「生き返る」
2009年7月4日(土)
「生き返る」という言葉は、よくよく考えると不思議な言葉だ。
「死」から「生」に返るという意味だろうが、「死」とは再び「生」の状態に返らないことを言うのではないのか。
しかし、現実の世界には、「生き返る」ということがある。
立花隆の「脳死」というノンフィクションで読んだことだが、この「生き返る」という現象は結構あるようだ。
最近、身近でも聞いた。職場の同僚で隣に席に座っている人の話だが、
・ある人が死んだ。
・親族が枕元でその死者の悪口を言った。(ケチだったらしい。)
・ところが、死者が生き返って、その悪口を全部聞いていた。
・当然、死者と親族の関係がうまくいくはずがなく、次に本当の「死」を迎えるまでの間は、悪口を言った親族にとっては地獄のような世界だった。
というのである。
これは、「生き返った」というのではなく、正確には死んではいなかったということである。
人間は古来から、「死」を3つの兆候で認定していた。呼吸停止、心臓停止、瞳孔が開いたまま、である。この「死」の判定に異論を挟む人はまずいないだろう。
しかし、そうであっても、「生き返る」ことがあるのである。
今問題になっている臓器移植法案では、「脳死は人の死」ということにするということだが、脳死状態から「生き返る」ということはあり得ないと言えるのか。
だいたい、「死」の判定は神の領域の問題であり、法律ごときで決めるようなものではないと思う。「法律ごとき」という意味は、「医学的、生物学的、科学的知見も十分に備わっているとは思われない国会議員が国会の多数決で決めるようなことではない」ということだ。
「死」の判定は神の領域の問題であっても、現実には何らかの方法で、人間が判定せざるを得ない。
先の3つの兆候による「死」の判定は、人々の合意形成がなされているが、臓器移植の為の「脳死は人の死」については、到底合意形成がなされているとは言い難い。
国会で慎重な審議が必要だ。
(2009年7月8日 一部修正)
死の「認定」等を「判定」に修正した。
2009年7月4日(土)
「生き返る」という言葉は、よくよく考えると不思議な言葉だ。
「死」から「生」に返るという意味だろうが、「死」とは再び「生」の状態に返らないことを言うのではないのか。
しかし、現実の世界には、「生き返る」ということがある。
立花隆の「脳死」というノンフィクションで読んだことだが、この「生き返る」という現象は結構あるようだ。
最近、身近でも聞いた。職場の同僚で隣に席に座っている人の話だが、
・ある人が死んだ。
・親族が枕元でその死者の悪口を言った。(ケチだったらしい。)
・ところが、死者が生き返って、その悪口を全部聞いていた。
・当然、死者と親族の関係がうまくいくはずがなく、次に本当の「死」を迎えるまでの間は、悪口を言った親族にとっては地獄のような世界だった。
というのである。
これは、「生き返った」というのではなく、正確には死んではいなかったということである。
人間は古来から、「死」を3つの兆候で認定していた。呼吸停止、心臓停止、瞳孔が開いたまま、である。この「死」の判定に異論を挟む人はまずいないだろう。
しかし、そうであっても、「生き返る」ことがあるのである。
今問題になっている臓器移植法案では、「脳死は人の死」ということにするということだが、脳死状態から「生き返る」ということはあり得ないと言えるのか。
だいたい、「死」の判定は神の領域の問題であり、法律ごときで決めるようなものではないと思う。「法律ごとき」という意味は、「医学的、生物学的、科学的知見も十分に備わっているとは思われない国会議員が国会の多数決で決めるようなことではない」ということだ。
「死」の判定は神の領域の問題であっても、現実には何らかの方法で、人間が判定せざるを得ない。
先の3つの兆候による「死」の判定は、人々の合意形成がなされているが、臓器移植の為の「脳死は人の死」については、到底合意形成がなされているとは言い難い。
国会で慎重な審議が必要だ。
(2009年7月8日 一部修正)
死の「認定」等を「判定」に修正した。
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