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経済理論に完全な形で創られた理論は、現在に至っても存在していません。
経済の仕組みは人間の欲望に大きく影響や支配されつつ続いてきました。
人間が集団生活を始めたころに、集団と集団、個人と個人の間に貸し借りが生じて、経済という概念が生じてきたものと思います。
経済理論は古代からの人間生活からうまれました。人間という曖昧模糊な生き物が、その生活の中から生んできたのです。
ですから、自然科学を理論的に作り上げてきた学問と同じようにしたかったのではないかと思われます。しかし、曖昧模糊な人間の生活、集団などが、合理的には理論化は難しいことを、無理をしたのではないか、と想像します。
私は、経験がありませんが、大学の経済学部で学ぶ場合、かなりな高等数学を屈指した経済理論を学ぶそうです。数学の微分や積分までも使うそうです。
経済学に宇宙物理学のような絶対性を望んで構築されたようです。そのために、自分たちの主義や主張を無理やり構築したものと思います。それが、新自由主義なのです。古典派経済学の人々です。
貨幣が兌換紙幣のような情念の形で存在してきました
人間世界の生活習慣で、決して合理的ではなかったはずの生活の延長線上の経済の仕組みを無理をして理論化したようです。
完全な経済学を求めて、数学を使いながら、アインシュタイの相対性理論、特殊相対性理論に見合う経済理論を構築したかったのでしょう。しかし、無理だったのです。
ですから、無理な理論構成で、『信用創造』で融資された負債は返済してはならないようです。
市場では、返済される貨幣で、経済成長を止める行為、即ち、負債の返済をすると、その分の貨幣が消えます。信用創造の逆の現象が起きるのです。無い処から貨幣が発行できるので、返済で市場から貨幣が消えます。
現在の日本では、国債発行は借金だとしています。
自由経済・新自由主義経済では、市場に政府は関与するな! として、政府の規制も無くせ! として、財政も税収で賄え! 財源は税収以外は使うな、市場は自由で、規制をするな! 金融経済からの利益には減税をしろ!
税収は財源にはできない状態があることは、前に述べました。
こうして、あらゆることで、金融投機や、共同体を解体して、その資産の売り買いに規制はするな! となり、投機に利益の課税は、日本市場最低の22%まで落ちて、尚、減税へ向かっています。
この新自由主義経済では、貨幣がモノになります。預金という貨幣もモノとして認識します。
銀行の企業や個人への融資、国債の買い取り、が私たちの預けた銀行預金から貸し出している、というのが、貨幣の又貸し論です。
実は、貨幣は信用創造で発行されています。
国債発行も、日本銀行が日本銀行の当座預金という貨幣を発行して市中銀行に貸し出し、その日本銀行の当座預金から、日本政府の発行した国債を買い取っています。
私たちの銀行預金の又貸しをしているのではありません。
しかし、ここで大きな問題が生じます。
負債は返済しなくてはならない、という常識が存在します。
この常識の返済の義務は、『貨幣のプール論、又貸し論』でなくては、貨幣の負債の返済という義務が成り立たないのです。
新自由主義のモノ貨幣路の理論であったても、信用創造で日本銀行も市中銀行も貨幣の発行をしてきています。この事実は消えません。
認めるか認識するかの違いはありますが、貨幣の発行はこの信用創造で貨幣は発行されてきました。
しかし、常識として、融資された貨幣は返済をさせられます。法的に縛られて、返済義務が発生します。
この法的な縛りを現実に施行されると、貨幣の『プール論、貨幣の又貸し論』が裏打ちされています。信用創造では、返済の義務を強制する根拠がなくなります。
どう考えればいいのでしょ。
経済理論と社会の仕組みが全く同居できない状態です。
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