落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

降臨節第1主日説教「 世の終わりについて ルカ21:25-31」

2012-11-27 12:48:59 | 説教
みなさま、
寒い季節になりました。風邪など引かれないように、お気を付けください。衆議院選挙も近づき、争点も絞られてきました。脱原発か、国防軍か。どちらを国民は選ぶのでしょう。
次主日の説教をお送りします。近ごろめったに聞かれなくなった「終末と再臨信仰」を取り上げます。非常に重要なテーマであるといえばその通りですが、また他方、そんな問題は考えなくても私の信仰生活には支障がないと言えば、またその通りです。

S13A01(S)
2013年  2012.12.02
降臨節第1主日説教「 世の終わりについて  ルカ21:25-31」

1. 教会暦の最初の主日
C年の福音書は主にルカによる福音書が取り上げられる。 本日のテキストはルカ21:25-31、世の終わりのことが書かれている。 教会暦における1年の初めの主日に「世の終わり」についてのテキストが取り上げられていることは面白い。森羅万象、すべの存在には始まりがあり終わりがある。これは人間の経験的事実である。人間も例外でないし、地球も例外ではない。ただ一つの例外は「神」である。神には始まりもなく終わりもない。初期のキリスト者たちが「世の終わり」をどういうこととして考えていたのか。
2.初期のキリスト者たちはこの世の終わりをどう考えていたのか。
先ず始めに心に留めておくべきことは、世の終わりについてイエスは殆ど何も語っていないということである。「神の国」については、いろいろと語っているが、それも殆ど「譬え話」で掴み所がない。今ここでのことにも思えるし、将来のことのようでもある。今、私たちが問題にしているような「この世の終わり」とは次元が違う話である。「世の終わり」のことについては、イエスも弟子たちもほとんど問題にしていないし、考えもしていないように見える。述べられているとしたら、それらは殆ど後のキリスト者たちの考えが影響を与えているのである。ただ強いていうなら、世の終わりはあるということ、それが何時かということについては分からないということであろう。
さて本日のテキストが置かれているルカ21:5-36は、マルコ13:1-37のいわゆる「小黙示録」の焼き直しである。先ず、これらの部分を比較してルカはマルコの何を継承し、何を書き直したのかを確認し当時の人たちが終わりの時をどう考えているのかということを考える。全体を述べることは時間的に無理なので本日のテキストの部分だけを取り上げる。(ルカ21:25-31)
先ず始めにマルコは天体の異常現象をたんたんと語る。ところがルカはそこに地上での異変も付け加え、人々の不安な心理状況を述べる。その上で、その次に起こることとして「人の子の来臨」について述べる。この「人の子」についてマルコもルカも誰かということに全く関心を示さない。これは当時のユダヤ人たちがダニエルの預言の実現、つまりメシアの来臨を述べている(ダニエル7:13)言葉のを殆どそのまま引用しているだけである。むしろ重要なことはその時同時に起こる出来事としてマルコは「選ばれた人たちを四方から呼び集める」という。実はダニエル書では「選ばれた人たち」ではなく、全民族を意味している。おそらくマルコはここでキリスト者を意味しているのであろうと思われる。ルカはマルコの解釈をもう一歩進めて「あなた方の解放の時」だという。ここが再臨論を考える場合の一つのポイントである。
最後の「無花果のたとえ」は終わりの時がいつ来るかということは、現実の世界を注意深く観察することによって「おのずと」分かるという。このたとえで注目すべき点はマルコが「人の子が戸口に近づいている」と述べている点をルカは「神の国は近づいている」と言い換えている点であろう。ここでルカが「神の国」という場合、その意味するところはかなり重要である。ルカは17:20,21で、神の国はいつ来るのかという質問に対して「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えさせている。これはルカ独自の言葉である。そこで述べられている「神の国」とは歴史内での「神の国」であるが、ここでいう「神の国」とは現在の歴史が終わった後の時代を意味している。
3.再臨の遅延
さて以上の分析を通して一つのことに気付く。人々を不安にする出来事が2回述べられている。第1の出来事は9節から11節まで、第2の出来事が25節から26節までである。これらを比べてみると第1の出来事は「こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」という。
第2の出来事は、それが実際に起こったら「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」という。
ルカ福音書ではこれら2つは厳密に分けられており、第1の出来事は予言というよりも既に起こったことを事後予言という形で述べている。第2の出来事は未だ経験していない終末の出来事である。
この点で、マルコ福音書ではこれら2つの出来事の時間的経過が曖昧であり、どちらも間近に迫っている出来事となっている。それに対してルカは第1の出来事と第2の出来事とは明白に区別されており、著者および読者はその中間にいる。この差がいわゆる「再臨の遅延」という問題である。
4.究極の最後
さて、以上の基礎的な分析を背景にして本日のテキストルカ21:25-31を考えると、この部分は未だ経験していないという意味での「最後の出来事」を語っている。初期の教会の信徒たちも経験していない。勿論パウロもルカも経験していない。とりあえず、ルカはマルコの記事を殆どそのまま引用しているが、マルコだって知らないことである。つまり、世の終わりはこうなるということは誰も知らない。何時なのかも勿論分からない。確かのことは、形あるものは必ず終わりがあるという事実である。
<それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。>
この叙述を否定する科学的根拠はない。人間の住む地球を囲む宇宙の最後はこうなる、といわれたら、それに対してイエスもノーもない。それは信仰の問題ではなく、全人類に関わる問題である。この点について当時の人々は神によってのみ可能な出来事と考えていたが、現在では違う。人間も宇宙を破壊することが可能になった。
5.さて、ここからが信仰の問題である。
初期のキリスト者たちはこの宇宙崩壊の出来事においてキリストが再臨すると信じた。再臨信仰の根拠は非常な薄弱である。イエスがそれを事実言ったのか、何か別のことを言ったのを誤解したのか。十字架上でイエスが同じように十字架にかかっている一人の罪人に「天国でまた会おう」(ルカ23:43)と言われたのと同じように弟子たちに「また、会おう」という言葉を少し大げさに解釈しただけのことか、それも分からない。この言葉はダニエル書からの引用だと言われているが、そこには次のように書かれている。
<見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進みみ権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え彼の支配はとこしえに続きその統治は滅びることがない。>(ダニエル書7:13-14)
初期のキリスト者たちはこの言葉をキリストの再臨の預言だと解釈した。しかしよく考えてみると、この言葉をキリスト再臨の言葉として受け止めるということは、その前に既に再臨信仰があったということである。無ければそんなことができるはずがない。新約聖書において最初に再臨について明確に述べられているのは、紀元49~50年に書かれた1テサロニケ4:15ffである。従って再臨信仰はそれ以前に成立していると思われる。当時のことを記録している使徒言行録には、それを感じさせる記事は殆どない。1:10-11はあまりにも神話的である。しかし先のテサロニケ書を見ると初期の教会においてかなり強烈な再臨信仰があったということは否定できない。パウロ自身も生きている内に再臨があると信じていたようである。私自身まだ十分に熟した解釈ではないが、再臨信仰はイエスの復活という信仰に伴って信徒も復活するという信仰が成立し、その展開として成立したのではなかろうか、と考えている。そのことはあまり重要ではない。
むしろ、ここで重要なことは宇宙の崩壊という究極の悲劇を究極の福音に変換する精神である。それは同時に完全な無意味を覆して最高の有意義にする信仰であり、永遠の死を永遠の命に転換する希望である。再臨信仰とは究極のどんでん返しの信仰である。




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