2型糖尿病の爺 病気で ドットコム

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私のホームページに『言い訳の掲示板』というのが、リンクされている。投稿されることのないネガティブな掲示板である

2019年06月09日 | 日記

 そこに、過去に書いた私の 言い訳をここに添付してみます。

 

 

私は、残念であるが頭が悪い。  

 従って、社会生活で、勝った、負けた、ということを、なんと卑小で惨めなことにエネルギーを使うのか、と軽蔑を含めて意地汚い。と断言してきた。これは自分にできないことを正当化する一種の言い訳である。

 私の子供時代に既に、勝ち負けの価値観は、小さな出来事だ。と思うようになっていたのである。そうしたことができないこともあるが、面倒であり、負けることが多いからだ。勝って勝利感を味わった記憶がないのである。偶然に勝利しても、そのことで、嬉しくおもった事がない。 そして、勝ち負けに拘らない、その理由付けも上手いことを考え出していた。

 この世は、大きな自然の摂理で動いている。人間の理屈でいくら逆らっても、かなわない大自然の摂理が存在する。卑小な事に拘るな! 人間の作意は哀れなくらいに小さな問題であり、それは、拒否すべきことだ。

 であるから、うまく相手を欺したり虐めても良い思いがしない、要領良く立ち回ることに神経をすり減らすことは、愚かなことだ。として、生きるとは、些細な計画性や、目標を立てること自体が自然の摂理に反した行いである。    

 無意識の中に真理が存在する。無意識の行動で生き抜くことが真理なのだ。その結果が悪い方へむかっても仕方が無いことなのだ。

 こした考えが、直感的になって子供の心に宿ってしまった。何とその直感を感じたのが、小学校の5年生のころである。    

 普通の子供のころの知恵の付け方は、『いたずら』から始まり、徐々にその知恵がついて、いたずらが見つからないようにして行くことで、得意になりドンドンと拡大してゆく。好奇心という冒険で世界観を少しずつ習得してゆく。勝利感、と時々の敗北で、生きる苦さも理解してゆく、しかし、生き延びようとする人間の本能は、敗北を直ぐに忘れて、伸び伸びと好奇心に振り回されて、成長してゆく。

 勝利感を味わえない子供が、弱い子供を見つけて、虐めを働く。   

 実は、この虐めは、大人の社会でも行われる。全ての人が、伸び伸びと育つわけではない。何かしら、いじけて育ってくる。その負の部分が、他人を羨む心が、必要以上に虐めを働くことになる。心が安定して育った男は、女性にも人気が出てくる。    

 何らかの負の部分が心に拘りを持つ大人が、セクシャルハラスメントで、非情に卑猥な行為で女性を虐める場合がある。曲がった心で、女性に『俺に振り向け』と合図を送るのだが、自然体で行えないことを、経験則から身についたことなのであろう。下手をすると性犯罪へエスカレートしてしまう。

 人間の心の成長が、完全であれば、凸凹の無い球(きゅう)のようなものとする。殆どの人が、凸凹だらけな人であろう。しかし、凸凹でも、球(きゅう)に近い人が多いのだ、無理をして凸凹出あることを認めないで、振り向いてくれない相手を虐めてしまう卑劣漢も、卑劣な女性も存在する。おそらくは、一番悲しく思っているのは、本人であろう。

 虐めは、この心が球(きゅう)になれなかった人の勝利感の曲がってしまった発露の表現方法なのだ。虐めは、立場的に上位に位置することで始まる。であるから、過去に先輩上司に虐められて、その敵討ちのような虐めを繰り返す、悲しい大人の世界が存在する。

 少なくても、私はこうした状況を避け続けて生きてきた。虐める方にも、虐められる方にも成らなかった。 なぜならば、伸び伸び生きる子供心が存在していないので、当然のごとく、他者との共有できる価値観のようなモノが存在せず、孤立して生きてきたからである。

 もにかして、虐められていたのかもしれないが、本人が気づいていなかったからではないだろうか。虐めの対象になるのは、泣いたり、逃げ出したり、何らかの反応がないと、虐めてる側に張り合いが無くなるからであろう、従って虐められていたとしても、本人にもわからない。

 沢山の人との間では、上手く生きられない精神的な弱さが存在していた。無意識の姿であった。大人になっても、孤立して生きてきた。そのほうが楽であったからだ。私自身の個の中に埋没して生きてきたと言っても過言ではなかった。

 子供のあどけない『いたずら』は、大人に見つからないように隠れて犯す快感が動機になって進歩してゆく場合もある。知恵とはそうして発達してゆくものである。

 嘘も上手くなる。だが、そうした子供時代を生きてきても、世渡りの術が発達する子供ばかりではない。失敗の経験が生かされる子供もいれば、何度も同じ失敗を繰り返す子供も存在する。

 私は、育った親の性格が影響しているのが、大人になってしみじみと感じるのである。

 作意を働かして、ことにあたり、神経を使うことには、全く興味が無く、悪さをして、他人を驚かしたり、逃げ回ったりするエネルギーが無かったようなのだ。    

 非情に疲れ安い体質で、集中力に欠けていて、『いたずら』への関心よりも、その『いたずら』の行為を恐怖して、できなかった弱さがあったようで、常にオドオドとして生きることで、子供の伸び伸びとした部分が存在しなかったのである。

 大人になってから、嫌な、ひねた子供であったろうと思い知るのであった。

 大人になってから、会社の同僚に言われたことがある。『かなり若い頃に大きな挫折をしているのではないのか、そんな感じを受ける』、と言われたことがある。

 生まれてきたことが、大きな間違いなのだが、私には存在してきた事、そのものが間違いではないかと思うことがあった。

 そのように感じていた青春が存在した。挫折があったと指摘してきた、その同僚の言葉に深く感じ入って、暫く自分の育った環境に思いを馳(は)せていた時期もある。

 私の母は、精神的に安定をしていなかった。弱さと劣等感でビクビクとして生きていた。

 太平洋戦争で、夫を失い、自分を無視してきた母親は、突然に一家の担い手に成らなくてはならない事になってしまい、どうしたら良いのかが解らなくなってしまったようだ。

 元々が、弱い、自虐的な性格で、オドオドとしていた心を、4人の子育てにかまけて、我を忘れることで、生きてきた母親は、夫が戦死してしまい、己を確りと見極めていきるしかない状態の現実の放り出されてしまったのである。

 戦後の世界を何とか生きて行かねばならなかった。であるから、赤子の私は、母の不安な心の動揺をじかに感じて、良く泣いていたと言われていた。泣く子を抱き寄せる母は、余計に精神的に動揺して、私、赤子は激しく泣き続けて止まなかったそうだ。

 私の兄は5歳年上である。その上に次女が、2歳年上で、長女がその上に2歳年上であった。

 夫が健在の時点では、母親は世間の風にじかに触れなくても済んだ。しかし、夫の死後は、その不安定な心で、一家の担い手になり、母の心は最悪の状況になり、私、赤子の朧気な記憶を辿ると、常に恐怖心が心に宿り、そのために、安心できる環境にないと、私、赤子は泣き出すようであった。母親の心の動揺は、私を不安な状態に益々追い込んでいたのであろう。そうした母の心情は、いかばかりであるか、推し量ることは当然のようにできなかった。

 もの心がついてきた頃に、具体的では無い、モヤモヤの色彩の何やら説明をすることができない抽象的な恐怖の夢を見た。戦後の生活苦の中で、母親は働いていて、他には、姉が二人、5歳上にお兄がいたが、学校へ行っていて誰もいない家に一人で、夕方に一時期を眠ってしまったようで、その夢に、恐怖を覚えて、薄暗くなった夕方、不安の中で、じっと我慢をする自分を記憶している。いかんともしがたい夢であり、説明のしようがない。

 しかも、その夢は、大人になっても時々現れる夢であった。その恐怖は大人になって、ヒア汗をかいているが、恐怖心は徐々に感じなくなって、その後その夢は見なくなった。何の夢であるかは、未だに解らない。

 そうした環境で育ち成長してきたが、消極的な母の生き方で、子供の冒険心や、好奇心をドンドンと閉鎖されて、あれも、これもしては駄目と止められる。ともすれば、母親の性格を大人になって客観的に見つめることができて、その自虐性を、悲しい母親の宿命を考えて、自分自信を省みず、母親に哀れを感じるのであった。

 そして、自分に、この母親からの影響が激しく存在して、知力の弱さ、粘りが存在せずに、直ぐに敗北をしてしまう弱さ。敗北することで、大きな傷を負わないことを子供の頃より直感的に選んでいた自分の姿に苦悶するだけであった。

 子供らしくない子供として成長したのである。直感的に周囲に忖度して生きてきたようである。従って、『自我』が育たずに、個と個の対決の経験も無い。弱さが対立を避けてきたのである。

 人間は自己を全否定して生きることはできない。自分の負の部分を何らかの方法で正当化して生き続ける。

 私流の方法が、言い換えれば、言い訳このようになる。

 人間の作意は、計画性とも言えるが、『人間はこの大自然の摂理からすると哀れで、卑小なモノだ』、とした言い訳を構築したのである。無作為の行為が自然で良いことだと思い込む幼い子供が直感的に持って生きてきたのである。

 こうした理論的な思考は、大人になってから、過去の子供時代を振り返り、言葉として考えるようになるが、子供、小学5年生の時代には、直感的に感じとっていたものと思う。こんな直感は、ともすれば、大人との付き合いが多かった少年がどこかで耳にした事柄から得たものかもしれない。

 私の人生も悲しい人生である。只のオシトヨシとして最晩年を生きている。


血糖値管理が草臥れた

2019年06月06日 | 日記

 

 草臥れたな~ぁ そんな感じが何年かに一度は出てきたしまう。75年生きてきたので、もう良いかこの辺で終わりたい、と思ってしまう。

 しかし、死に恐怖はもの凄くあるのだ。

 

 2019年3月に、投げやりな生活をしてしまい、高血糖の状態が多かった。

 

 その結果、HBA1cが 9.7%にまで上昇してしまった。

 

 過去に、糖尿病の余病が出た時期が集中した時がある。

 

 肝膿瘍、肝臓に2個の膿の塊ができて、高熱で入院している。

 

 その時には、その病院に循環器関係の医者がいないので、足首から下が、歩けないような浮腫ができていた。心臓の悪化であったのだが、その時には、医療は無関心に過ぎた。

 

 退院後、3週間くらいで、胃の上であばら骨付近が何やら気分が悪く、病院の外来へ行った。あとで調べたら、あばら骨の下あたりに異常を感じたのは、心筋梗塞の前触れの身体の症状であったらしい。足首が歩きにくい状態まで、浮腫むのは、心臓の不全での浮腫であったようだ。

 

 胸のレントゲンと、肝臓のCTを撮った。結果、肺に水が溜まっている状況であった。絶対安静で、ナースセンターに近い個室に入院となり、動くなと言われたが、トイレと洗顔を室内のモノを利用していた。動脈を拡張する薬を飲まされて、電波で血圧と脈拍を送り、モニターで監視されていた。心臓の専門家の医師の見立ては無かった。動き回っていても問題が起きずに、何故か退院の時期を感じたので、どうするかを考えあぐねていた。

 

 外科の責任者の医師が、覗きにきたので、『退院後に、隣の区の心臓の専門病院の外来へ掛かることをして良いか、』尋ねた。その返事が医者としてそんなことを言って良いかというような事を言うので、怪訝な顔をしたよだ。まさかの発言であったからだ。後に、心臓の冠動脈にステントを留置したことを知ったその医師が、大腸癌の手術の入院時に、無言で頭を下げた。私も最敬礼して応じた。言葉が無くても解り合えることであった。

 

 その後2日後に、同じ医療法人である埼玉の大きな病院に循環器内科が存在しているので、そこへ移ってくれとのことで、介護タクシーで向かった。一人で行くことを心配した看護師達が、医師の意見としても、家族の監視が必要と言われたが、独居老人であることで、介護タクシーで妥協した。

 

 冠動脈の一部が細くなっている部分があるので、ステントを入れて、冠動脈が塞がらないように、処置をすることと、その他の冠動脈も検査するということで、ステントの留置もしてきた。

 

 心臓の冠動脈へステントを入れる動画をこの下にURLをおいた

http://www.m-junkanki.com/case_study/ACS/stent-anima.html

 

 これ以上の HA1cが上がるとまた余病が出てきて、今度は助からない状態になるだろうと覚悟はあるが、体重と共に、血糖値管理もしっかりとして、暮らしている。

 

 2019年4月の HA1cは、8.9% と0.8%下がった。5月には、8.5%以下を指して頑張っている。

 

 意志が弱いのは承知であるが、『長生き』に何の意味があるのだろうか、との思い始めている。ただ、死ぬのが怖いだけである。