落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>宴会の席での二題  ルカ14:1,7-14

2013-08-25 15:00:42 | 講釈
みなさま、
例年にない暑さも峠を越えたようですが、みなさまお変わりありませんか。私は無理をしないように、暑いときは外出をしない、エアコンを入れて室内に籠もる、という作戦で何とか乗り越えました。世の中、大変なようで、放射能によって汚染された水が大量に大平洋に漏れていたということで、海外では大問題になっているようです。この問題が今後の国際関係においてどのように展開するか、予想もつきません。
9月1日の礼拝奉仕の<講釈>をお送りします。

S13T17(L) 2013.9.1
聖霊降臨後第14主日(特定17)
<講釈>宴会の席での二題  ルカ14:1,7-14

1. 資料と語句
1節と6節は状況を設定する言葉で著者によるものであろう。本日省かれている2-6節の部分は、イエスの活動に関する部分で、当時のユダヤ教指導者たちと最も対立した安息日の規定に関する説話で、7節以下のいわば処世術に関するテキストよりは余程、礼拝に読まれるべきものとしては重要なメッセージを含む。何故この部分が省かれ7節以下が取り上げられているのかということの説明はない。この部分については平行記事もない。他の主日にもない。
ここには、元来関係のない2つの譬えが並べて置かれている。これら2つ譬えを結び付けているキイワードは「宴会」である。一つは、招待された客に向かっての譬え、もう一つは招待者に対する譬えである。これら2つの譬えは、内容的にみても全く異なり、相互にほとんど関連していないと思われる。ところが、これら2つを比較すると「構造的」には、驚くほど似ている。似ているというより、全く同じであると言える。
     ① まず、「~~してはならない」という禁止の教えが提言される。
     ② 次に、その理由として「~~かもしれない」という困った状況の可能性が述べられる。
     ③ 第3に、第1の禁止命令に対して、「むしろ~~なさい」という積極的な命令が述べられる。
     ④ そして、第3の命令に従った場合のハッピイエンドが予想される。
     ⑤ 最後に、結びとしてそれぞれの話しの結論的な教訓が加えられる。
このことから、ルカはかなり意識的にこれら2つの譬えを結び付けているということは明白である。何故ルカはこれら2つの全く関係がない譬えを、全く同じ構造によって関連付けて並べているのか、これが問題である。

2. 二つの譬え
ある日イエスはファリサイ派の議員に招待された。その時イエスは招待された人々の行動を観察して面白いことに気付いた。彼らはどこの席についたらいいのか迷っているようである。その様子を見て二つの譬え(7-11、12-14)を話された。一つは招待された客に向かっての譬え、もう一つは招待した者に対する譬えである。第1の譬えは常識的な知恵に類する教訓であるのに対して、第2の譬えは現実のこととしてはかなり無理がある。宴会を催すということにはそれぞれ目的があり、その目的に従って招待する客は決まってくる。その客が「招き返してくれるか、どうか」ということは、その際問題ではない。ここでいうように、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」を食事に招くということは、宴会を開催するというような次元のことではなく、むしろ福祉の問題である。従ってこの譬えの眼目は宴会を開催する者に対する心構えというようなことではなく、もっと一般的な「人間の生き方」、どういう価値観に従って生きているのかということが問題にされている。

3. 二つの譬えを結びつけるキイワードは何か
これら二つの譬えを結びつけて何かを語ろうとしているのはルカである。これらを結びつける共通項は「招く、招かれる」ということであるが、第1の譬えは招待客の座席の問題であり、第2の譬えは招待主が誰を招くべきかという問題で、むしろ全く無関係だといってもいいであろう。ところがよく読んでいくと、一つ隠れた共通点がある。最初の譬えでは、誰が上座に座るのかということで招待客の間での競争、あるいはお互いの社会的地位を計りあう一種の競争が展開している。ところが招待者が登場すると、上座に座っていた人が下げられ、末席にいた者が上座に座るように導かれ上下関係が明瞭になる。つまり第1の譬えでは人間社会における人間の格付けと神による人間の評価の違いが強調されている。この譬えでは招待者は神で招待客は人間であり、論旨は非常に明白である。従ってここで重要なことは単に宴席での上座とか下座のことではなく、この世における価値判断と神による価値判断との違いである。招待者である神が登場するまではこの世の価値観がまかり通っている。しかし神が登場したとたんに、それまでの常識的な価値判断が逆転し、末席しか与えられていなかった人々が、「もっと上席に進んでください」と言われる。ルカはこの譬えの教訓的結論として「誰でも高ぶる者はひくくされ、へりくだる者は高められる」という言葉を付加している。
ところが第2の譬えでは、招待者は一人の人間(私でもあり、あなたでもある)で、その人が「昼食や夕食の会」に誰を招くべきかということが話題になっている。イエスは「金持ち」を招くべきではなく、招くとするなら「貧乏人」にすべきだという。そもそもこの場面設定自体に無理があり、招待ということを食事を共にする親しい友人関係と考えると問題は明白になる。いったい私たちは誰と友だちになればいいのだろうか。その場合に、「友人、兄弟、親戚、近所の金持ち」と友だちになるということはいわば当然のことであり、それと共に大きな意味もある。ルカはそのことについて12節で「その人たちも、あなたを招いてお返しするかも知れないからである」と説明している。この関係がこの世における友人関係の基本である。ところが、「貧しい者、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」、要するに誰かの助けがなければ生きていけない人々」と付き合うことは時間的にも経済的にも得になるどころか損になる可能性が高い。そういう人間関係を通常の友人関係といえるだろうか。
この譬えを、誰と友だちになるべきかというレベルでだけ読んでいると、イエスの真意は見えなくなってしまう。重要な点は、この譬えを私の生き方の核心部分にあるもの、付き合うべき相手が金持ちであるとか貧乏人という対人関係ではなく、私自身の内部における私自身の問題、私がこの世で生きるということの「根本姿勢」として捉えなければならないように思う。私がこの世において生きるときに最も大切にしているものは何なのか。この譬えはそのことを問いかけている。
その場合、「 友人、兄弟、親戚、近所の金持ち」とは、この世で生きていく上で役立つ人たち、頼りに出来る人たちを意味する。私たちがこの世で無事に生きるためには大切にしなければならない人たちであることは間違いない。しかしこの人たちは私が生きていく上で無くてならない人たちであろうか。どんなに親しい友人も裏切ったり離れたりすることがある。兄弟も親戚も程度の差であって、無くてはならない人たちとは思えない。言い換えると、この人たちとの付き合いは、「ギブ & テイク」の関係である。
私にとってそれが最も大切なものなのか、どうか。逆に「貧しい者、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」とは、誰かの助けがないと生きていけない人々であり、私が何かをしても決してお返しを期待できない人々である。その意味で、この世の価値基準からいうと「マイナスの価値」を担っている人々である。従ってこの人たちと付き合ってもこの人たちからこの世的なメリットを何も期待できない。むしろこちらから与えなければならないという関係である。そこが重要な点で、こういう人たちとは誰も付き合いたいとは思わない。イエスは正にその点において、この世において誰かと付き合うとしたらこういう人たちと付き合えと言う。どうもルカはこの点がよく理解出来なかったのか、「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなた方は幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」という一寸ピントのはずれた解説をする。イエスはあの世のことなどここでは考えていない。あくまでもこの世での私の生き方の問題である。イエスがもし誰かと付き合うとしたらこういう人たちと付き合いなさいと言った意味は何か。彼らと付き合うことによって、何らかの名誉を得るとか、自己満足するということなのだろうか。
私にとって最も大切なものが、ここにある。一寸難しい話しになるが、この世の通常の生き方においてはいろいろな人と出会い、いろいろな人と友だちになるが、その出会いにせよ、友だちになるということにせよ、全て受け身である。そこにその人が居るからその人と友だちになる。つまり受け身である。相互に受け身である。それが普通の友だち関係である。
ところが、そこに居ない人、いや実は居るのだけれども自分には無に等しい人、目にも入らない人、目にはったとしても全く無視できる人と友だちになるというためには、こちらから積極的に話しかけていかねばならない。そこでは受け身という自分の殻を破り出て行かねばならない。それが主体性というものである。
このすぐ後に出てくるラザロ物語(16:19-31)を思い出して欲しい。ここに登場する金持ちは毎日ラザロを見ている。何しろ彼の家の門の前に座っているのである。しかし彼はラザロを全く無視して生きてきた。そのことによって彼の生活に何の支障もなかった。しかし彼は毎日毎日、大切なものを失っていたのである。自分自身という大切なものを。彼は生きている間、そのことに気が付いていなかった。福音書では「死後のこと」として次の場面を語るが、実はそれは生きているときの内面の生活を物語っている。「わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。ラザロの指先を水に浸し、わたしの舌を冷やして下さい」。これは反転した世界を描いている。
つまりイエスが「貧しい者、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」を招け、あるいは彼らと友だちになれというと語るとき、そのことを意味している。本当に主体的な生き方とはここにある。
別な観点から見ると、私の生き方の根本が「ギブ アンド テイク」というこの世で通用する生き方なのか、それとも「与えるだけで受けない」という生き方なのかということである。それを言葉にしてしまうと、非常に単純で、「受けるより与える方が幸いである」ということであろう。






最新の画像もっと見る