『国債発行が国家の借金』だとする、プロパガンンダが蔓延している世界の経済。古典派経済学、金属貨幣論、古い観念なのです。
別名、新自由主義経済は、17世紀、18世紀、19世紀の金属貨幣論の古い社会の遺物なのですが、考え方が修正されずに、過去の激しい格差社会に舞い戻ってしまっています。
経済民主主義を嫌い、上流市民、下流市民の区別を付けるこいとが好きな人が、少数派として頑固に存在します。
日本の現在の社会や政治の背景に、緊縮財政論があります。その理由に何の根拠もなく、それを信じる愚かさに、暗澹たる思いがして、投稿意欲を無くしてきました。
実際は、新たな思考や、実際の行われている銀行業や政府の経済の運営を良く観察してゆくと、事実としての経済の運営は、主義や主張ではないのです。
主義や主張で運営をすると、事実関係とは乖離してゆき、社会が壊れてゆきます。それが現在です。
哲学的思考の要素が存在します。既成概念から抜け出すのに、もしかしてかなりの精神的な葛藤が必要な人もいるでしょう。難しいことは理解しますが、過去の歴史もそうでしたが、このデフレ、緊縮財政を脱することがないと、日本人が滅びます。
どんな根拠で、均衡財政論を言うのか、その根拠が曖昧であるのに、主張する、1100兆円の国債発行が借金と言い張るのか。
映画、『地球最後の日』『人類が滅びる』的な映画などが、結構好かれる人間の心理があります。こうした、マイナス思考は人が好きなのかもしれません。
そうした思考の先に、日本の財政破綻論が、その言葉の印象に興味を惹かれて、理由は別にして、好きなフレーズなのかもしれません。
もう一度いいます。
明治14年に日本銀行が創られて、西南戦争で使う資金の国債発行をしてきてから、営々と国債の発行を続けてきて、国家の借金として、認識された過去はありません。税金を徴収して国債の発行額を減らしてきたか過去もありません。
国債発行は、新たな貨幣の発行という言い方もできます。
日本人国民が生きては行けない状況まで追い込まれている現在、日本経済の崩壊も意味していることもあります。
こうした間違った経済で、戦前はその経済から抜け出せない社会でおきたのが、515事件、226事件です。どんな理由や言い訳を述べても、経済的な困窮の不満が言い訳をつくり、暴力事件が発生して社会が混乱してきました。
ああしろ、こうしろ、と色々なことを言い出すひとがいますが、竹をスッパと割ったようなきれいな結論は出てはこないのです。
グジャグジャして、あれやこれやと、旨く機能がしないで、何とか生きてきた人類の歴史が続いてきています。綺麗な切り口が見える変化は起きません。
嫌になりますが、
もう一度、景気の影響を受けて変化を続ける『税収が財源にはなりません』。
財源は、経済運営のための、調整機能の結果の収支なのです。新しい国債発行は、その殆どが、財源として使うために新たな貨幣の発行になり、国の繁栄のために財源として、予算を組み立てる仕組みなのです。
頑張って、言い続けます。でも少々、草臥れてきていますが。
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