私にとって多摩川べりを自転車で走ることは、身体作りとか気分転換とかただ単に多摩川が好きとかいうのもあるけれど、淡々と漕ぎながら物思いにふける時間となっているのが多い。
川の向こうの多摩丘陵の緑を眺めながら(時々ね)、土手の草が目に映りながら、信号や交差点がなく追い越し追い抜きすれ違いにのみ気をつけながら黙々と漕いでいると、だんだん心が自由になってきて、頭の中も風が吹き抜けるようになる。頭の中だけでなく全身も動いているのがまたいいらしい。思索、思慮を重ねていくうちにぱぁーん! と視野が開けることはしばしばだし、神さまに感謝したり、人様に感謝したりその逆にもうそのことは忘れたり、気持ちの整理がついていくことも多い。いわば私にとっての小さな哲学の道である。
今日の帰り道もそうだった。
働くことだけに集中し過ぎて、人としてのやさしさや感受性、やわらかい感性がだいぶ奥に行ってしまったようだ。やさしい心を取り戻すにはだれかからやさしくされないと思い出せないことがある。私にとって一瞬で人のやさしさを思い出させてくれる存在が一人いて、日野のあたりを走りながら彼女のことを思い浮かべていたら、なんだか胸が熱くなってきた。ああ、最近働くことばっかり考えていて人のやさしさあたたかさを感じる引き出しが閉まりかけていたなあとバランスを取り戻す。そして考え始めたことは、たましいをどんどんやわらかくしてくれ、目に見えないものが見えるようになっていく。
みずみずしさを取り戻した心が感じることは、優しい振動で全身に伝わり、素直に涙になりことばになり、祈りにつながっていく。亡くなった人たちのことを考え、今生きている人たちのことを考え、神に祈り、自分を鑑み、一歩踏み出した視点で人を思い遣る。帰宅してからかけた一本の電話は、マイナスの感情から自由になった上で感じたことをことばにして伝え、主張ではなく説明を伝える。初めて相手の立場を理解できたし、泣くことができ、感じたことを素直にことばにすることができた。充分にことばを交わした上で電話を切った後、ただひたすら思いのうちと願いとを神に祈る。心の囲いと緊張、攻撃に対する身構えから解かれたからこそ感じることができたこと、文字になったことば。
多摩川を走りながら、無意識のうちに心をほぐしていることに今日初めて気がつき、だからあんなにあの道が好きなんだ、ということがよくわかった。今まで本当に無意識のうちにそれをしてきていたんだね。