やおよろずの神々の棲む国でⅡ

〝世界に貢献する誇りある日本″の実現を願いつつ、生きること、ことば、子育て、政治・経済などについて考えつづけます。

【中学歴史教科書8社を比べる】335  (23) 日中関係Ⅱ(第1次世界大戦以後-1945)-23- <ⅳ 日中戦争(支那事変):まとめと考察 4/4> 

2017年10月25日 | 中学歴史教科書8社を比べる(h28-令和2年度使用)

(23) 日中関係Ⅱ (第1次世界大戦以後~1945) -23-

ⅳ 日中戦争(支那事変)-10-

■まとめと考察 4/4


 

1 「和平工作」の描き方

● 日本政府が一方的に和平を拒んだと誤解される表現。 → △ 教育出版。

 

2 「重慶爆撃」の描き方

■基礎知識 <ウィキペディア:重慶爆撃>より
・「爆撃は主に1939年から1941年の、視界が確保できる春から秋の間に行われ、投下した爆弾は1940年には4333トンに達した。爆撃は海軍航空隊、陸軍航空隊それぞれが日程調整のうえ実施した。爆撃目標は「戦略施設」であり、1939年4月の現地部隊への指示では、「敵の最高統帥、最高政治機関の捕捉撃滅に勤めよ」とあり、アメリカ、イギリスなど第三国の施設への被害は避けるようにと厳命されていた。しかし重慶の気候は霧がちで曇天の日が多いため目視での精密爆撃は難しく、目標施設以外に被害が発生する可能性があった。そのため後期からは完全な無差別爆撃・絨毯爆撃となった

 重慶爆撃のなかでも特に大規模な無差別爆撃であったのが、海軍主導によって行われた1940年5月17日から9月5日までの百一号作戦、および1941年5月から8月までの百二号作戦である。日本の軍中枢で日中戦争とは別に対アメリカ・イギリス・オランダとの開戦が取りざたされはじめたことから、海軍、特に中国方面で作戦指導にあたっていた井上成美支那方面艦隊参謀長らが、日中戦争の早期終結を目的に提言した作戦であった。

 一方で陸軍ではこの百一号作戦と百二号作戦に対して飛行部隊を一時協同させたものの、効果が薄く無意味かつ非人道的・国際法に反する行為であるとして無差別爆撃に強く反対する声があり、第3飛行団長として重慶爆撃を実施していた遠藤三郎陸軍少将が中止を主張、上級部隊である第3飛行集団木下敏陸軍中将に「重慶爆撃無用論」を1941年9月3日に提出している(遠藤第3飛行団長は実際に重慶を爆撃する九七式重爆に何度も搭乗し、その無意味さ・非人道性を確認している)。この「重慶爆撃無用論」は参謀本部作戦課にまで届き採用され、陸軍は重慶爆撃への参加を中止することとなった。」

 

●詳細を強調しすぎだろう。 → △ 学び舎。

 ※文字が普及して以来、具体的で細かな”言語的1次資料”はたくさんある。だから、歴史著述家は”どの史実”を採り上げるかでその軽重を表していると思われる。中学生に教える日本史のバランスを考えれば、「重慶爆撃」についてどうしても書きたければ、「前半は戦略目標を狙ったがうまくいかず、後半は(非人道的な)無差別爆撃を行った。」という表現・分量ぐらいが妥当だろう。

 

3 「民衆の被害」の描き方

● 日本軍の残酷な行為だけを描いているのは偏向。 → △ 清水書院、学び舎。

 ※普通の日本人なら、《日本人より中華圏の人間の方がはるかに残酷》だということはよく知っている。どうしても書きたいのなら、同時に《中国人が、中国人や日本人などにした残虐行為》も紹介しなければ、現代の日本人中学生は誤解するにちがいない。

 

■いわゆる「自虐教科書」について

 《第1次世界大戦以後の日本史》を描いた教科書は、「自虐(的)教科書」だ、と言われ始めて久しい。確かに、まだ半分ほどしか比較調査をしていない段階だが、実はすでに古代の部からそのような教科書の実態が現われている。

 これまでに明らかになっている”自虐”の特徴は、いままでのところ以下のとおり。

① 日本文明の特性・特長を、できるだけ無視する。

② 日本(人)の「欠点」や「悪」を、一方的に強調する。

③ なぜか、中華圏(朝鮮半島・中国亜大陸)の目線や立場で状況を描く。(日本人が作った(?)、日本人のための教科書なのに…)

 

次回、日中関係Ⅱ:全体のまとめ~

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《著者:松永正紀  教育評論家 /h22年度 唐津市・玄海町:小中学校校長会長》