落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 良い種と毒麦 マタイ 13:24-30,36-43

2008-07-14 19:46:20 | 講釈
2008年 聖霊降臨後第10主日(特定11) 2008.7.20
<講釈> 良い種と毒麦 マタイ 13:24-30,36-43

1. 資料分析
先週に続いて、今週もイエスの譬え話が取り上げられる。先週は「種を蒔く人の譬え」が取り上げられ、教会における説教の問題が取り上げられた。マタイは、マルコ福音書における「譬話集」を、ほとんどそのまま受け継ぎつつ、そこにマタイ独自の主張、あるいは神学を論じている。今週は、「蒔かれる種」としての「良い種と毒麦の種」が問題とされる。もちろん、ここで問題にされているのは「良い説教と悪い説教」ではない。
この「毒麦の譬え」はマルコ福音書にもルカ福音書にもなく、おそらくマタイ独自の資料によるものであろう。(あるいは、マタイの創作かもしれない。)この譬え話は、「天の国は次のように譬えられる」という譬え話を示す特有の定型語で始まる。この「毒麦の譬え」の特徴は、「種を蒔く人の譬え」と同様に、イエスに自身による解説(36節~43節)が付与されている。
2. 解説の解説
36節以下の解説によると、譬えるものと譬えられるものとに次のような対応関係が明示される。
良い種を蒔く者=人の子、畑=世界、良い種=御国の子ら、毒麦=悪い者の子ら、というようにここに出てくる一つ一つのアイテムにそれぞれの意味が対応している。これは譬え話の中でもむしろ典型的な寓話(アレゴリー)という形式を取っていることがわかる。寓話とは、イソップ物語に典型的に見られるような道徳的な教訓を伝えるための短い物語で、語りたいことをわかりやすい別なものに置き換えることによって語る手法である。たとえば、イソップ物語などでは狡猾な人間をキツネに置き換えることによって、人を騙すことの馬鹿馬鹿しさを教えるというようなものである。
「毒麦の譬え話」においては、上記のような置き換えによって、一つのストーリーが展開する。その展開の中で、さらに、毒麦を蒔いた敵=悪魔、刈り入れ=世の終わり、刈り入れる者=天使たち、というように二次的な対応関係が成り立つ。そして、それはさらに「だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」(37~43)という警告のストーリーが完成する。
3. 「天の国」とは何か
さて問題は、この物語において「天の国はこのようなものである」というが、物語全体の流れにおいて「天の国」に対応する意味、この物語の中の何が「天の国」なのか、という肝心のことが必ずしも明確ではない。たとえば、44節の譬えでは「天の国」と「宝が隠されている畑」とが対応しているし、45節では「高価な真珠」イコール「天の国」という関係が明白である。これらの譬え話は典型的な直喩的譬え話である。それで、逆にマタイが語っている「天の国」についての譬え話を並べて、マタイが語ろうとしている「天の国」とは何かということを推察すると、明白に一つのイメージが浮かび上がってくる。
先ず、注目すべきポイントは、「世の終わり」を示す刈り入れに至らない状態が「天の国」である。第2に「天の国」には「良い麦」と「毒麦」とが共存している。第3に「天の国」はからし種のような目に見えないほど小さな状態から「空の鳥が巣を作るほど大きくなる」。第4に「天の国」は一部の人たちにしか見えない。これらの特徴を綜合するとき、マタイが語る「天の国」とは、終末における「神の国」というよりも、この世に存在している「教会」であることは明白である。
4. 良い麦と毒麦──教会のパリサイ化への警告──
このテキストの主題は、良い麦と毒麦とが共存している「天の国」、つまり教会である。先ず第1に注目すべきことは、マタイにおいては教会とは「天の国」であるという点である。しかし、世界の終わりが来るまでの「天の国」は良い麦と毒麦とが共存している。教会は決して善男善女だけが集められている集団ではない。
さて、そこまではいわばストーリーの舞台背景で、ここから語られるメッセージは、世の終わりまで、人間が判断して教会から毒麦を排除してはならない、ということである。というよりも、人間には良い麦と毒麦とを判別する能力も資格もない、という。選別するのは天使たちの役割で、世の終わりが来れば、天使たちが判別し、毒麦を取り除いてくれる。従って、わたしたちにとって最も重要なメッセージは、わたしたちは決して天使たちの領域を侵してはならないということである。以上のように、この譬え話のメッセージは非常に明確である。ところが、それを実行することは非常に難しい。普通、難しいというのは、何かをする場合に言われることであるが、ここでは「しない」ということの難しさが語られている。ところが、どうしても人間は自分の判断で、毒麦を取り除こうとしてしまう。これが、教会の最も深刻な問題である。
早く言ってしまえば、人を裁くという習性、真面目であればあるほど、真剣であればあるほど、善良であればあるほど、人を裁いてしまう。この問題を克服しない限り、教会は真の意味での「天の国」になれない。マタイ的に言えば、マタイにとっての宿敵、教会のパリサイ化である。
マタイが属する教会の問題はユダヤ教徒との戦いである。とくに、パリサイ派の人々との戦いである。マタイの教会の人々はパリサイ派の人々によってユダヤ人社会から排除されたのである。彼らは彼自身の律法理解に基づいて、イエスを排除し、イエスに従う人々をユダヤ教社会から追放した。従って、一つの集団が一つの価値基準に従って純化すればするほど、その価値基準は絶対化され、異なる意見の人々を排除するようになる。しかし、本当にその価値基準は絶対的だろうか。そんな判断を人間はできるのか。そこに、自分の判断を相対化し、曖昧なまま、共存する道を模索しなければならない。「敵の仕業だ」という認識をしながらも、そのままにしておくという曖昧な状況、それが、現実的な社会のありようではないか。それは、先ず教会において実践されねばならないことであり、それが「天の国」のありようである。
5. 教会内の共存の論理は全世界へと拡大されねばならない
さて、以上のような教会の構造は、この世におけるすべての共同体と同じ構造である。教会だけが特別だというものはない。在ったとしても、本質的な差異ではなく程度の差である。ということは、言い替えると、教会の内部における論理は、教会内だけにとどまるような論理ではなく、人間のすべての集団において現実化されるべき課題であることを示す。
今この世界を見るとき、特に宗教という視点から世界を見るとき、非常に危険な状況にある。地球を何回も壊滅させることができるような強大な軍事力をもつアメリカが、キリスト教という看板を盾にして、正義のため、平和のためという大義名分をかざして、イスラム社会を攻撃している。
今の世界を見るとき、宗教は「平和の器」というよりも、紛争の種となり、紛争のエネルギーとなっている。宗教は常に「絶対」を求め、絶対の世界に生きる。従って、宗教は常に共存を妨げるエネルギーとなっている。こういう状況の中で、今わたしたちは「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」というイエスの言葉を聞く。この言葉をどう受け止めるのか。
イエスは、「刈り入れるものは天使たちである」(39節)と述べておられる。わたしたちがしてはならない最も重要な過ちは、わたしたち自身が天使になることである。宗教的な信念というものにまとわりつく危険性は、自分たちの信仰のゆえに人間としての限界を超えて、天使になってしまう、ということである。少なくとも、今わたしたちはこの危険性からは逃れたい。
今年は10年に一度のランベス会議が、7月16日から8月4日、英国にて開催される。現在、世界の聖公会も、日本聖公会もさまざまな問題を抱えている。激しい意見の対立もある。一部の主教はランベス会議をボイコットするとも言われている。
聖公会という宗教団体の良いところは、すべての問題において、すべてのレベルにおいて、「いい加減なところで妥協する」という大人の感覚である。この感覚をぜひ取り戻して欲しい。人間の考えること、判断に絶対はない。常に、自分の判断は間違っているかも知れないという謙虚さが求められている。

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