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〈川俳会〉ブログ

俳句を愛する人、この指とまれ。
四季の変遷を俳句で楽しんでいます。「吟行」もしていますよ。

勤めていた会社のOB会に出席

2016年05月14日 06時59分21秒 | エッセイ
九段下の某高級ホテルにて午後5時から。
会社幹部より社の現況報告あり。呆然と聞き流す。
30余年前はわたしがこの集いを担当していた。
まさか自分が呼ばれる側にいるとは。

ひさかたの 光あふれる 会場に
並ぶ高級 料理をパクつく
どれもこも 見たことある顔 老けました
こころなしか 人の数減りたり
OB会も 世代交代 進みます
この世あの世と 忙しき我ら
安楽
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拾い読み備忘録(104)

2016年05月11日 16時22分17秒 | エッセイ
私というのは、生きるべく運命づけられている人間というよりも、なぜ生きているかを自分にたずねるべく運命づけられている人間のひとりだった。いずれにしても、いわば人生の「余白に」生きるべく運命づけられていた。
物のむなしい性格が、さらに私のなかで確固としたものになったのは、海に近くて、せっせと海にかよったことにもよる。いつも動いて、満ちひきをもっていた海。ブルターニュの海がそうであって、湾によっては、その海が、ほとんど目におさめられないほどのひろがりをもっている。なんという空白!岩、泥、海水…。毎日、一切のものがうたがわれ、問いにかけられるから、何物も存在しない。私はよく真夜中に小船にのっている私を想像した。目標は何もない。おき去りにされて、どうにもならないところへ、おき去りにされて。それに、星もなかった。
(「空白の魔力」より)
「孤島」J・グルニエ 井上究一郎 訳 竹内書店 1968年
                        富翁
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拾い読み備忘録(103)

2016年05月10日 18時11分49秒 | エッセイ
グルニエの本を読んだ。そこには彼のすべてがある。そしてぼくは、彼に寄せる讃嘆と愛が増大するのを感じている。まさに人間性から遠ざかろうと努めながら、できうるかぎり最大限の人間性を引き受けている、ということが言えるのは、彼自身についてなのだ。彼の本に統一を与えているのは、死の絶えざる現存だ。ぼくは、ぼくの生きかたをなんら変えたりしないのに、なぜグルニエのその観点だけでぼくがより荘重になり、人生の荘重さにより浸透されたものになるのかが、それでわかるのだ。
ぼくはぼくをこのようにしてしまう人間を知らない。彼と二時間もすごすと、いつも自分が膨らんでくる。どんなにぼくが彼のおかげを蒙っているか、そのすべてを、ぼくは果たして知ることができるのだろうか?
《「読書ノート(1933年4月)」より》
「直観」アルベール・カミュ 高畠正明訳 新潮社 1974年
                           富翁

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拾い読み備忘録(101)

2016年05月08日 18時00分41秒 | エッセイ
…………高座をつとめる藝人もみんな鬱屈を背にしたような、冴えない表情をしていた。そんな冴えない表情をした藝人たちが、ひとたび口をひらいて自分の藝にかかると不思議なことに寄席全体が、ぱっと明るくなるのだ。その変わり目にふれるのが楽しかった。面白かった。ひとを嬉しい気分にしてくれた。
もちろんなかには、はじめから終いまで明るくなろうとせず、冴えない表情のままで自分の持ち時間を消化して、楽屋へ去っていくさびしい藝人もいないではなかった。それはそれで、また別の魅力を寄席の番組にそえていたのだ。見違えるように、明るい色彩を高座にふりまいてみせたひとも、ひとたび自分の藝を終えると、とたんに元の屈折した姿に戻るのだが、この戻る瞬間にまたなんとも言えぬ味わいを、いい藝人は持っていた。
(「第一講・寄席との出会い」より)
「昭和の演藝二十講」矢野誠一著 岩波書店 2014年
                      富翁
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拾い読み備忘録(97)

2016年05月03日 22時13分44秒 | エッセイ
日本酒は冬、十一月中頃から仕込みをはじめ、歳があけた春先に最初のしぼりの新酒「あらばしり」をとる。この生酒はまだピチピチと勢いがよくはじけるような魅力をもつ。
これがひと夏越して「夏越(なご)しの酒」に、秋に旨みののった「秋上り」となり飲み頃になる。十月一日を日本酒の日とするのはこの秋上りに合わせたものだ。この頃は海山の収穫物も出そろい、酒もそろそろ燗酒が恋しくなる、いわゆる酒のうまくなる頃だ。
「超・居酒屋入門」太田和彦著 新潮文庫 平成15年
                       富翁
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拾い読み備忘録(96)

2016年05月01日 21時14分29秒 | エッセイ
発音は、外国語学習における最も難しい問題のひとつであり、また、われわれの学習の正しさを計る物差しでもあります。無論語彙や文法を知らなくては、大した会話ができるはずもありませんが、外国語でコミュニケーケートする時、相手が、われわれの外国語の知識を判断する最初の基準は、まず第一に発音なのです。われわれの能力を判断する材料として、それはちょうど女性における容姿のような役割を演ずるのです。美人は、初めに姿を見せた時は《常に正しい》のです。後になって、彼女は実は馬鹿で、退屈で、意地悪だということが明らかになったりするものですが、最初の内は、何と言っても、やはり軍配は彼女の方に上げられるのです。
「わたしの外国語学習法」ロンブ・カトー著 米原万里訳 ちくま学芸文庫 2000年
富翁
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気になる一句

2016年04月29日 07時08分58秒 | エッセイ
明治34年の正岡子規は死の床にあった。動けない体の唯一、歌の視線なるものを用いて、和歌を作る。
ホトトギス、藤の花などの連句の素晴らしさと凄み。
牡丹もそうだが、一句だけ不思議な句がある。春の雨に打たれないよう、傘で牡丹を保護している庭先を歌う11の句の中に、
「夕くれにくもりかしこみあらかしめ牡丹の花に傘立つる人」
さてこの「人」とは誰なのか。誰何すると同時に子規その人と思えてならなかった。
横たわり五月の苦悶のさなかの子規は、自分自身を見ているように感じられる句。
自分の分身を見る…ドッペンベルガーを見た者は早晩死する運命にあるという奇説を、子規は知っていたのか。
この句のみ暗然と連句の中に輝いているように感じられた。


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拾い読み備忘録(93)

2016年04月24日 17時09分32秒 | エッセイ
  夢想
人間が死を怖れるのは、あたかも胎兒が世の中へ生れでるとき、どんな愛の手が待つてゐるか分からないで泣いてゐるようなものだと昔から言はれてゐる。この比較は慥かに科學的考査にはたへないだろう。しかし、うまい思ひつきの空想としてはなかなか美しい。かういふ空想がなんらの宗教的な意味を齎らさない人たち、つまり個人の精神は肉體とともに滅び、個性の永遠の存續はただ永遠の不幸を招くばかりだと信じてゐる人たちにとつてもこの空想は美しい。思ふに、この空想が美しいのは、とにかくそれがごく卑近な言ひ方で、絶對とは母性愛に限りがないごとく無邊際なものだといふことを多くの人に分からせたいという願ひを暗示してゐるからであろう。
……
「骨董」ラフカデイオ・ヘルン作 平井呈一訳 岩波文庫 1940年
                            富翁
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気になる一句

2016年04月20日 05時47分15秒 | エッセイ
また正岡子規の句。
「首あげて折々見たる庭の萩」
(鑑賞)余命いくばくもない歌人は病床から動けない。そのことは四大随筆で知られる通り。
このころの子規の作品は、あたかも「閉じられた」視界に映るものを歌っていた。これもそうだし和歌もそうだ。
「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」
視界に子規の歌心が鋭い視線になって、平凡な情景が興趣を与えてくれる。まさに絶唱に近い。
安楽
※明治34、35年の作品。子規の亡くなる年である。凄いものです…。
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拾い読み備忘録(90)

2016年04月19日 17時17分13秒 | エッセイ
なぜならば、もうろくし始めると、呼吸、消化、思考、衝動、その他あらゆる類似の機能は失われないが、自分自身をうまく用うること、義務の一つ一つを明確に弁別すること、現象を分析すること、すでに人生を去るべき時ではないかどうかを判断すること、その他すべてこのように良く訓練された推理力を必要とする事柄を処理する能力は真先に消滅してしまう。したがって我々は急がなくてはならない、それは単に時々刻々死に近づくからだけではなく、物事にたいする洞察力や注意力が死ぬ前にすでに働かなくなって来るからである。
マルクス・アウレーリウス「自省録」神谷美恵子訳 岩波文庫 1956年
富翁
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ゴールデン街

2016年04月13日 14時09分50秒 | エッセイ
ゴールデン街の火災、小規模でよかったけど、新宿駅の思い出横丁も
火災に合っています。木造の古い家屋は燃えやすいので、昭和の
雰囲気は次第になくなっていくのですね。路地裏の飲み屋も風情があって
人とのつながりも密で残しておきたいものです。最近は外国人観光客が大勢来ている
ようです。歌舞伎町の風林会館のビルがテレビに写っていました。ビリヤードに
はまった学生時代を思い出しました。
先輩
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気になる一句

2016年04月13日 06時35分48秒 | エッセイ
また正岡子規の句。
「春の夜や 妻なき男 何を読む」(明治29年)
(鑑賞)或る意味「狂おしい」春の陽炎にいる男の姿が見えて妻はいない。
死別なのか、生き別れか、独身主義なのか、とにかく一人。
読む、は本というよりは「ぽかりとした一人きり」の様子に狎れようとしている。
そんな風に読みました。

どうでしょうか。
安楽
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気になる一句

2016年04月08日 06時19分15秒 | エッセイ
若き日の正岡子規。
「水うてば 犬の昼寝に とどきけり」(明治26年)
(鑑賞)夏の句ですが、打ち水したら昼寝をしていた犬をびしょぬれにしてしまった、というもの。
子規は、とどいたのは(犬の)昼寝としている。犬という具体と一緒に犬の「態」にもとどいているという総合的な視線がいいですね。
吠えているのか、食事中なのか、自分を見つめているのか・・・それをぴしゃりといいあてています。
安楽
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拾い読み備忘録(74)

2016年03月27日 18時48分37秒 | エッセイ
 日本固有の美しいもののなかでも、最も美しいものは、どこか小高い場所にある、神社とか休み場所などへ行くまでの途中の道、――つまり、べつにどこのどこそこと名のある場所へ行くのではなく、行ったところでべつに大した物もない場所へ登る、そういう途中の道とか、石段など、――これがまことに美しい。
 もちろん、そうした場所の特別な景趣のおもしろ味というものは、いつでもあるというわけのものではない。それは、人間の手で作ったものが、光線だの、物のかたちだの、色彩だの、そういう美しい「自然」の気分と、うまく合致した時の感じなのであって、雨の日などには、どこへ行ったかまるで消えてしまうといったような、ごく折にふれてのおもしろ味である。そんな気まぐれなものであるけれども、気まぐれなものだけに、いっそうまた、おもしろ味も増すというわけであろう。
(「旅日記から」より)
「心」ラフカディオ・ハーン著 平井呈一訳 岩波文庫 1951年
                           富翁
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拾い読み備忘録(73)

2016年03月25日 21時00分06秒 | エッセイ
ハーバート・リードの場合、後世に残る偉大な業績といえば、『緑の子ども』『ワーズワース』『戦いの終り』『反対の経験』そしてあのヴォ―ヴナルグに関するエッセイであろうが、このエッセイの中で、彼は突然、これらの自伝的作品を鋼の糸によってつないでいる、ある支配的な情熱―すなわち栄光の追求―について語っている。「栄光ということばは、今では良い意味に受け取られなくなってしまった。これをふたたびもとのようにすることはむずかしいだろう。赫々たる武勲などと結びつきすぎたために、ことばそのものが毒されてしまっている。名声とか野心と混同されてしまっている。だが真の栄光とは、自己のみにかかわる、人目に立たない徳であって、孤独の中にあってはじめて達せられるものである」
「逃走の方法」グレアム・グリーン著 高見幸郎訳 早川書房 昭和60年
                                富翁
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