■よい遊びを (11)
3 どんな遊びが良い遊びなのか (3)「ヒト」や「社会」などが体験できる遊び
B.家庭での遊び ~家族などによる室内遊び~
前回のまとめ・・・ゲームは、子供などにとってはとても魅力的な遊びだが、他の「より良い遊び」をやめてまで熱中させてよい遊びではない、ということができる。できるだけ、ほかのより良い遊びをするように指導・誘導するのが賢い子育て。
●自宅での子供の遊びの現状
多くの子供たちが、多くの時間を、「ゲーム機」「テレビ・ビデオ」「マンガ」に使っているようです。
学校やスポーツクラブなどを中心とした「子供社会」の現状をみると、普通の家庭では、自分の子をそれらの「いろいろと危うい要素がある遊び」から無縁でいさせることはまずできないでしょう。
なぜなら、子供も子供社会の中でその一員として暮らしていかなくてはいけないからです。 また、それらの遊びが《すべて全面的に子供の健全な成長にとって悪い》というわけではないからです。
したがって、賢い子育てをしたい親は、いろいろと工夫をする必要があります。
●自宅で「良い遊び」が成立する条件
良い遊びとは、《自然や、「善い人」・「善い社会」が体験できる遊び》のことだと思います。したがって、自宅での良い遊びが成り立つ条件は・・・
(1) いっしょに遊ぶ人が善い人々であること。
「悪い人」といっしょにいれば、どうしても悪い影響を受けるのは避けられません。
ですから、家庭でよい子を育てたいなら、親も祖父母も努力して「善い人」にならないといけません。また、自分の子と遊ぶ友達も「善い子」であるほうがいいに決まっています。
「悪い子」は、教え諭して「善い子」にする、あるいは、自宅に入れないなどの努力や工夫が必要です。
※ここでいう「善い人(子)」とは、倫理・道徳的に善い心をもつ人のこと。
また、「よい人(子)」とは、善い心をもち、かつ、人生を皆と仲良く助け合いながら積極的に生きようとする意欲をもった良い人のこと。
「わるい子」とは、とても少ないながら、残念なことに、「よい子」と反対の傾向を強くもってしまっている子のこと。
もちろん(=あらゆる現実的事象がそうであるように)、「よい人」と「わるい人」の間にはさまざまな状況の人々がいます。
(2) いっしょに遊ぶ人々との「人対人の交流体験」がたくさんできる遊びであること。
例えば、「ゲーム機を使った二人遊び」よりも、「毛糸を使った二人のあや取り遊び」のほうがはるかによい、ということです。
※「危うい遊び」について再び・・・ここまで【よい遊びを】シリーズを読まれた方々はとっくの昔にお気づきでしょうが、現代の地球上では、「非人間的な遊び」がかなり流行しています。
「非人間的」という意味にはおおむね二つの傾向があります。
・「あまりにも非現実的」なので、「非人間的」といえる遊び・・・非現実的小説やゲームなど。
これらは善悪の問題ではなく、それに「染まり」すぎると現実感覚が弱くなってしまい、さまざまな「現実への不適応行動」が表れる危険性が高くなります。
・上記より悪い、「あまりにも反倫理・不道徳」なので、「非人間的」といえる遊び。
・・・「楽しみながら殺人や傷害行為などの悪いことをするゲーム」や、(非日常的現象であるのに)、あたかも殺人や傷害行為などの犯罪行為が日常的であるかのように描かれている映画・ドラマや小説など。 ※もちろん、《より主体的に関わる行為をする》という点で、前者の方が《はるかに危うい遊び》だと思います。~
これらの「危うい遊び」は、(一部の人々にとっては? それとも多くの人々にとって?)「とてもおもしろい、あるいはエキサイティングな遊び」であるのはまちがいありません。
それは厳然とした事実です。ですから、多くの企業が次から次へと新商品を送り出すことができるのです。
私は、現状の現実世界においては、「国家対立」や、「中共のような悪どい国家」や「悪人たち」に対抗するために、軍隊や治安機関などが「戦闘訓練」や「格闘訓練」をすることを否定しているのではありません。
「暴力をふるう訓練」は、「核兵器」が自国を守るための最終兵器として「必要悪」であるのと同じように、やはり「必要悪」です。
しかし、そのことと、子供たちに、《日常的に、脳内のシミュレーションとして、暴力をふるう訓練をさせること》とは全然違います。
前者は《必要悪を自覚して行う成人の訓練》であり、後者は《未成年の子供の、無自覚的な暴力への耽溺(たんでき)》なのですから。
一方、それらの「危うい遊び」と対極にあるのが、いま追究している「より人間的な遊び」ということになります。
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