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〈川俳会〉ブログ

俳句を愛する人、この指とまれ。
四季の変遷を俳句で楽しんでいます。「吟行」もしていますよ。

拾い読み備忘録(72)

2016年03月24日 17時27分57秒 | エッセイ
 力士が常人に卓絶した体力を得るに至るのも、決して先天的の約束ばかりで然るを得るのではない。能く心を以て気を率い、気を以て血を率い、血を以て身を率いる男が即ち卓絶した力士になるのである。無論先天的のもの即ち稟賦というものがある事は争えぬ事実である。しかし後天的のもの即ち修行というものでどの位に変化が起るかは、範疇の定まって居らぬ事である。祐天顕誉上人の資質は愚鈍であった。しかし心を以て気を帥(ひき)い、気を以て血を帥い、終に碩徳となったのは人の知って居る事である。
「努力論」幸田露伴著 岩波文庫 1940年
                 富翁
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拾い読み備忘録(69)

2016年03月19日 18時25分30秒 | エッセイ
 見合いをした人がおりました。平素と同じ感じです。決まらなかったそうです。同じ日、また見合いをした人に会いました。活き活きと何となく華やかな感じで、平素のその人のようではありません。あとで婚約したそうです。会った人は皆、華やかだとか色気が出ていたとか、同じような印象を語りました。気は誰にも感じます。
 しかし、五官で感じたのではないので、誰も確定的なことはいえません。なんとなく気になったとか、あとでフッと気づいたとか、そんな気がしたとかいうだけです。気とはそういうもので、見え、触れ、味わい得るものではありません。
「整体入門」野口晴哉著 ちくま文庫 2002年
                   富翁
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拾い読み備忘録(67)

2016年03月15日 18時11分53秒 | エッセイ
 作品を褒めるのは、そもそも簡単そうで難しいのである。まして対象がソフトポルノみたいな小説だったらどうするか。川西の解説はこのように書く。
 <渡辺さんは、愛の持続に、一つの確信のようなものをもっている。彼の創りだす作中の人物は愛に貪欲である>。さらに<渡辺さんは、現代における情痴主義と耽美主義の新生面を拓いたというのが、私の持論である。その最も華やかな成果が、『ひとひらの雪』である>。そして<その情痴に狂う現代の人間の赤裸な姿を、ここまで描ききれたのは、渡辺さんの業の成果だと私は思う>。
 ヨイショもここまでくれば芸である。
(文庫解説を読む19 斎藤美奈子「社交としての解説に注意すべし」より)
「図書」2016.3 岩波書店
                      富翁
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楽天的でいること

2016年03月13日 09時38分01秒 | エッセイ
いかにあがいても100歳を越えるのは不可能で。と言うことは、わたしはすでに若い人たちの「将来は~」の「将来」にいることになる。
わたしが小さなころに夢見た希望とか未来とは、夢はわたしには「いま」のことにほかならない。
ここには危険な予感があるのかもしれない。

いつも楽しく前向きに行こう。

楽観的でいると言うことはそういうことだ。
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拾い読み備忘録(65)

2016年03月12日 17時49分46秒 | エッセイ
 類推は接触反応剤に関するものであった。前に述べたふたつの気体が白金の網を加えると化合して亜硫酸ができあがる。この化合は白金が在る場合にのみ起こる。それにもかかわらず、新たに出来あがった酸には白金はまったく含まれていない。白金自体は明らかに影響を受けていない、化学変化をおこさず、中性のままで、変化していないのである。詩人の精神はこの白金の網である。それは詩人自身の経験に対して部分的に、あるいはそれだけに限って、作用するのかもしれないが、その芸術家が完全であればあるほど、それだけ完全に彼のなかで苦悩する人間と創造する精神とが別個のものであるはずであり、精神はそれだけ完全にその素材である情熱を消化し、変化させるのである。
 この経験、あるいは変化させる触媒がそこに存在するために化合を起こす要素は二種類ある。すなわち情緒と感情である。芸術作品がそれを楽しむ人に及ぼす影響は芸術には属さないいかなる経験とも種類を異にする経験である。…・・
(「伝統と個人の才能」より)
「T.S.エリオット詩論集」星野 徹・中岡 洋訳/国文社 1967年
                           富翁
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拾い読み備忘録(64)

2016年03月10日 20時09分35秒 | エッセイ
 その類推は触媒作用に関するものであった。前に言った二つのガスを白金の線条の前で混合すると硫酸ができる。この化合はただ白金がある場合にだけ起こるが、それにもかかわらず新しくできた液体は白金の跡をとどめていないし、白金そのものも外から見たところなんの影響も受けていないで、もとのとおり少しも動かずどちらへもころげずちっとも変わっていない。詩人の精神は白金の小片である。詩人の精神は詩人自身の経験に対してその一部分かもっぱらそれだけに作用を及ぼすかも知れない、けれども芸術家が完成しているにしたがって働きかけられる人間と創造する精神とは芸術家の心の中でまったく分離していて、精神はその素材となるいろいろな情熱をいっそう完全に同化しその性質を変えてしまう。
 ここでわかるだろうが、経験は変化をひき起こす触媒のところへはいってくる元素といってよいもので、それには情緒と感情との二つの種類がある。芸術作品がそれを享受する人に与える効果は、芸術以外の経験とは種類を異にした経験である。…・・
(「伝統と個人の才能」より)
「文芸批評論」T.S.エリオット著 矢本貞幹訳 岩波文庫 1938年
                            富翁
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卓球

2016年03月02日 12時37分24秒 | エッセイ
毎夜卓球の試合に夢中である。就寝時間もずらして、日本女子チームの応援である。卓球といえば浴衣姿での温泉旅館の卓球を
思い出す。また小中学生時代の映画ぐらいしか娯楽がない時に、民営の卓球場があって、そこでよく遊んだことも思い出す。とにかく身近なスポーツで
ラバーつきのラケットを持っているのが自慢でもあった。スマッシュ、カット、サーブと言葉は同じでもレベルの違いは大きい。愛ちゃんのサーブでは1球も返せないと思う。あたりまえではあるが。。。とにかく痛快である。今日はドイツとの戦いだ。もちろん応援する。
先輩
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拾い読み備忘録(58)

2016年02月28日 18時44分01秒 | エッセイ
 蒲団着て寝たる姿や東山       嵐雪
嵐雪のこの句は、やわらかい線を描いて横たわる冬の東山をえがいた句として有名であるが、「蒲団を着る」という表現が、いかにも京都的で、この句の内容にマッチする。江戸ならば、蒲団はかけるもので、着るものではない。西日本方面では、一般に「着る」をよく使い、山陽・四国方面では「帽子をかぶる」ことでも「帽子を着る」という。
一体英語などでは、この「着る」に当たる単語はput on かwearで、身につけるものならば、これだけで間に合うが、日本語、特に東京語では、やれ帽子はかぶる、めがねはかける、手袋ははめる、靴ははくと、使い方がはなはだわずらわしい。これは、こういうものの付け方がちがうためではなくて、からだのどの部分に付けるかのちがいを表わすものである。からだを地理的に分けて、上の方は清浄だが、足の方は清浄でないとする日本人の古い考え方と密接な関係がある。
(「フトンを着る」より)
「ことばの歳時記」金田一春彦著 新潮文庫 昭和48年
                        富翁
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先生

2016年02月22日 08時30分50秒 | エッセイ
一作日ポストに小学校からの封書がありました。先輩先生あてになっていました。開封すると一年生が書いた
お礼状でした。先日昔の遊びでビー玉遊びを教えた子供たちからでした。一所懸命に書いてくれたその手紙とても
嬉しく読みました。その時の様子が目に浮かびました。私たち老人こそ先生なのだと思いました。先に生まれたわけですから。
このところ先生と呼ばれる人の不祥事や失言が多すぎます。なぜ先生などと呼ぶのでしょうか。
先輩
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雨音

2016年02月14日 14時36分04秒 | エッセイ
久しぶりに雨音で目が覚めた。乾燥している我が身体には恵みでもある。
気温も上昇して春まじかと思えるも、また寒くなるとか、対応能力の低下で
気温の上げ下げは身にこたえる。
雨の日も傘さして通勤した日々が懐かしい。雨の日は社員食堂が混んでいたっけ。
定食が食べたい。
今は一日おきの麺類、麺類絶望の日がくるのかな。。。
先輩
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拾い読み備忘録(43)

2016年02月10日 16時54分21秒 | エッセイ
夜など、障子を閉めきったままの日本の家は、ちょうど紙を張った大きなあんどんのように見える。――でなければ、絵を外がわへ映すかわりに、内がわから動く影をうつす仕掛けになっている、幻燈のようだ。昼間だと、障子にうつる影は外からばかりであるが、それが日のまだ出たてのころ、ちょうどけさのように、光線が真横から、しゃれてつくった庭などにさすときには、そこに映しだされる影は、なんとも言えない雅致があるものである。
(「旅日記から」より)
「心」ラフカディオ・ハーン著 平井呈一訳 岩波文庫 1951年
                            富翁
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拾い読み備忘録(42)

2016年02月09日 18時17分30秒 | エッセイ
……私が日本に帰って驚いたことは支那関係の出版の華やかさでありました。しかし今はその空しさに驚かずにはいられないのです。日支親善のすべての機関、支那研究のための著書、それらの文化的なものが我々には何となく影が薄いもののように見えて仕方ないのです。我々が戦地で見た支那土民の顔には土の如き堅固な智慧があらわれ、伝統的な感情の陰影が刻まれ、語られたことのない哲学の皺が深々とよっていました。その顔があまりに鮮明に眼の底にとどまっているので、活字になった支那評論が色あせて見えるのですね。我々の見た支那人は生きて働いていました。皮肉でなく誠の心をもって私はこのことを言わずにはいられません。生きて働いている支那人が支那を形成しているわけです。支那というものはそんなものです。何も謎でも怪物でも獅子でもない。人情も愛も笑いも通用する社会であります。相手が生きていることを忘れては拳闘も角力も出来ないでしょうが、同時に舞踏も弾奏もできないのです。
…・・
(「支那文化に関する手紙」より)
「滅亡について」武田泰淳著 川西政明編 岩波文庫 1992年
                          富翁
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昔の遊び

2016年02月05日 08時34分39秒 | エッセイ
昨日、近隣の小学校一年生に昔の遊びを教えに行きました。昨年はこま回しでしたが、
今回はビー玉遊びです。先生と呼ばれて気恥ずかしいとともに、自分をまだおじさんと
言ってしまうのです。外見はお爺さんだし、老人会としての活動なのに。。。元気な子供たちと
接して新しい発見と楽しいひと時を過ごしました。孫の成長をみるようでした。
先輩
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拾い読み備忘録(32)

2016年01月30日 20時25分08秒 | エッセイ
ひとの根元意識(Primal consciousness)は知性以前のものであり、認識(cognition)とは何等関係を持たぬものである。動物の場合と変わったことはない。そしてこの知性以前の意識は、我々の生きているかぎり、意識の強力な根と躯幹である。心(mind)は最後に咲いた花、cul de sac(訳註。「袋の底」すなわち「最後のもの」の意)にすぎぬ。
我々の根元意識の第一の座は、太陽叢、すなわち胃の背後に位置する大いなる神経中枢である。この中枢によって我々は最初にダイナミックに意識づけられる。何故ならば根元意識は常にダイナミックであり、知的意識の如く静的ではないからだ。思想は、その魔力をいかに我々が云々しようと、単に手段、魂が生活の方便に用いる最も微妙な手段にすぎぬ。思想はただ行動と生活の方法のひとつにほかならぬ。そして生活と行動とは事実上動的意識の大中枢に源を発するのである。
「無意識の幻想」D・H・ロレンス著 小川和夫訳 南雲堂 1966年
                              富翁
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拾い読み備忘録(27)

2016年01月25日 16時26分38秒 | エッセイ
メキシコはおそらく―ゴーギャンにとってのタヒチ島のように―失楽園の夢を託するにふさわしい場所であったのだろう。フランスではブラッスール・ド・ブールブールの著述のおかげで、またメキシコにたいするフランスの干渉に参加した目撃者のおかげで、初めてインディオの呪術の力や想像的な力の啓示を受け、征服者(コンキスタドール)のすばらしい冒険の中のいかなる些細な行動も、この原初の民の神秘や秘密と混ざり合っているかのような感じがして、読者は魅了された。現在われわれが、D・H・ローレンスの小説やジャック・スーステルの『メキシコ、インディオの大地』や、フォン・ルルフォの暗く、ほとんど神秘的な物語を通じて接しているのは、メキシコにおける夢の最後の様相であろう。
「メキシコの夢」ル・クレジオ著 望月芳郎訳 新潮社 1991年
                           富翁
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