落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>ニコデモとの対話

2008-02-11 17:44:03 | 講釈
2008年 大斎節第2主日 2008.2.17
<講釈>ニコデモとの対話  ヨハネ3:1-17

<お断り>
降誕後第1主日の<講釈>でお断りいたしましたように、今年度ヨハネ福音書が取り上げられるときには、恩師松村克己の「ヨハネ福音書註解」の再話をお届けいたします。すでに、お送りした分は降誕後第1主日の1:1-18、顕現後第2主日に1:19-42、第2章はとばして、本日の分第3回目は3:1-36です。聖書研究の方法について、松村は本書の「あとがき」で面白いことを言っている。
────筆者は何を主としてこの講解を書いたかと問われれば、ノート作成に於いて絶えず左右におき多くの示唆を受けたのは右にあげた数種のものにすぎない。併し執筆に当たって手にしたものは邦訳聖書とコンコーダンスだけであった。ギリシャ語本文はノート作成に当たってはコンメンタリーと同じく熟読し、邦訳聖書の訳で不適当と思われる部分は一々印をつけておいたが、之も執筆に当たっては台本にしていない。これは筆者が説教を準備する際にもとる方法である。当たり前の事と思われるかも知れないが気がついて考えて見ると余り当たり前の方法ではないようである。
今日邦語の注解書・講解書が可成り出ているにも拘わらず、之はと思うもの、心に残るもの従って胸に響くものを見出しがたく、一応の注釈・説明以上に出るものの少ないのは、外国の注釈書やギリシャ語の本文に依って執筆をしている為ではないだろうか。聖書を経典として読むためには原語によらなくてはならぬという考え方はどうも全面的に賛同しかねるものを感ずる。日本人には日本語の聖書が必要なのである。逆に言えば日本語で役に立たぬような聖書では困るのである。
今日改訳の業の進められつつある時(これは口語訳聖書の翻訳作業をいみする。文屋注)、この事を特に委員方にお願いしたい。聖書翻訳の仕事は単なる翻訳ではなくして自国語に聖書を移すこと、自国語で聖書を書きかえることに他ならぬ。新しい時代のために新しい聖書は必要である。が筆者は現行訳聖書が甚だしく不適当なものとは思わない。────
今日でもなお傾聴に値する言葉である。

第3章
イエスとラビ・ニコデモとの問答を通して新しい宗教における潔め、新生の秘密を説くのが主眼である。2章で語られた二つの出来事の意味が次の3、4章でさらに展開されて説かれていると見てよいであろう。2:23以下はそのための序であり、本章後半は洗礼者ヨハネの証しを再び登場させているようであるが、この部分もイエスの言葉と同様本来は著者の証しであり説教に他ならない。細かく見ると、イエスとニコデモの二人は互角に論じ合っているように見えるが、実は、イエスが主役でニコデモに語りかけつつ同時にニコデモを通り越して読者に語りかけている。ニコデモはイエスのモノローグ(独白)としての教えを描き出すためのいわば脇役である。しかし、この会話そのものを通して、本当に語っているのは著者ヨハネでありその信仰に他ならない。

3.1. ニコデモに対するイエスの証(1-21)
<1-3>
ニコデモはサンヘドリンの議員であり、ユダヤ人社会における最高指導者の一人であった。7:26,12:42,ルカ23:13,35,24:20、使徒言行録4:5,8等には何れも「議員」と訳されている。彼らの多数を占めていたのはパリサイ派であり、ニコデモもその一人であった。彼らのすべてがイエスの敵であったわけではなく、彼に興味を寄せ彼を信じた者もあった(12:42)。ただ、彼らはこのことを公に表明することを躊躇していた。ニコデモが「ある夜、イエスのもとに来て言った」のは人目を避けてか、膝つき合わせてじっくりと疑問点を確かめようとしたのかは不明である。
彼はイエスに「ラビ(先生)」と呼びかけている。イエスの行なう業を見て彼を「神のもとから来られた教師であること」を認めはするが、預言者またはそれ以上のものとは認めていない。しかしイエスのもとを訪れた主目的はこの点を直接本人に会って確かめようとするためであったことは確かである。イエスは彼の意図を察して率直に問題の核心をとりあげ、先まわりして彼の疑問を叩き返す。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。「神の国を見る」は5節の「神の国に入る」と同じことで、神の生ける支配を親しく自らに経験すること、換言すれば「救われる」ということと同じである。救いの経験は理解や判断・推理・議論によって得られるのではなく、神による新生にほかならない。これがここの個所の要旨である。
<4-6>
「新たに」生まれると聴いたニコデモはさらに反問する。この老人にもう一度母の胎に入れというのかと。彼はイエスの言葉を理解し得なかったのであろうか、それとも誤解したのであろうか。「新たに」と訳された語はもう一つ「上より」という意味を持っている。イエスはこの後の意味で言われたのに、ニコデモは最初の意味にのみ受け取り、しかも「もう一度」と受け取っているように見える。イエスはこの理解を訂正しようとするかのように「新たに」を「水と霊とによって」と言い換え、さらに重ねて、それは「肉による」再生ではなく「霊による」新生であることを強調する。新生はヨハネ福音書の主要テーマの一つであって「霊」と「風」とが同じ語であるところから、この経験の理解の方向を暗示する。この新生は悔い改めのまことと神の恵みとが相会うとき、水の洗礼が霊の洗礼と合致する時に与えられる。
<7-8>
風は眼に見えないし、掴むこともできないが、その存在と動きとは物に触れて発する音とそれの残す跡からして明瞭に確認することが出来る。霊による新生もまた同様に、どうしてそおうなるのかということは理解できなくても、それの存在と事実とは否定することはできない。要は見る眼、聴く耳の問題である。救いの経験、新生は上から神の(霊の)働きによって起こることではあるが、同時に、これを受ける人間の側にも心の準備や心構えが求められる。イエスが神の国の福音を宣べて人々に求められたものは悔い改めであった(マルコ1:15)。見る眼と聴く耳とはここで始めて開かれる。「心を入れ替えて、子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)も同じ意味であって、歳をとってもなお幼子の心に立ち帰る道は新生の他にはない。<9-10>
ニコデモはなお肚に据えかねて反問する。「どうしてそんなことがありえましょうか」と。内的な経験は結局外からはわからない。生まれながらの盲人に色を説明してもわからせることは出来ない。イエスはとうとう嘆くかのように言う。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と。十分に理解できなくても同情・同感を持つことは出来る。この心を失うときに宗教は形骸化する。ここに至って、わたしたちははっきりと分かる。要するに、ニコデモがイエスの言葉を理解できないのは、無知でもなく、誤解でもなく、ただ彼が初めからイエスが言おうとしていることを知りながら、それを受け入れたくないという気持ちからの反論に他ならなかったのである。一般の人々に向かってイエスが悔い改めを要求することは肯定できる。しかし、サンヘドリンの議員に対して、悔い改めによる新生を求められるところにニコデモの不満があったと見てはいけないであろうか。今日でもキリスト教に関心を抱き、イエスの福音に興味をしめしながら、結局、信仰の生命に至ることのできない多くの人々がいる。ヨハネ福音書の描く人物はすべて類型である。ニコデモは最高指導者の一人としてイスラエルの遺産である神の言、律法を常に問題とすることは知っていても、これに聞き、これに従おうとしないためにイエスの言葉に躓いた。
<11-12>
11節以下の言葉は、イエスの言葉でありながら次第に著者の言葉へと移り行く気配が感ぜられる。「わたしたち」は知っていることを語り、見たことを証ししているというとき、そこには著者もその他の弟子たちも神の国の恵みの事実を自らの経験として証しする証人として立っている。ユダヤ教のラビたちは好んで天の事を語りたがるが、イエスは地の事を離れて天の事を語らない。彼は地上における救いの事実を証人として語ることによって人々の眼と耳とを開き、これを信仰に導こうとする。ニコデモの反問には「あなたは誰だ」という問いが含まれている。イエスはこの問いへの答なしには彼を去らせることを欲しない。「天よりの徴」を求める人々に「地の徴」すなわち地上における彼の言葉と業、彼の生活とその姿とを凝視してこれを「徴」として読み解くべき信仰をイエスは人々に訴えられたのである。
<13-15>
「人の子」とはイエスの自称であった。終わりの日に救い主(メシヤ)として来られる方は「人の子のようなもの」で「天から雲に乗って降る」ということは、ダニエル書(7:13)以来の信仰であった。もし「天のこと」を語り得る者があるとすれば、人の子こそその唯一のものでなければならない。しかも彼は「人の子」(人間)として今は「地のこと」しか語らない。やがて彼は「挙げられるであろう」。この語は杭につけて上げる。即ち十字架につける(8:28)という意味と天に挙げられる(12:32)、即ち昇天と二つの意味をこめて用いられている。モーセの蛇のことは出エジプト記21:8-9に記されているが、それが人々の救いとなったように、十字架にかけられ甦り昇天する人の子の将来は、蛇を仰ぎ見て救われた人々の場合にもまして永遠の生命を与え、保証する人類の救いとなることを著者は強調する。「信じる者は皆」、しかし信じない者は皆無、それが審判の現実である。このことが次の16節以下で詳述される。
<16-18>
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とはヨハネ福音書のテーマであり、また全福音書、聖書の根本的メッセージであって、この句は小福音と呼ばれている有名な一句である。「与える」というのは独り子の受肉と十字架とを意味する。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ロマ8:32)、「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」(1ヨハネ4:9)。この二句はこの節の最良の注釈となるであろう。「愛された」は事実の完了した姿を指し示しているので単なる思想や観念ではない。この事実を見て信ずる(6:40)者は「永遠の生命」すなわち救いを得る。著者は自らの経験を携えて読者に訴える。神がこのように独り子を世に遣わし給うた意図は「世の救い」のためであり、愛が示されるためではあったが、御子の受肉・派遣という事実の効果・結果は救いと共に、反面に審判(滅亡)をもたらした。救いは見て信じることによって働き出されたが、見てしかも信じない場合には、この福音の事実はかえって反射的に審判として働き、人を亡びへと定める。終わりの日に審かれて亡ぶるであろうというのではなく「既に裁かれている」と著者は断言する。真の審判は人間の判断の事柄ではなく、客観的な事実によって行なわれる。救いを現在の経験として強調するヨハネ文書は、信仰の終末性を深く把え得た結果として、反面に同時に審判と終末の現在性を繰り返して説く。信仰の訴えは「永遠の今」に人々を目醒めさせるのであって、「何れまた」と言って回避することを許さない。今晩、いな数瞬の後に死が彼を待っていたとしたらどうであるか。
<19-21>
人々が福音の言葉に耳を傾けず光として世に来た御子を信じないというのは、知らなかったとか出来なかったと言って逃れうる事柄ではない。それは知識や能力がないというような理由によるのではなく、積極的に「悪を行なう」という正反対の生き方に基づいている。信仰は生きること、真実に生きることである限り倫理を離れて成り立たず、生活の転換をあえてする勇気なしには不可能である。悪を行なう者はその行為が明らかになることのないように、「光よりも闇の方を好み」「光の方に来る」ことをしない。しかし、「真理を行なう者」すなわち真理──神の意志と栄光と──に歩もうとして、その生活に虚偽を隠し持っていない者は光を喜び、その下に立とうとする。審判とは真理と虚偽とを顕わにし、これを分離する働きにほかならない。真理は自ら真理であることを示すと共に虚偽を顕わにする。御子の真理は真の神であり、真の人であるという点にあり、人間の真の姿を示し、そのことによって現実の人間の罪を顕わにする。裁くという働きは、真理にとって欠かすことのできない働きであり、そのことを通して、始めて救いとは永遠の生命にほかならないことを示す。

3.2 ヨハネの証(22-36)
<22-24>
洗礼(バプテスマ)に関する論争が──恐らくその意義と効力とについて──ヨハネの弟子たちとユダヤ人との間に起こったことを切っ掛けとして、ヨハネは再びイエスの証人として登場させられ、それに続いて著者の証言が語られる(31節以下)。イエスの証人またその証言としては、ヨハネとイエスとは同じ線上、同じ場所に立っていると著者は考えているので、ここでもこの推移を不自然とは考えず、当然のことのように振る舞っている。
もう一つここで注意したいことは、ヨハネ福音書がイエスのユダヤでの活動を洗礼者ヨハネが捕らえられる以前に並行的に行なわれたことを記している点で、これは共観福音書がイエスの活動をヨハネの捕われた後ガリラヤで始めたと筆を揃えて書いている(マルコ1:14)のと著しい相違を示している。わたしたちはここで著者ヨハネが特殊資料に基づいて、共観福音書の記事を訂正しようとしているのを見て取ることが出来る。しかもユダヤにおけるイエスの活動の主なるものは「洗礼を施す」ことであったというのは、ヨハネの活動に協力し、そのメッセージを高く揚げて人々に神の国が近ずきつつあることと悔い改めの必要とを説いた事を意味する。「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」(4:1)という著者の註もこの事実を否定しているのではなく、パリサイ派の人々の批判に答えようとしているにすぎない。弟子たちのこの行為はイエスの指導と黙認の下に行なわれたと考えられる限り事実の意味に変わりはない。確かにイエスはヨハネの活動とその意義とを全面的に承認し、その上に彼の使命の道を見出だそうとしたことは疑いの余地がない。だからこそ著者もまた一再ならずヨハネをイエスの証人として呼び出してくるのである。ヨハネがバプテスマを施していた場所を「サリムに近いアイノン」と記しているが正確な場所はわからない。サマリヤのスキトポリス(ベトシャン)の南八マイル、エルサレムへの道に沿ったヨルダンの一渓谷という推定があるけれども、明白ではない。
<25-27>
「清めのことでの論争」というのは、恐らく、悔い改めの説教と共に行なわれる二人の洗礼が、律法が命じる「清め」とどういう関係にあるのか、またイエスの洗礼とヨハネのそれとで、清めの効果はどちらの方が強いのか、というような事柄であったと思われる。ヨハネ福音書の記者が1世紀末の小アジヤにおける洗礼者ヨハネの弟子たちの運動に対する弁証的意図を持っていたとするなら、この箇所もまたその一つと見ることが出来る。ヨハネは「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と言っている。ヨハネもイエスも、一般に人は神からそれぞれの賜物と使命とを与えられている。信仰はただ神に対してその分を知り、それに応えようとするのみで、自己と他との比較をしようとはしない。これはむしろ理性の要求に発する。何れがより大きな働きをなすかは神がなさせることであって自ら顧慮すべき事柄ではない(21:21-22)。
<28-30>
ヨハネは1:19以下の部分、ことに20節23節で言ったことを繰り返す。ヨハネは彼の競争心をそそりに来た弟子たちに対して、かえってイエスと自分との使命の別を示し、彼のこの証しを受け継いで人々に拡めることが弟子たちの任であると諭す。彼はイエスと自分との間を新郎とその友との関係に比している。神ヤハウェとイスラエルとの関係を新郎と新婦とに比べることは預言者たちの残した伝統であった。(イザヤ54:5、ホセア2:19以下)。人々(イスラエル)は新婦として新郎に属すべきもので、友はそれを喜びとする。友は新郎の道を先駆することを光栄とし喜びと感ずる。この一段は明らかにマルコ福音書2:18以下の記事を反映していると考えられる。
<31-36>
「上から来られる方」とは「天から降ってきた者、すなわち人の子」(13節)にほかならない。31節は、13節に続くと見ると自然である(モファット)。「すべてのものの上におられる」とは権威を持っているという意味である。イエスは「律法学者のようにではなく、権威ある者として」教えたとは人々の印象に深く残る驚きであった(マルコ1:22)。彼の教えは思弁や分析の結果ではなく「見たこと、聞いたこと」、すなわち直接の経験の「証し」にほかならなかった。これを受け彼を信じる者は神を信じることが出来た。神を信じるとは、ここで言う「神を真実であるとする」ことにほかならない。それは神の忠実・真実を信頼し、それと共にこれを証することであって、キリストを信じない者は神を偽りものとする(1ヨハネ5:10)。そこには永遠の生命の代わりに「神の怒」が永久に留まる。「従わない」とは不信仰というに等しく、それは知的な事柄であるのみならず、意志の事柄であり、信仰は行為である(使徒言行録14:2、ロマ11:30)。神の遣わし給うた者の上には神の御霊が「限りなく」与えられているというのは、計算出来ないというよりは比類なしとの意味である。このようなキリスト観というか、キリスト論というか、キリストに関する究極的な発言が結論的な形で繰り返して現われるのも本書の特色である。

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