落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 世の終わりについて ルカ21:25-31

2012-11-26 17:35:49 | 講釈
みなさま、
新しい年(教会暦による)の最初の<講釈>をお送りします。衆議院選挙が迫り、気分は「新年」というより「終わり」という感じです。選挙結果によっては、日本は経済も、政治も、教育も、医療も、大混乱に陥ることになるかもしれません。じゃ誰に政権を任せたらいいのかということになると、もう既に大混乱が始まっていると言えるような状況です。次の主日が過ぎると、1月はじめの説教の準備を始めますが、どういうメッセージなるのか見当も付きません。「主イエス命名の日」のテキストルカ2:15-21を取り上げますが、「主が知らせてくださったその出来事」が何か、まだ見えてきません。私たちの目の前には「空っぽの飼い葉桶」が横たわっています。それをみて、マリアのようにただおろおろして「思い巡らす」だけです。

S13A01(L)
2013年 降臨節第1主日 2012.12.02
<講釈> 世の終わりについて ルカ21:25-31

1. 教会暦の最初の主日
C年の福音書は主にルカによる福音書が取り上げられる。それで今年1年ルカ福音書と付き合うことになるので、まず最初にこの福音書を書いたとされる著者ルカについて簡単に触れておく。パウロはルカのことを「私の協力者」たちのリスト(フィレモン24)に挙げている。この「協力者」という訳語は曖昧で、むしろ口語訳の「同労者」の方がピッタリ来る。一部ではパウロの「弟子」だという学者もいるが、年齢的にもおそらく同じぐらいだと思われるので弟子というよりやはり「同労者」と呼ぶべきであろう。おそらくパウロは西暦5~6年頃の生まれであるから、ルカもその頃の生まれであろうと思われる。彼の著作の文章から見てかなりの教養人であったと思われる。コロサイ4:14に「医者ルカ」という語が見られるので伝統的にはルカは医者であると思われるが、この点については学者間でも意見が分かれる。

2.小黙示録、マルコ福音書との対比と語義
教会暦における1年の初めの主日に「世の終わり」についてのテキストが取り上げられていることは面白い。森羅万象、すべの存在には始まりがあり終わりがある。これは人間の経験的事実である。人間も例外でないし、地球も例外ではない。ただ一つの例外は「神」である。神には始まりもなく終わりもない。
今日のテキストはルカ21:25-31、世の終わりのことが書かれている。聖書を信仰の糧として読む者は、先ずテキストが語っていることを理解しておきたい。つまり1世紀のキリスト者たちが「世の終わり」をどういうこととして考えていたのか。
ルカ福音書の21章5節から36節まではマルコ福音書13章1節から37節までのいわゆる「小黙示録」と呼ばれる箇所の焼き直しである。先ず、これらの部分を比較してルカはマルコの何を継承し、何を書き直したのかということを検討しておこう。先ず全体として構成、状況設定など基本的な点はルカはマルコの文章を読みながら、それを書き改めていることは明瞭である

ルカ21:5-36(マルコ13:1-37)
(1)神殿の崩壊を予告する(マルコ13:1-2)
5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

○5節「弟子の一人」を「ある人たち」に書き換える。
○「すばらしい建物」を「奉納物」に書き換える。
○6節、文章の書き改める。

(2)終末直前の社会の乱れ(マルコ13:3-8)
7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。

○7節に文章を挿入して、神殿崩壊の予告と終末の徴についての問答とを繋ぐ。マルコでは神殿崩壊の予告とこの部分とが別の場面になっている。従って、場所の叙述と4人の弟子の名前が不要になる。マルコではこの問答が4人の弟子たちだけとの「ひそかな」問答であるが、ルカでは公開問答になる。
○6節、偽メシアの言葉に「時が近づいた」という句を付加。
○8節~11節はほぼ同じ。「慌てる」を「怯える」に書き換える。
○災害リストに「疫病」と異常気象を付加する。

(3)それに先立つキリスト者の迫害(マルコ13:9-13)
12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。
17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

○12節に「これらのことがすべて起こる前に」という言葉を挿入して、12節から19節までの出来事と7節から11節までの出来事との順序を入れ替える。つまり終末の出来事の始まりはキリスト者に対する迫害であるという。従ってマルコ13:8の「産みの苦しみの始まり」という言葉を削除する。
○「地方法院」を削除する。ルカの時代には「地方方院」はなくなっていたのであろう。
○ここに「迫害」という単語を使用する。
○「わたしのために」を「わたしの名のために」に書き換える。ルカの時代では「イエスの名」という言い方がそれだけ浸透したのであろう。
○「教えられたこと」を語れということを、その場で「言葉と知恵」が授けられるとする。
○13節の後ろにあるべき「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」が削除されている。
○18節、キリスト者に対する迫害について、「 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」という言葉を挿入する。これはキリスト者に対する迫害における常套句(マタイ10:30、ルカ12:7)である。
○「救われる」を「命を勝ち取る」に書き換える。

(4)神殿の崩壊の情景(マルコ13:14-20)
20 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。
22 書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。
23 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。
24 人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」

○20節の「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たとき」という言葉は、マルコの「憎むべき破壊者が立ってはならないところに立つのを見たら」という言葉の言い換え。憎むべき破壊者(フランシスコ会訳では「荒廃をもたらす憎むべき者」)とは、マカバイ時代以来、「あの忌まわしい事件」を思い起こさせる慣用的表現となった。マルコが福音書を書き始めた頃、これと類似する事件が起こった。実際にローマ皇帝カリグラがエルサレム神殿に自分の像を建てることを命じ、ユダヤ人間では大問題になっていた。もし実際に皇帝カリグラ像が建てられたら戦争になっていたであろうが、事態を重く見たシリアの総督の機転により工事そのものをノロノロと進め、その間に皇帝カリグラは暗殺され、危うく戦争は回避された。40年前後の頃のことである。マルコはこの言葉をここで用いることによって、あの事件のような事件が起こることを警戒している。しかしルカは彼自身が経験した70年の出来事を頭で描きながら書き改めている。ここに70年の神殿破壊前の著述と破壊後の著述との違いが見られる。
○21節~23節はマルコ13:14後半から20節までを全面的に書き換えている。
○21節後半~22節はルカによる挿入。キリスト者たちがいち早くエルサレムを棄てて、脱出したことへの弁解であろう。70年以後ユダヤ人社会において、エルサレムをいち早く脱出したことが、キリスト者に対する批判が強まった一つの理由である。
○24節は完全にルカの時代を描くルカの挿入。
○ルカはマルコ福音書13:21-23「偽メシアへの警告」を削除する。多分、8節で「時が近づいた」という言葉を挿入することによって十分だと考えたのであろう。 

(5)諸民族の最後(マルコ13:24-25)
25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。

○25節後半~26節前半はルカの挿入。
○マルコはたんたんと天体の異変を語るだけであるが、ルカはその時の人々の心理的状況を付加している。

(6)人の子の再臨(マルコ13:26-27)
27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。

○28節はルカの差し替え。「選ばれた人々が集められる」では弱い。「あなたがたの解放」である。
○マルコ13:27は削除されている。

(7)無花果のたとえ(マルコ13:28-29)
29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。
30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。
31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。

○この段落は28節の詳論
○31節の「~~~を見たら」は、27節の「そのとき」をさす。その時こそ、「神の国は近づいた」とはっきりと言うことができる。
○主の再臨はキリスト者にとっては喜びの時
○ルカは「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」を「神の国が近づいていると悟りなさい」に書き換えている。再臨という出来事を「人の子が戸口に近づいている」という表現では弱すぎると考えたのか。

(8)結びの言葉(マルコ13:30-31)
32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。
33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

○32節でルカはマルコの「これらのことがみな」の「これらのこと」という限定の言葉を削除し「すべてのこと」に言い換えている。つまり終末のことに限定されない神の計画すべてを意味している。

(9)終末に向けての実際的教訓(マルコ13:32-37)
34 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

○この部分はパウロ的用語が用いられており、パウロの影響が明らかである。マルコの文章は全面的に差し替えられている。
○マルコの32節をルカは削除した。「天使たち」はともかく「子も知らない」ということをルカは受け入れられなかったのであろう。ここにイエスの神格化がより進んだと見るべきか。
○ルカはマルコの「旅に出た主人が突然帰ってくる」(34-36)という譬えを削除する。この削除は非常に重要だと思う。この譬えこそ初期のキリスト者の間で再臨信仰が成立した一つの鍵があるのではなかろうか。ルカにとってはもはやそれは不必要であったのであろう。
○マルコは「何時」ということに強い関心を示し、それが分からないということ、特にその出来事が突然怒ることを強調する。それに対してルカにおいては「突発性」が弱められ、注意深く観察すれば分かることが強調される。逆に注意深く観察していない者には突然の出来事となる。従って「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」という倫理的な教えを書き加えている。

3.再臨の遅延
さて以上の分析を通して一つのことに気付く。人々を不安にする出来事が2回述べられている。第1の出来事は9節から11節まで、第2の出来事が25節から26節までである。これらを比べてみると第1の出来事は「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」という。
第2の出来事は「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」という。
ルカ福音書ではこれら2つは厳密に分けられており、第1の出来事には、これは必ず起こることであると述べ「これらのことがすべて起こる前に」、キリスト者に対する迫害があることを述べている。つまり、これは予言というよりも既に起こったことを「事後予言」という形で述べられているのである。ルカにとっては第1の出来事は歴史内部での出来事であり、第2の出来事は未だ経験していない「終末の出来事」であるが、マルコにとっては両方とも未来の出来事である。この点で、マルコ福音書ではこれら2つの出来事の時間的経過が曖昧であり、どちらも間近に迫った出来ととなっている。それに対してルカは第1の出来事と第2の出来事の中間に立って語っている。この差がいわゆる「再臨の遅延」という問題である。

4.究極の最後
さて、以上の基礎的な分析を背景にして本日のテキストルカ21:25-31を考えると、この部分は未だ経験していないという意味での「最後の出来事」を語っている。初期の教会の信徒たちも経験していない。勿論パウロもルカも経験していない。とりあえず、ルカはマルコの記事を殆どそのまま引用しているが、マルコだって知らないことである。つまり、世の終わりはこうなるということは誰も知らない。何時なのかも勿論分からない。確かのことは、形あるものは必ず終わりがあるという事実である。ここでの叙述は実にリアルである。
<それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。>
この叙述を否定する科学的根拠はない。人間の住む地球を囲む宇宙の最後はこうなる、といわれたら、それに対してイエスもノーもない。
さて、ここからが信仰の問題である。初期のキリスト者たちはこの宇宙崩壊の出来事においてキリストが再臨すると信じた。その根拠は非常な薄弱である。イエスがそれを事実言ったのか、何か別のことを言ったのを誤解したのか。十字架上でイエスが同じように十字架にかかっている一人の罪人に「天国でまた会おう」(ルカ23:43)と言われたのと同じように弟子たちに「また、会おう」という言葉を少し大げさに解釈しただけのことか、それも分からない。この言葉はダニエル書からの引用だと言われているが、そこには次のように書かれている。
<見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進みみ権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え彼の支配はとこしえに続きその統治は滅びることがない。>(ダニエル書7:13-14)
初期のキリスト者たちはこの言葉をキリストの再臨の預言だと解釈した。
ここで重要なことは宇宙の崩壊という究極の悲劇を究極の福音に変換する精神である。それは同時に完全な無意味を覆して最高の有意義にする信仰であり、永遠の死を永遠の命に転換する希望である。再臨信仰とは究極のどんでん返しの信仰である。

最新の画像もっと見る