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なぜ『癒されたい』のか、常に癒しを求めるのはなぜ? そのーNO.2

2016年03月18日 | 日記
 前の投稿からの続きです。『癒し』というテーマは実は私に一番苦手なことなのです。

 このブログは、書き切れなかった部分を追加しつつ完成させています。頭の回転が元々悪いのに小難しい事を述べようとする見栄っぱりな部分があるのでしょう。申し訳ないことですが、良かったらお付き合いください。
 
 最後の部分に追記しました。その部分だけで『癒し』が語られていて、他は無くてもいいのかなと・・・・・・。

 激しい攻撃性を持つ人間が、理性よりも感情が支配する人間の行動原理を、誰でもが良く理解している。
 
 ただ、感情を全面に押し出してしまうと、欲求が達成できない人間どうしの難しい感情の縺れ(もつれ)が出てしまい、事が上手くゆかない。周囲の人間をどう説得して、どう行動をさせるか、学問的にも存在するくらいに、こうした心理学的な方法論が考えられている。
 また人それぞれの経験からその原理を獲得して実行しようとしている。そこまでする動機は、自分の欲望の達成のための工夫でる。権力欲の獲得には、時には力を見せて脅したり、ときには懐柔したりする。
 同僚どうしでも同じ行為をして勝ち残るために奮闘している。

 物理学の世界の言語は数学である。一見、非常に科学的であり、理性的であると考えるが、『人間は感情的であり、その感情が作り上げてきた情念の塊である。まことに頑固な情念の塊なのである。』 

科学的検証作業でも 感情の大きなうねりや、功名心に左右されてしまい、虚偽の論文を書いてしまったりする。また、こうあるべきだといおう感情論に引きずられて客観的な思考が鈍る場合もある。科学的成果を挙げて自己顕示欲を満足したいのか、ただ注目度を挙げたいのか混乱するのも人間である。
 
 ここからは、推測で世間で騒がれた事件を、『癒し』の括りで検証してみる。

 女性の場合で科学的組織にいたある人物は、子供の頃よりの習性で、常に周囲の男からの注目を浴び続けていたがる無意識の行動をしてしまう。場所が変わっても、その習性は変わらず、子供のころからの手慣れた意識的、或いは無意識的な行為に周辺が巻き込まれることがある。
 
 とても科学的思考ではないのだが、頭脳は明晰なので、雰囲気は科学者である。しかし、多分、本人も無意識で、お姫様的な状態への強い欲求から起こる情動を、抑えられずに科学的な場所で、科学的な成果ではないヒロイン的情動を満足するために虚偽の成果を偽造してしまうのだろうか。
 従って、虚偽で、周囲に迷惑をかけても、目的が科学的思考ではなくヒロインであることに拘るので、罪の意識が湧いてこない。名だたる科学者を手玉にする行為も含めて、意識的に、虚偽の論文を書いたのであれば、その知性で世間に顔出しはできない激しい自己嫌悪に陥るのではないかと想像する。
 虚偽の論文も、あらゆることが嘘であっても、目的意識は、ヒロイン的な注目度なのであろうから、意に介さない。どこか無意識な部分の情動に突き動かされているので罪の意識のストレスはない。寧ろ世間から、周囲から忘れ去られる恐怖のほうが強いはず。
 癒されるための行為もこうなると恐ろしさも呈してゆく。母親は大学教授だそうだ。姉もからりな科学者らしい。こうした環境で、しかも母親も姉もかなりな美人であったら、周囲から注目を浴びてきたろう。姉妹の姉が美人で優秀な頭脳で、子供のころから可愛がられていたのを見てきて、そんなに美形ではない本人は、子供頃より周囲の注目を集めるための方法をいろいろしてしまう悲しき性(さが)がある。嘘も平気でつくような日常が生じてきたのだろう。

 以上、推測である。

 
おおむねの人は、既成の観念や概念に縛られて生きている。否、むしろこの既成の概念の中での感情的な安心感に安住することで、精神的な安らぎを得ている場合が通常の人間の姿である。その背景には、安住してきた情念の世界が、変化することへの無意識な場合の恐怖心や不安感との闘いがある。癒しとは正反対のストレスになる


 合理主義は、頑固な情念を破壊することが多い。そのために頑固な情念が激しく反発する社会現象がある。ときには大きな外圧がないと改革ができない理由である。我々は、ナルシズムの世界に心地よさを感じて抜け出せない。激しいストレスが自らを変えることができない。
 
 日本の先の太平洋戦争は、科学的考察を無視した、精神論で戦争をしようとしたことが大きく間違っている。戦争に至るまでには、人間の精神を何かの要素で激しい陶酔感に追い込むことがなければできない。本来人間が持つ攻撃的欲求を集団的な行動をさせる感情的な戦慄が必要であるはずだ。
 
 戦前の権力構造は、長州藩閥と薩摩藩閥が大きく存在した。長州藩は『吉田松陰』に代表される精神主義で幕末期に攘夷論(西洋人の排斥)を唱えて若者の支持をえる。明治に創られた憲法では、天皇の指揮下に、陸軍と海軍が存在した。政府や国会の指揮下には無かった。ここに軍部の特に陸軍の独走を止められない憲法上の問題があった。
 
 明治期に、日清戦争に勝利した。この時代は、欧米列強の植民地になってはならないと、明治維新という革命を起こした。先に述べたように、長州の『吉田松陰』の『尊王攘夷論』の強い情念で革命を成功させる。
 日本周辺では、清国とロマノフ王朝のロシアが、日本に迫っていた。朝鮮半島を征服せんと虎視眈々とねらっていた。朝鮮半島が大国の領土になると、日本の危機である。

 日清、日露の戦争は、こうして始まる。
 
 日ロ戦争時は、ロシアの軍艦の旅順艦隊と地中海から大西洋を、そしてインド洋を経てアジアへ向かうバルチック艦隊が一緒合流すると軍艦の数、軍艦砲門の数で太刀打ちできないので、旅順港に隠れ旅順艦隊を先の絶滅せんとするが、バルチック艦隊との合流を待つために旅順港から出てこない。

 そこで、艦載砲を陸揚げして砲台を築き、陸から旅順港の軍艦を砲撃する方法を考えて、旅順港を見渡せる203高地の奪取を海軍から依頼されて攻撃を始める。その陸軍の大将が『野木希典』である。彼は精神論的将軍の典型で、ただ、そこに大将が存在すれば良いとして、戦況は参謀に任せきっていた。
 
 203高地で、日本軍はロシア軍の機関銃の射撃の的になる。ここに日本陸軍は、初めて機関銃という兵器を経験する。多くの犠牲が出てしまうが、精神論の長州藩の戦法は、ただ兵士の死体の山を築くだけであった。
 
こうした事態に、203高地の奪取を急がせる海軍の要望に、野木将軍から指揮権を借り受けた、同じ長州藩の児玉源太郎という、合理主義者が、既成の概念をに拘る野木将軍の参謀達の常識を破り203高地を奪取して、港に停泊中のロシア軍艦を砲撃。203高地の上から、砲撃の方向、距離などの誘導で、ロシアの旅順艦隊は撃滅できた。

 今も残る長州藩出身者の根深い精神論的な情念が権力者に多くいる。
 第二次世界大戦の敗戦で、アメリカ軍は、日本の権力機構を破壊をしようとしたが、対ソ連への冷戦が始まっていたので、反共の砦として、財閥の解体も適当にして、官僚などの権力機構の温存をした。いまだに、薩摩系と長州系が高級官僚が、その家族達、代々が続いて支配層に君臨している。
 
 岸信介、佐藤栄作、安倍首相は、完全な長州閥の権力者の家族である。郷愁という情念からか戦前への回帰を画策している。太平洋戦争をなぜか肯定したがり、あの戦争の悲劇を起こした指導者を罰した、アメリカ連合国の極東軍事裁判を勝者の理論であり受け入れられないとしている。
 敗北した、無条件降伏した日本は勝者の理論に従うしかないだろう。敗北が解っていたはずの戦争行為を止められない官僚的な指導者は、軍内部の若手将校の逆上せ上った、陶酔感を止めると、戦前の226事件のように自分達日本の指導者幹部が殺されかねない恐怖心から、戦争を止めることができなかった。その罪は重い。
 
 その間、日本兵を見殺しにしたり、沖縄戦では、一般市民も多く死んだ。本土爆撃で、多くの市民をころしたし、2個の原爆で40万人も死んだ。その責任者を靖国神社に合碑するという。天皇を中心の神代の国という精神主義的、日本論を信奉する一派である。
 愚者は黙れ、俺様の権力に逆らう奴は立ち上がれないようにしてやる。そんな脅しを掛けて、特権意識を盛んにする右派が、憲法9条の改正と共にただの郷愁から時代を逆転させようとしている。
 
 安倍氏にとっては、それが癒しになるのだろう。しかし、そこに多くのストレスも感じているはず、しかし、頑固な情念が突き動かしている。

 こうした既成の情念の世界を過去の偉人が変えてきた歴史がある。有名なところでは、コペリニクスの『地動説』、ダーウィンの『種の起源』などがある。不思議なことに、宗教裁判までして、ダーウィンの説と対決したアメリカ宗教界は、何度も敗訴しても、宗教を捨てない。キリスト教原理主義まで出現している。

 ユダヤ教もイスラム教も捨てられない人類。この不合理な情念だけの一神教を手放すことができずに、激しい戦争に明け暮れている。ベトナム戦争でも、アメリカ型自由主義のキリスト教社会が理想の国家として押し付ける。中東諸国への戦争もしかり。大きな矛盾に満ちたキリスト教的な社会観や、限界に達しようとしている資本主義の社会。自由と言うが、資本という権力が君臨している専制政治の制度である。名前は共和国のアメリカは資本に支配される自由のない国家である。皆が競争と激しい経済格差にイライラしていて、癒しなどを考える以前の社会である。資本主義と社会主義の良いところを混ぜ合わせた新たな制度が必要なのではないか。

 
 
 若い脳、言い変えれば、感情が若い人の場合は、いろいろな刺激を求めて、行動や思考が比較的に自由である。大人が決してしない事にも興味を示して行動したり思考したりする。人間の常識という思考や行動は、こうして若い人や、天才達によって既成概念が打ち破られてきた。
 長野県の温泉でサルが入浴するので世界的に有名であるが、まずは、若いサルが好奇心で露天風呂に入った。冬の寒さから心地良かったのだろう。若いサルが真似てゆく。しかし、歳をとったサルで、最後まで入浴できなかったサルがいたそうだ。そうした親の子サルも入浴できなかったそうだ。今は代を重ねて、全てのサルが入浴するらしい。
 
 それが進歩であるのかは、人間の生存の持続がこれからも可能かどうか、大きな、長い時間的判断が必要だ。何故なら、人類はこのままで、100億人という極端な異常発生してしまった故に、食料の確保、真水の確保、そのために起こす戦争と破壊と、続ける開発の自然環境破壊で、空気中の酸素濃度の低下が起きたり、激しい温暖化に突入する可能性がある。そうした地球環境を是正して、生き続けててゆけるかどうか、もう事態は、差し迫った状態なのだ。

 今までは、海が『熱と炭酸ガスを吸収してきた』が、深海まで温度上昇をしてしまっている。海ではもう吸収できない限界に達してきてしまったようだ。停滞していた地上の温度上昇が、この2年間で上昇を始めている。海の植物の生存が危なくなってきている。海の植物の莫大な光合成での酸素供給がされている。海水温が上昇すると海が酸性に大きく傾き生き物が生息できなくなる。海の植物プランクトンが発生しないと酸素不足が起きてくる。
 生物は、地球上の酸素濃度の変化に進化が対応して生き続けている。人間の横隔膜は、酸素を吸い込むために進化してきている。大空を飛ぶ鳥類は、肺に気嚢という臓器がついていて、酸素濃度の低い標高の高い山を越えて舞い上がることができる。地球環境の変化で、今の状態は、何百万年単位でしかない。人間の活動で地球環境を壊すことは、人類の破滅へのカウト・ダウンである。
 
 
 地上では、相変わらずに森林伐採が続く状態がある。癒されたいと経済活動をする人間、多くの富を得れば、欲望を満たせれば、好きなことができればと、癒しの実現に向けての行為に付きまとうストレス。そこでますます励む癒しのため、欲望のための経済活動。
 
 経済活動と戦争はセットになっている。アメリカのイラクへの進攻は、石油資源確保が目的であったことは間違いがない。しかし、シェールオイルが出現するとアメリカは、世界第一位の石油産出国なり、オバマ大統領はイラクを手放して、兵を引き上げさせて、資源のための戦争をしなくてよくなったアメリカは、国家経済の衰退もあり、世界の警察を辞退した。覇権争いの戦争も放棄した。

 
 日本の高度経済成長期には、日本も国内だけではなく、海外へ進出して、熱帯森林の伐採や、カナダ、シベリアの寒冷地の森林の伐採を沢山してきた。当時は、熱帯のラワン材、シベリアやカナダの北洋材、と呼んでいた。温帯地域の木材は、その年輪の間が大きく柔らかい材木で、寒冷地の年輪の詰まった硬い木材が求められていた。また、熱帯のラワン材は、年輪がないが、その分、負荷に強くできていた。また、日本の山林では、植林されていた杉やヒノキは、山林のために伐採して運び出すために労力が多くかかり、価格的に輸入木材のほうが安価であった。
 
 余談だが、今、花粉症という病気の原因の多くが、針葉樹林の杉とヒノキの植林が官民挙げて行われたのに、使われずに生い茂っている現実がある。人間のしていることが、大きな大自然の破壊行為となって、自らの生存の危機をまねいている。

 ここに、『癒し』というキーワードが見えてくるように思う。非常にあいまいな人間の心。生き抜くための本能的欲求が、あらゆることが『癒し』にもなりストレスにもなる。

 じっとしていて行動をしなくても、或いは、無自覚な行動をしてしまっても、意識的な行動であっても、その欲求を満たそうと考え行動したとしても、満足感や癒される心の状態があっても、一方では、ストレスとして蓄積してゆく不思議がある。
 
 人間の攻撃性の情念が溜まってしまうと自己破壊してしまうそうだ。そのために他者を傷つけてる行為が辞められない人間が、他者を傷つけて残忍な歓喜に震えていても、その裏ではストレスとなる部分が、負の部分が働いている。
 
 私は酒が飲めない。従って酒を飲むことによるストレスの発散の経験がない。二日酔いの経験もない。飲酒で羽目を外して、しらふになって後悔したことも経験がない。しかし、飲酒もストレスに変化する。

 恋愛感情も、大きな『癒し』ではあるが、同時に大きなストレスも付きまとう。セックスもしかり。欲望は達成するとその欲求は倍増してもっと求め続けなければ、ストレスになる。しかもそれは叶わないことだ。

 『いかなる癒されている状態』もストレスに変化する。 究極の『癒し』は存在しない。癒しとストレスが交互に押し寄せてくる。この状態から現実逃避をしたいとする行為は、アルコール中毒、薬物中毒へゆくしかない。こうした弱さが人間の悲劇である。

 社会的に権力の維持をしなくては、欲求不満になる権力思考の人達、権力者として生きてきた家族達も、あらたに権力者になった人も、その権力の欲求を満たすためのストレスを多く抱える。権力欲にも限りがないからだ。
 負けたくない、と勝ち組に拘り続けるストレスも多くある。その代償に確信犯としての反社会的な行為に及ぶ場合が多くあるが、権力者は法的な罰から逃れることができる。
 
 しかし、善良な弱者が追い詰められて犯してしまう犯罪は厳罰に処せられる。ここに社会的ストレスも溜まる。権力者であっても罰から逃れても大きなストレスの上での満足感しか得られないだろう。どんな言い訳をしても拭えない心の負の部分が永遠に残る。勝者も敗者もストレスに追いまくられる。

 癒されたい、そのためにどんなことをしでも、ストレスとして残る部分が存在する。
 欲望の実現には、ストレスから逃れることはできない。平凡ではあるが、何事もほどほどに、そこに落ち着いたようだ。 
 
 日本人の持つ、自然観。『自然の中で生かされている』という思考方法をもう一度再検討してみる必要があるのではないか。
 
 一神教の世界観では、神の次に選ばれし人間という尊大な自然観が存在している。ここに人が自然を完全支配して良いという思考方法がでてきて今日に至っている。
 これが大きく失敗してしまったことを勇気をもって認めて、そこから大きく舵を切って、無知なはずの人間が、大自然の仕組みを熟知したごとく思い込んでいる虚構を捨てて、人間より遙かに偉大な大自然を尊重してゆくことがまず必要条件ではないか。、
 
 できる限り心安らかな社会の構築を考えて、大自然と共に、大自然の懐の深さを感じつつ、『スローで、非効率的』に物事を進めてゆく大きな価値観の変更をする必要があるのではないか。
 欲望追求の資本主義を改正するしかないのではないか。難しいことではあるが、もっと貧しい生活を敢えて取りこんでゆく必要があるのではないだろうか。そこに穏やかな自然環境に暮らす人間の『癒し』が見えてくるようにおもうのだが。

 格差を拡大して、一部の人が総取りする現在の新自由主義は、もう既にアメリカ大統領選挙での異変が起きている。中間層の氾濫である。格差の拡大による若者の失業と貧困。資本が不法移民を安い労賃で利用することで、中間層が飢えた生活を強いられている。アメリカ市民が現行の極端な資本への優遇税制に氾濫を起している。富の分配方式を変える必要を叫ぶ中間層がアメリカ大統領選挙で、従来の共和党と民主党の権力に異を唱えている。

  市場を自由にしてその市場のままにする、という資本主義は、ただ欲望主義に任せてすすめる野蛮な社会に過ぎないのではないか。ここに大きなストレスの源が隠れていそうだ
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 宇宙物理学的に言うと、核融合で沢山の原子が生まれて、我々地球に住む人間はその元素の化合物として生命体として存在している。またいろいろな元素とその化合物を資源として利用して便利な生活をしている。この物質の集合体の生命の愛、憎しみ、競争、まだ進化の過程にある人類という生物として認識できる。言い変えれば、不完全な生き物の人間の限界的姿が見える。

 ノーベル賞を受賞した、梶田さんは、岐阜県の神岡鉱山跡地のスーパーカミオカンデで、ニュートリノに重さがあること発見して証明したことで、従来の素粒子物理学の常識を打ち破った。
 素粒子理論では、ニュートリノに重さが無いとして理論構成がされた『標準理論』が存在していた。ヒッグス粒子の発見と話題になったので知る人も多いでしょう。
 『標準理論』で構成された粒子には実は重さの理論が抜けていた。重さが無いと、光の速さで飛び回り、物質として纏まらないことになってしまう。そこでヒックス場という考え方が登場した。我々の思考の中で分かりやすく説明をされたので、私にも何とか理解できた気がしている。
 紙の上に鉄粉を撒き、その紙の下に磁石を充てると、鉄粉が磁力線に従って筋を描く。これを磁場という。このように宇宙にはヒックス場があり、その中に存在する素粒子に質量が生じるという。

 しかし、この『標準理論』でノーベル賞をもらった人もいるが、ニュートリノには質量がないとしたうえでの理論であった。理論構築のし直しをするしかない。

 もう一つのことであるが、スーパーカミオカンデでの観測の本来の目的がある。原子の中の陽子が自然崩壊するという理論の証明のための実験装置であることだ。その現実は、ウラン原子が崩壊して鉛になることが起きている。勿論長い年月を要することだ。
 
 この陽子崩壊が起きる現象をとらえることで、雑音の少ない山中の地下に純粋な水を貯めた貯水槽を設け、ものすごい感度の光電子検出装置で、崩壊の時の光を発見する24時間体制が組まれている。

 この陽子崩壊と『癒しが』何で関係しているのか、酸素原子は8個の陽子からできている。このうちの1個の陽子が崩壊すると窒素になる。こうして次々陽子崩壊をして、最後の陽子の1個が残る状態まで崩壊が進むと、水素原子なり、この水素原子の陽子が崩壊すると、物質が消えてなくなり、素粒子のみになってしまう。この先の宇宙のkとがどうなるか勉強ができていない私であるが、永遠の宇宙という観念が、実は存在しないということになる。今、人類が推測できる宇宙は、インフレーションからビックバーン始まったとされている。始まりがあれば終わりもある。
 今、言われている急速に拡大し続ける宇宙の姿が正しければ、宇宙は拡大して粉々になり、物質が消えてしまうことになるだろう。
 
 『宇宙もいずれ消えてなくなり永遠という人間が考え出した観念は存在しないということになる。』この現象は、気の遠くなる長い年月の果てに存在することではあるが。

 こうして考え方を拡大してゆくと、頑固な情念に拘り続けることの愚かさを感じる。癒され続けることは不可能であるが、勇気をもって在るがままの人間の姿を希求して、先入観、過去への拘り、憎悪、など捨てて、安らかな平穏な心になりたいと思う日々である。かなり難しいことではあるが、大乗仏教のそれも日本独特の禅の教えや浄土真宗の教えの精神がこれに近い気がするが・・・・・・・。 

それでもやっぱり癒されたい!

そうなんです。理屈やイライラの解決ではなくて、癒されたい気持ちに寄り添って、向き合って話しをしてくれる人が欲しいのです。そこに安らぎの感情が生まれてきて、心穏やかになるのです。
 
 しかし癒されて心穏やかな状態は、一瞬に消えます。日常はつねにストレスの連続です。でも、一日の内のほんの一瞬でも癒されると、その後のストレスが絶えられる状態になるようです。ここで人により違いが出てきます。

 元々ある人間の攻撃性は、癒されていない、イライラしていると激しく攻撃的になってしまう傾向にあるそうです

『癒されたい』と常に思い続ける。 このこととは何でなのかと、ふと、考えた。

2016年03月12日 | 日記
 『生きる事とは、実は辛いことの連続である。』そう考えると、常に癒しを求めることになる。

 『癒される』とは、何なのであろうか。迷路にハマル恐れはあるが書いてみたい。

 


 人間は、この地球上に『異常発生している生き物』であるのではないか。約80億人。

 
 日本では、起きないイナゴの異常発生が、時々報じられる。

 イナゴは、地中に卵として存在しているらしい。地上の環境の著しい変化に生き残りの方法として『卵』で、乾燥や高温、低温のどちらかかの温度変化の激しさを乗り越える工夫だと推測される。詳しくは、専門家のサイトへ

 地上の湿度や温度を感知して、食料の草が生えている条件で、『イナゴの卵』が一斉にふ化して地上に出現する。集団化することで、外的からの攻撃を避ける習性があるようだ。成虫が飛び交い、交尾をして、すぐにふ化して、親子で草を食べつくし、何代かの世代が飛び交い、また、卵を地下に生んで消えてゆく。大量に食した草の量的な限度を知っているように消えてゆく。

 この一時期の大量な発生の仕組みが、自然を破壊して営む、人類の農耕に害虫として突如飛来する。

 一神教の世界観は、天地は神が創り、そこに存在するありとあらゆるものは、神が創り、地上の動植物も神が創った。その地上に、神の姿に似せて人間をおいた。

 神の次に選ばれた存在の人間にとって、地上の動植物は人間の役立つために存在している。乾燥地帯で興った一神教は、高温多雨の自然や、温帯多雨の自然環境を考慮していない偏った自然観で、その神話が創られている。聖書によく出てくる、『羊飼い』という言葉は、砂漠での草を求める遊牧の民のことだろう。この生活は、羊の乳を食料として、その保存方法のチーズが特徴的だ。非常に硬い乾燥したチーズで、100年でも保存が可能という。

 現在のイスラエルの国土の南の半分以上は砂漠地帯、砂ではなくて、岩石砂漠である。不毛の地である。ヨルダン河付近で灌漑農業が行われているらしい。だからパレスチナ人の居住区に入植地として占領し続けている。農業従事者のユダヤ人が豊かに生きる欲望を達成するために、パレスチナ人を奴隷のごとく扱っている。『選ばれし民』ユダヤ、となるのである。ユダヤ教(旧約聖書)。

 こうして、人間は、自然界に選ばれて生きている神の子、という意識で、農耕のために、森林破壊、野性生物の生息地の破壊、野性生物の利用、家畜化が、神に許された行為として行われてきた。

 この神の教えが、今のイスラエル周辺から、中東地域にしか世界観が無かった時代には、砂漠とオワシスの茂み、まばらな草原、大規模な環境破壊も無かっただろう。河川流域での農耕があったはず。なぜなら小麦の栽培をしていたはずだ。地域限定のキリスト教であれば、素朴な敬虔な信徒として存在できたはずである。

 しかし、ローマ帝国が、地中海地域とヨーロッパの殆どをその支配下に置き、民衆の要望によるキリスト教の信仰を許すことになると、キリスト教は、当時の世界観では、世界的な発展を遂げる。

 同じように、イスラム教が台頭する。困ったことに、聖地が同じなのである。『エルサレム』
 同じ、砂漠の一神教で、基本的には良くにているそうだ。後に十字軍という組織ができて、聖地のエルサレムの奪い合いがはじまるのである。
 キリスト教は、カソリックとプロテスタントの間で激しい争いがあり、カソリックがプロテスタントを大虐殺する事件が頻発する。

 一方、イスラム教は、預言者ムハマドの後継争いで、分派が興り、大きくは、スンニン派、シーア派の殺し合いが今に続いている。

 そして、日本である。日本は、海に囲まれている。しかも暖流に囲まれている。黒潮が太平洋を、その分流の対馬暖流が日本海に流れ込んでいる。その関係もあり、四季を通じて雨量が多く、温暖な気候である。大陸的な気候のお隣の国、韓国は、冬の寒さが激しく、緯度的には、砂漠地帯が多い関係で、度々渇水問題に直面している。日本との違いが気候風土にある。

 今、世界的に注目を集めているのが、日本列島の長い縄文時代である。約1万5000年くらい続いたとされている。日本列島に多く縄文遺跡が存在するように、広葉落葉樹林地帯が平野部や、高地にも点在していたので、狩猟採集で食物が得られたようだ。その長い縄文時代に進歩してゆく土器作りの素晴らしさ、土偶の完成度の高さなど、多彩な文化が生まれていて、日本海を利用して人も物も移動していたらしい。

 最近になり、縄文時代の後半では、農耕も行われていた証拠が遺跡で発見されているらしい。世界の4大文明が農耕をすることにより、河川の流域で発展するが、日本の縄文文化のように1万年の長きに渡って続いた文明文化は例がない。
 
 それは、農耕が始まると、富の蓄積ということが可能になり、欲望のための戦いが頻発してのではないかと想像する。有利な耕地の奪い合い、収穫物の略奪、子孫を残すための女性の略奪など。戦いは次第に組織化されて大きな戦争へと進み、広大な領土を有してゆく。

 日本では、大がかりな農耕文化が出来上がるのは、いわゆる弥生時代まで待たねばならない、縄文時代の遺跡の土器の中から焦げた稲が沢山出土しているので、稲作がおこなわれていたようだが、組織が大きく成り立つまでにはいかなかったようだ。

 『日本列島は災害列島』。冬は日本海側の豪雪、春から夏へ向かう時期に、冬の冷たい空気と夏の暑い湿った空気が日本列島上空でぶつかり合い、梅雨前線ができて、時には、大雨が降り、河川の洪水が頻繁に起きていただろう。夏から秋にかけては、台風が近づいたり、上陸することもあったろう、古代では、死人が出るような災害である。同じように秋雨前線ができる。

 日本列島の湖の殆どが、火山の噴火の際のカルデラ湖だ、鹿児島県の桜島の鹿児島湾は、カルデラが湾になっている。
 その沖合の薩摩硫黄島では、南九州に集落を造っていた南の海から渡ってきた丸木舟を造る民が、住んでいた遺跡が発掘されている。その集落は、硫黄島の噴火で火砕流で全滅したらしいと言われている。この硫黄島の火山の火砕流と思われる堆積物が、南九州一帯と、一部は、現在の山口県まで、その地層があるという。
 
 遺跡からは、丸木舟を造るための石器が出土している。この石器は、沖縄から南の台湾やフィリピンまで同じ石器が出土している。富士山も活発に噴火していたろう。箱根のカルデラの後をみると巨大な火山噴火が推測できる。かなりの被害に合ったと思われる。

 地震も多発していたはずで、巨大な津波の跡が、沢山発見されている。直下型地震では、倒壊、崖崩れ、山の形が変わってしまうような山津波も多く発生したろう。

 こうした天変地異に、只、火山に祈り、洪水で流されてきた巨岩に祈り、何にでも耐えた巨木に祈り。太陽に祈り、月に祈り、星に祈り、自然崇拝の精神が醸成されていったと推測される。
 人間は自然の一部であるという観念が生まれてきた、という日本人の今に至るまでの自然観が、遺伝子的にねずいたのではこのころからの、長い年月ではないだろうか。
 
 一神教が自然は人間のために存在するという開発対象の自然観とは大きく異なる観念が日本人の無意識の精神性として存在しているようである。
 我々日本人には、この自然観で、何かをするときに、自然への畏怖の念がどこかに感じるるので、大きな工事をするときに自然神を意識した起工式が今に残っているのではないだろうか。
 或いは、『おてんとう様に申し訳ない』『ご先祖様に申し訳ない』『己に負けて不正をしてはいけない』『嘘をついてはいけない』こんなことを何となく昔から受け継いできて、日本には性善説が存在していて、強烈な罰則のついた規制があまり存在してはこなかった。現在は随分と変化してきたが、まだ心の底に残る無意識の良い民族性ではないか。

 こうした。日本列島に暮らす縄文人や、古代人は、自然の中で生かされているという観念があり、鎌倉時代には、武士が台頭するが、武士は普段は畑や田んぼを耕しているが、戦争になると槍や刀をもって戦闘員になる。その武士に仏教の膨大な経典からそのエッセンスだけの『禅』と法然と親鸞の浄土真宗(念仏、南無阿弥陀仏、と唱えるだけで救われる)が農地を耕す人達に浸透してゆき、その大地に根差す大衆からも大きな知恵のウネリが興り、日本的な文化の基礎ができあがったという人が多い。
 
 作家の司馬遼太郎氏。宗教学者の鈴木大拙、人類学者など。日本人の自然観と仏教が相まって、日本独自の文化が醸成されてきたのだろう。

 人は、家族への愛のために戦争する。平和のためと戦争する。正義のためと戦争をする。争いを辞めることができない人間の奥深い習性がある。

 男女の恋愛においても、お互いに拘束し合うったり。嫉妬という攻撃的な感情が生まれる。
 また女性が、出産する時に、子宮の筋肉を収縮させて子供を体外に押し出す働きをするホルモンの『オキシトシン』というものがある。この『オキシトシン』は、子供への愛着感情を増大させる働きもある。生まれたばかりの赤子は、男には異様なな感じに捉えられるが、母親は、このオキシトシンで、赤子の鳴き声ですら愛情を感じて乳腺に働き、授乳をする行為へと誘う。沢山の赤子の中から自分の子供の泣き声を認識できたりする。

 元々存在する人間の攻撃性は、女性の子育てにも現れる。女性の場合は子育てにオキシトシンが愛情豊かにする仕組みができている。しかし、このオキシトシンは、赤子を守ろうとする働きもする。その結果、夫であっても手伝う子育てに常に不満を感じて攻撃的に非難をしてしまう。
 特に、オキシトシンが多く出る、授乳の後では、オキシトシンが大量に出ているので、不快と思う相手に激しい攻撃性が発せられる。子育てに不慣れな夫の協力に、母親のオキシトシンが赤子を守ろうとする攻撃性が強く出てきて夫を非難してしまう。妻の突然のこの変化に夫婦の危機が訪れて、離婚率が高い状態の統計がある。
 大家族制で暮らしていた過去、子育ては、女性が協力しあってしていたようだ。子育て経験者も、結婚前の女性も子育てに参加していたようだ。子供の成長率が低かった過去、沢山の子を産んだので、女性達の集団的子育てが存在していなかったら、子育てもうまくゆかなかった恐れがある。

 女性が、子育てを専門的にしていた時代長く続いてきたので、子育てにあまり関わりを持たなかった男の集団は、食料集めを専門的に従事したのだろう。狩猟採集では、食料を獲得する困難なことは、どの生物にもあることだ。

 
 フロイトの話を聞きかじっただけであるが、人間には、他者を攻撃する本能が存在して、この本能を抑制し続けると自己破壊を起こしてしまうそうだ。
 
 原始的な脳の部分に前頭前野という脳が発達したのが類人猿である。その原始的脳の部分には、外敵にたいする恐怖心や不安感を感じる部分があるそうだ。この部分が大きく反応すると攻撃に転じるそうだ。
 それ以外にも、現代人は、学校でのイジメ、大人の男社会での戦いやイジメ、女性社会でのイジメの深刻さである。イジメられて阻害された人は、自殺までする。人間の攻撃性のスイッチが入ると理性のブレーキが利かなくなる。

 こうした、人間の持つ攻撃性が、集団化した場合、ナショナリズム的精神の高揚、陶酔感の増幅から必要以上に敵対する集団への虐殺行為と発展する。

 ちょっと 草臥れました。時間をおいて続きを書きます。