落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>誘惑物語

2008-02-05 14:40:39 | 講釈
2008年 大斎節第1主日 2008.2.10
<講釈>誘惑物語  マタイ4:1-11

1. 資料分析
イエスが荒野で悪魔から試みを受けたという物語は、3つの共観福音書に共通している。マルコ福音書では、実に簡単に「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた(1:12-13)」と記すだけで、誘惑の内容等については何も記されていない。マルコが描くイエス像は、病気を癒やし、悪霊を追放し、奇跡を行ういわゆる「霊能者」である。その「霊能」を受ける修行として「荒野での経験」が位置づけられている。
ルカ福音書については、いろいろと論じるべき点がいくつかあるが、ここでは触れない。ただ、マタイとルカは大きな枠としてはほぼ同じ文章であるので、おそらくマタイとルカとの共通の資料Qを参照しているものと思われる。参考に、バートン・マックによるQ資料の該当部分を掲載しておく。
────さて、イエスは告発する者(ディアボロス。天の法廷で検察官の役割を果たす御使い)の試みに会われるために、霊に導かれて荒れ野の中に入って行った。彼は、四十日間断食し、空腹を覚えた。告発する者は言った。「お前が神の子なら、この石にパンになれ、と命じたらどうだ。」しかし、イエスは彼に答えた。「人はパンだけで生きるのではない、と書かれている。」
告発する者次ぎに、イエスをエルサレムに連れて行き、神殿の一番高い所に立たせると言った。「お前が神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。こう書かれているからだ。神はみ使いたちに命じて、あなたを守られる、と。また、あなたの足が石に打ち当たらないように、天使たちは手であなたを支えられる、と。」
イエスは彼に答えて言った。「あなたの神・主を試してはならないとも書かれている。」
そこで告発する者はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての王国とその栄華をを見せて、彼に言った。「お前がひれ伏してわたしを拝むなら、これらをみなくれてやろう」と言った。すると、イエスは彼に言った。「あなたの神・主を拝し、その方にだけ仕えよ、と書かれている。」そのとき、告発する者は彼のもとを離れ去った。────
かなり粗い文章であるが、マタイはQ資料を多少手を入れて、ほとんどそのまま再録してることは明らかである。この段階で注目すべき点は、マタイはマルコの最後の文章から「その間、野獣と一緒におられたが」を削除し、「天使たちが仕えていた」だけをQ資料に書く加えている点である。ルカはこの文章を無視し、「悪魔は誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」という文章を書き加える。以上のような細々した差異については、物語全体をイエスの生涯の中でどう位置づけるのかという点から、かなり重要な示唆があるものと思われるが、今回はあえて取り上げない。
2. イエスと悪魔との対話
マタイ福音書におけるイエスと悪魔との対話の物語は新共同訳聖書のテキストでもわずか493文字という短いものではあるが、原始教団における最高の文学作品である。ドストエフスキーは、悪魔が提示した3つの誘惑について「ただ三つの言葉で世界と人類の未来史とをことごとく凝縮し表現せよ、という問題を提出したとする。そうしたら世界中の知恵をひと束にしてみたところで、力と深みにおいて、あの強くて賢い悪魔が荒野でお前に発した三つの言葉に匹敵するようなものを考え出すことが果たしてできるか」と言う。吉本隆明は、「マチウ書試論」において、「ジェジュ(イエス)と悪魔との問答は、三福音書のうち教理的な匂いのするただひとつの個所であると言うことが出来る」(「芸術的抵抗と挫折」87頁)というが、「教理的な匂い」云々はともかく、三福音書の中でも独自の雰囲気を漂わせている。最も顕著な特徴は、全体としては悪魔が登場したりして、旧約聖書のヨブ記を思わせるような文学性(フィクション)があるが、内容を検討すると、ここで描かれているイエスの姿は福音書の他の個所(マタイ福音書も含む)のように、病気を癒やしたり、悪霊を追い出したり、水の上を歩くというような霊能者の姿は全くなく、むしろそれを否定することがモチーフになっている。率直に読むならば、ここでのイエスは福音書のほかの部分でのイエスの行為を全否定するイエスである。
3. マタイが創作したこと。
マタイはこの物語をQ資料を下敷きに書いている。もっとも、Q資料そのものがマタイ福音書とルカ福音書のテキスト分析に基づき復元したものであるので、マタイが手にしていたQ資料そのものは不明である。
マタイは全体として生き生きとした文章によって、読む者を不思議なドラマの世界に引き込む。細かい点は省くとして、注目すべき三つの付加語だけを取り上げる。
その第1は、「人はパンだけで生きるものではない」という言葉に続いて、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉を付け加える。これは付加というよりも、引用元である申命記8:3を忠実に復元したと言うべきであろう(参照:ルカ福音書では前半のみ)。「人はパンだけで生きるものではない」だけでは、この言葉の積極的な意味が薄められる。ドストエフスキーの「大審問官」でも、この後半の意味が十分に取り上げられていない。マタイは、「地上のパン」と「神の言葉」という本来同列に置けないものをあえて、同列に置くことによって、「神の言葉」のためならば、「地上のパン」を棄ててもいいという恐ろしいほど高度な倫理性が求められていることを強調する。前半だけでは、「パンだけで生きるものではない」の「だけでは」という言葉に強調点が置かれ、一種の妥協点を見てしまう。この個所をほとんどの人はそういう風に理解している。つまり、「あれも、これも」という論理である。しかし、ここで重要な点は「あれも、これも」という世間知ではなく「あれか、これか」という倫理性である。後半の文章を付け加える(正確には復元する)ことによって、その妥協点は切り捨てられる。もし、二者択一が求められたら、断固「地上のパン」を棄てる。そのことを具体的の述べているのがマタイ5:29-30の言葉である。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」。そして、それこそが旧約聖書の伝統に従った真実の神の民の生き方なのだという主張がある。
第2の点は、10節の「退け、サタン」という言葉である。マタイは、ここに登場する「悪魔」について「告発する者」を意味する「ディアボロス」という言葉を用いている。マルコでは「サタン」である。ディアボロスは新約聖書ではだいたい「悪魔」と同意語のように用いられているが、マタイはかなり厳密に使い分けている。ここでイエスを「誘惑している者」はサタンではなくディアボロスで、一種の「神の使い」である。しかし、「サタン」というとき、これは相手に対する最大限の罵りの言葉である。この「サタン」という言葉をマタイは3回用いている。12:26の用法は例外として、もう一度は16:23で、これはペテロに対する罵りの言葉である。イエスの進むべき道を妨げる者に対する激しい罵倒の言葉である。ここでは、ディアボロスに対してイエスは「サタン」と罵倒している。ここで、第3の警告の言葉の時に用いられていることは注目に値する。イエスがこの言葉を発したとき、誘惑者はもうそれ以上誘惑することができなかった。
そして、その言葉を受けて誘惑する者は舞台から退場する。しかし、後に残されたのはイエスだけではなかった。ここにマタイは重要な第3の言葉を付加する。「すると、天使たちが来てイエスに仕えた」。これはマタイだけが付加している「謎の言葉」である。マタイはこの印象的な言葉をここに付加しておきながら、福音書を通して、これを引き継ぐ言葉が全くない。この福音書の読者は、最後までこの言葉を引きづっていかねばならない。ドストエフスキーもこの言葉には全く関心を示さない。わたしも、この言葉が意味していることについては理解できていない。
4. トストエフスキーの「大審問官」
主イエスが悪魔から誘惑されたという物語については、ドストエフスキーがその作品「カラマーゾフの兄弟」の第5編「プロとコントラ」において、取り上げて論じている。主人公である信仰深いアリョーシャに対して自称無神論者である兄イワンが自作の詩劇を紹介するという設定になっている。アリョーシャは間もなく修道院に入ることになっている。詩劇のタイトルは「大審問官」で、舞台は16世紀のスペインのセヴィリアという町で、そこに突然キリストが登場する。キリストが現れたということで民衆は大騒ぎするが、教会当局はキリストを捕縛し、投獄する。物語は、獄中での大審問官とキリストとの対話ということになっているが、終始キリストは一言も言葉を発しないので、実際には大審問官の独り言になってしまう。この辺のところが面白い点である。
世界の文豪ドストエフスキーの作品のあらすじを追っても仕方がないので、この部分に関しては一つの独立した作品になっているので、多少脚色してブログ「ぶんやさんち」に3回に分けて掲載しているので参照していただきたい。<日本語にして約18000字>
ドストエフスキーが取り上げている第1の警告は、人間は完全な自由には耐え得ないということ。人間は一片のパンの前で「自分が持っている自由」を惜しげもなく投げ捨てるということ。従って、人間には自由を与えるよりもパンを与えなさい、そうすれば、神に対してもキリストに対しても素直に従うようになるだろう。この第1の警告が全編を貫く一つのメインテーマになっている。
パンの警告について、もう一つの点が指摘される。人間が考え求めている「ひざまずくべき対象」は、「みんな一緒」でなければならないとしている。そのためにはパンは非常に有効な手段である。この指摘には当時の「全体主義的雰囲気」(共産主義とキリスト教)に対する皮肉が込められている。
第2の警告は、現実の世界において人間を支配する力は、奇跡と神秘と政治権力であるとした上で、キリストが「異能」を発揮すれば、これら3つの力を同時に示すことができる。そういう力を持つ者に対して人間は喜んで奴隷になる。
第3の警告については、キリストに対して「警告」を発するというよりも、大審問官に代表されるカトリック教会という組織が、キリストが選び取った道を否定して、悪魔の前にひざまずいて、この世の権力を手にしたことについての、いわば「言い訳」である。逆の視点からいうと、作者は悪魔にひざまずいた教会を鋭く批判している。今、キリストが来られたら、一番困るのはキリスト教会、とくにその指導層ではないか。
以上のとおり、「イエスと悪魔との対話」は非常に含蓄に富んだ文学作品である。それぞれが、時間をかけて、自分自身の生き方を考えながら味わうべきである。
5. ささやかな感想
文豪ドストエフスキーの渾身の取り組みを読んでしまったら、もう何もこれに付け加えることはない。ただ、一言取るに足らない感想を一言付け加える。
初めの2つの誘惑は「神の子なら」という言葉で始まる。「もし、あなたが神の子であるなら」、「こういうこういう能力を発揮することができるはずだ」ということが誘惑のテーマとなっている。そして、その通りに神の子としての能力を発揮すれば、「誘惑」に負けたことになる。神の子が神の子としての能力を発揮してはならない。発揮したら、それが「罪」となる。
イエスが神の子として生きるということの内実は、「神の子であること」を否定し、徹底的に「人間」として生きることを意味している。この誘惑物語はイエスが神の子であるということを主題にしつつ、実は本当の人間性、人間であるということはどういうことなのかということを語っている。

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