(27節)という言葉は、25~26節の祈りの言葉の延長でも、一部でもない。むしろ、この言葉は父なる神とイエスとの独自の関係の宣言である。この言葉はQ資料からの引用であり、ルカも同じようにこの言葉を引用している(10:22)が、とくにマタイはこの言葉に固執する。マタイとマタイ集団とのとって、これこそが信仰告白である。マタイのイエス観と言ってもいい。同じような言葉が、マタイ福音書28:18でも出てくる。また、23:8-10では次のように語られている。「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」。ここまで言い切るのはマタイだけで、マタイにとって、宣教とは「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教える」(28:20)ことにほかならず、キリスト者とは「イエスの教え」を聞き、従う者にほかならない(7:24)。
4. 疲れた者、重荷を負う者
イエスの時代の民衆は文字どおり、「疲れた者・重荷を負う者」であった。これにはほとんど説明が要らない程はっきりしている。先ず、全体として衣食住の供給が不十分であった時代であり、ローマからの税の取りたてが厳しく、しかも富の分配が不平等で一般の民衆は「日常の糧」に苦労し、疲れ果てていた。それが、普通の状態であった。特別に怠け者が貧乏しているというわけではない。
しかし、彼らの重荷はそれだけではなかった。当時のファリサイ派の人々を批判したイエスの言葉が残されている。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23:4)。彼らの重荷は経済だけではなく、宗教的戒律という重荷も大きかった。むしろ、そちらの方が重かったものと思われる。どんなに生活が苦しくても「安息日」には絶対に働くことが禁止されていた。それらの戒律は経済だけでなく、教育にも倫理にも強い影響力を持ち、人々はまさに疲れはて、重荷を負わせられていた。
イエスはその人々に「わたしのもとに来なさい」と呼び掛けておられる。それではイエスのもとに行ったらどうなる。はっきり言って、イエスのもとに行けば、そんな戒律なんか守らなくてもいい、と言ってくれる。律法のために人間があるのではなく、人間のために律法があるのだから、生活が苦しければ、安息日の戒律なんか破ってしまえ、と教えてくれる。事実、イエスはそのように行動している。
こんなエピソードが残されている。「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである」(マタイ12:1-8)。
それで、実際にイエスのような生き方をすると、社会から受ける制裁はかなりきつい。時によっては、安息日を守らないといって批判されたり、悪口を言われたり、村八分になる。従って、そういうことが怖い人間はイエスに従うことが難しい。イエスもそういう批判をまともに受けている。しかし、そういうことを実際に超越してみれば、何ていうことはない。結局それは、神から捨てられるとか、神から呪われるという宗教家たちの「脅し」にすぎない。もう少し厳密にいうと、そういう脅しに乗せられている世論の力にすぎないのであって、イエスはその点についてはしっかりと「神は捨てないし、守られる」と宣言する。むしろ、こちらの方が神の御心にかなっているのだと宣言する。
5. イエスの軛
以上のことを前提として、というより、以上のことがはっきり見えてくると、「イエスの軛」の意味も明白になる。軛とは、車の轅(ながき)の先につける横木のことであり、そこに車を引く牛や馬の首を結びつけるのである。従って、車を引く牛や馬にとって、軛がぴったりと自分に合わないと非常に苦労をする。と、同時に軛は牛や馬が自分勝手な方向に行かないように、車を禦する者がコントロールしやすくするものでもある。ここでは明らかに「この世の軛」と「わたし(イエス)の軛」とが対比されている。
この世の軛とイエスの軛とどちらの方が楽か。イエスは宣言する。といよりも、マタイは宣言する。「イエスの軛の方が負いやすい」(30節)。しかし、厳密に考えると、ここでいう「イエスの軛」とは、「この世の軛」からの解放を意味し、それは「軛」とは言えないのではないか。むしろ、正確には、この世の軛に換えて「イエスの軛」という新しい軛を付けられるというのではなく、今、現在すでにイエスが引いている軛をイエスとともに引くという意味であり、それはイエスと共に生きるということにほかならない。
イエスは、ただ勝手に生きているわけではなく、父なる神と結びついて生きている。イエスは神によってこの世に派遣され、生かされ、神から与えられた使命(ミッション)を生きている。それは実に重い重い課題である。ところが、この重荷は確かに重いけれども、いわゆるこの世の重荷が重いように、重いのではない。この世の重荷は、ただ重いだけである。その重さには何も生産的なものがない。むしろ、人間を人間以下のものに「堕落させる」力でさえある。いわば脅迫された負担である。しかし、「イエスの重荷」は、重い重い課題ではあるが、それは同時に、イエス自身を生かし、成長させ、前進させる原動力でもある。この課題があるからこそ、イエスの人生は「苦労のしがいがある」という種類のものである。従って、イエスの軛は重たいけれども、軽い。非常に厳格であるが同時に、優しいのである。ここで用いられている「負いやすい」という言葉は「やさしい」という意味である。イエスの軛とはただ軽いというだけでなく、生きる原動力になるという意味である。
6. 「わたしに学びなさい」の意味
最後に、ここにでて来る「わたしに学びなさい」ということについて、一言考えたい。ここでいう「学び」とは、経験を通して自分で理解したり、身に付けるという意味である。たとえば、ヘブル書の著者はヘブル書5:8でキリストは「多くの苦しみによって従順を学ばれました」という。あるいは、マタイは9:13で「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」と言う。ここでは「わたしに学べ」という。イエスの軛を負う、言い替えるとイエスと共に生きることを通してイエスの生き方を自分の生き方とするということであろう。それはただ黙って、言われるままに、従うというのではない。自分で考え、自分で決断し、主体的に道を切り開いて生きる。そのことをイエスから学び、自らの生き方とする。それが、学ぶという言葉の意味である。
その結果、「安らぎを得られる」という。この場合の「安らぎ」とはこの世の中の軛からの解放と同時に、神との関係における平安である。これまでの生活は、これを得ようとして苦労し重荷を負っていたのであるが、イエスに従うことによって全く新しい道によってそれが「易々と」手に入る。これが、イエスによる福音である。

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