しずか

2008-12-31 22:50:43 | Weblog
 大晦日の夜、いよいよあと少し。
 なんといっても、しずかなのよ、外が。車の音が全然しない。何もかもが息をひそめているかのよう。
 今晩だけ、時が刻一刻と過ぎていくのをみじろぎせず凝視しているような。

忘年会終了

2008-12-30 02:00:25 | Weblog
 全部で四つの会合は、無事終了した。なんと急病人が二人も出て、おうちにおよばれした会は急遽一人で向かうことに。三人でお喋りするのと二人で喋るのとではやはりいろいろ違うから、なんていうか台本を作り直すのが少し大変だった。

 今年、お手伝いさせてくれた漫画家先生は、アシスタントさんたちにリッツ・カールトン東京でのアフタヌーンティの時をプレゼントしてくれた。45階から見上げる空は青く、澄み渡った空気ははるか埼玉まで見渡せる。一度も座り直さないくらいの座り心地のいい椅子と口当たりのいい茶器、自然なサービス、一つ一つがおいしく、丁寧に作られたパンやお菓子たちの数々。まさにヘヴンリーな時間と空間を、心行くまで楽しませていただいた。ただ一つ残念だったのはお水をいただかなかったこと(なんでもない冷水が伝えてくれることは意外に多い)。
 がんばって出世して、今度は自分の力で、憩いに行きたいなあ。

 急病人が出たおよばれの会は、二人用の話題の準備と台本の確認をしながら、寝坊したこともあって慌てて支度していると、会場担当の友人から電話。もしや中止? と思って出ると、「○ちゃん、来られなくなったね。汀は大丈夫?」「うん、もちろん」「来てね、ぜひ来てね」。
 このタイミングでこの発言に、思わず吹き出した。台本の練り直しもうっちゃって、笑いが止まらなくなってしまった。この感覚、ほんとすごい。肩の力が抜けて、より楽しく向かうことができた。

 最後の会は中目黒にて。毎日井の頭線と渋谷駅を行ったり来たり、すっかり詳しくなった。渋谷駅ってどうしてあんなに複雑なんだろう。私鉄が複数乗り入れすぎなのかな。階段を上がったり下がったり、なんかごちゃごちゃして嫌だわ。
 長年勤めた会社をとうとう(やっと、かな)辞めた人と、次の進路を祈り求めている人。長い人生の一瞬で行き交ったのだろう。たとえば来年一年でも、どう変化するのか、お互い楽しみである。

 今年も一年、たいへんお疲れさまでした、皆さま。

どうしてかな

2008-12-29 12:46:39 | Weblog
 だれにだって秘密の一つや二つはある。
 そんな、墓場まで持って行こうと思っていた秘密を、どうして今日、彼女の前でするりと語ってしまったのだろう。
 言った自分に自分がいちばん驚いた。
 いっとうは、自分の中でもう処理された過去だったということだ。必死に死守しなければならないほどの緊迫感が薄れているのかもしれない(つまり、どーでもいいのだ、もう)。でも、それだけで誰の前でもしゃべることはないから、聞いてほしかったのか。彼女なら、預けておけると思ったのかな。
 それを機に、トークはますます深くなっていったのだけど。ーーたとえば、20代後半から30代までを、うっかりたちの悪い男に使ってしまったとくくれることに気がつく。二人して「あ~あ、やっちまったね私たち」というのもなにか区切りの一つなのかもしれない。

 そんな、ダークな過去をなぞるようにさらしていると、1歳半になる彼女の娘が急に「こわい」としかめ面をする。もちろん内容は理解できないけれど、その過去のもつ空気を一言で言いあてたその感性に脱帽。すごいよ、ぴーちゃん(仮名)。大人になる日を楽しみにしてるよ。

忘年会スタート

2008-12-27 21:09:33 | Weblog
 今年は忘年会が三日の間で固まった。
 今日はその初日、江古田に2時。お一方が発熱のため、二人で宴。やっぱりちょっとさみしい。ふつうの食事みたいになっちゃった。
 ちなみに友人は、駅前のナイスな洋品店(との呼び名がふさわしいのでは)で、特売のはんてんを購入。日本人の知恵に感動しながら、かさばるわりには軽い綿入れを持って帰って行った。

掃除の醍醐味

2008-12-27 00:09:57 | Weblog
 大掃除。毎年、天井と壁は必ず拭く。置いてあるモノをどかして、拭く。置いてあるモノも拭く。とにかく部屋から埃を一掃(したい)。
 そんなに大幅に捨てたわけではないが、なんとなく部屋が広々として、すがすがしく感じるのは掃除の醍醐味。モノを移動しがてら新しいレイアウトにしたり、日頃気になっていていたところを改善したりして居心地よくなるのも掃除の醍醐味。大きく肩を動かしたり、イスに乗り降りして踏み台昇降をたくさんしたりするのも掃除の醍醐味。
 今年は静かに年越ししたいなあ。。。


なぜ今……

2008-12-26 20:18:48 | Weblog
 大掃除で見つかった、クリスマス向けの大きなキャンドル2個。
 なぜクリスマスが終わった今見つかるのか。まさに「役立たず」そのもの。……一年後まで、またしまうか…………。


 ブログの画面では、もう少しクリスマスの余韻を楽しんでいます。

クリスマスの朝

2008-12-25 10:17:22 | Weblog
 「数年前、『もしキリストが生まれなかったならば』と題した珍しいクリスマス・カードが出版された。……そのカードは一人の牧師がクリスマスの朝、その書斎で短い眠りに落ちた時、キリストがお出でにならなかった世界を夢見たのである。
 彼はその夢の中で家中を見回したが、暖炉の上には一足の小さい靴下もなく、クリスマスの鐘、ひいらぎの枝、慰めたもうキリスト、私たちを喜ばせまた救いたもうキリストを発見しなかった。彼は屋外に出て町を歩いたが、天をさしてそびえ立った尖塔をもつ教会もなかった。……
 ドアのベルが鳴って一人の使いが、彼に、貧しい死にかかっている母を訪ねてくれと願った。彼は泣きじゃくっているその使いの子どもと一緒に、急いでその家にいった。彼はすわって「私はあなたを慰めることばを持っています」と言った。彼は聖書をあけて、よく知っている神の約束を探した。しかし聖書はマラキ書が一番終わりになっていて、福音書も希望も約束もなく、彼はただ頭を垂れて絶望のどん底にある母と共に泣くばかりであった。
 二日の後、彼は彼女の棺の側に立って葬式を司ったが、そこには慰めのメッセージも、栄光ある復活も、開かれた天もなかった。ただあるものは『塵は塵に、灰は灰に』ということと、永遠の訣別だけであった。牧師はついに『キリストがこなかった』ことを明白に認め、悲しい夢の中で涙を流して、いたく泣いた。」(『荒野の泉』より)

 もしイエス・キリストが地上に生まれてこなかったら、聖書は旧約聖書で終わっていたし、信じる者への天国も復活もなかった。クリスマスなんてTVでもデパートでもやっているし、あるのが当たり前だったけど、「もしなかったら」を考えると、想像もできないほど殺風景な、荒廃した人生を送る人がどれだけ多かったことか。私もそうだった。
 メリークリスマス。

赤べこ

2008-12-23 19:37:42 | Weblog
 ここ数年で初めて丁寧な宛名書きをしたかもしれない、としみじみ思うほど心を込めて書いた。乱筆度ほぼゼロ(自己申告)。
 来年は丑年で、表面の下には赤い牛の絵が描かれている。4枚めあたりで、牛に黒い模様を書き込むことを思いついた。それで、宛名が乾くのを待ちがてら、恩師の方々以外にはすべて書き込んだ。一枚として同じ模様はなし。足や顔など細いところに模様を書きこんで塗っていると、まるでベタ塗りをしているような錯覚に陥る。
 来年の賀状の牛に模様を書き込んだ人の割合は、日本全体でどれくらいだろう?