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Natural Mystic ~ナチュラルミスティック~

There's a natural mystic blowing through the air

屋久島 ~横川(よっこ)渓谷~

2006-07-29 23:17:05 | 
朝食後、昨日の海のリベンジとして川へ行くことにする。宿から近い女川の河口部分は砂浜になっていて楽しい。早速用意して車で行ってみるが、海を目にしたとたん次男が「うみ、こわいの~!!」と喚きだした。こうなってはどうしようもない。あっさりあきらめる。嫁と相談し昨日、一湊の海水浴場でガイドさんが教えてくれた横川(よっこ)渓谷に行くことにする。

永田から川沿いに進み、横川への道を入ろうとすると、何故か工事のため車両通行禁止の看板が出ていた。5分ほどよけいになるが炎天下のもと子連れで歩いて進む。少し歩くだけで暑くて汗だくである。本来の駐車スペースを進み、川沿いの歩道を更に5分ほど進み横川渓谷に着くも思いの外水量が多く、水音も大きかった。ちび共はまたもや泣き出した。とりあえず川原におろすも怖がって、水に近寄ろうともしない。怖くないことを見せようと私が水に足を突っ込んで、思いの外水温が低いことに気づいた。これでは泳ぐのは危険である。せめて足を水に浸けさせる位のことはしてみようと、私と入れ替わりに嫁も水辺へ言って脚を突っ込んで同様に感じたらしい、しかし、ちび共はこの様子を見て若干恐怖が和らいだらしく、水に脚をバシャバシャさせることを始めた。我々には消化不良であったが、ちび共は石を拾ったりして満足行ったようだったので引き上げることにする。


【左手がプール・右手が滑り台として楽しめる】

この横川渓谷、永田集落から足がないと30分程歩くことになるが、天然の岩の滑り台、小さな滝の下で遊ぶことも出来、楽しいところである。ただ、水の流れる場所は滑りやすいため注意は必要である。

そこそこ良い時間だったため、宮之浦でお土産を買い安房まで戻り、食事をとる。

14:45、宿に戻り、荷物をまとめ、空港にてチェックイン。搭乗までの間に、車を返し、また宿に戻る。宿の主人に空港まで見送って貰っていると買い出しに出ていた、女将が駆けつけてくれた。
「また帰ってくるからね...。」
といって別れを告げる長男に主人は喜んでくれた。

屋久島 ~屋久杉自然館~

2006-07-27 22:47:09 | 
まだ、宿に戻るには早いため嫁に相談し、屋久杉自然館に行くことにした。


【樹齢7200年・縄文杉】

初めて島に上陸したときのこと。往復8時間かけて縄文杉を見に行った帰り、突然おかしなイメージが頭をよぎった。とてつもなく大きな木材が今自分が歩いている森林軌道(トロッコのレール道)を巨大なトロッコで運ばれている映像だ。それを大昔見たような気がした。一体その記憶は何なのか分からないまま歩くと、途中にある廃墟と化した小杉谷の集落の小中学校跡に着いた。校庭で休んでいると突然、先ほどの記憶が何であったかが分かった。幼い頃、確かに私はこの場所を見たことがあったのだ。

それはそのときから25年以上も昔の記憶であった。多分、私がまだ幼稚園に入る前のもの。父親と一緒に見たテレビの映像であった。当時、日曜の朝にNHKでは『新日本紀行』という番組の再放送が放映されていた。その番組で屋久島が紹介されていたのである。一時期は隆盛を誇った屋久杉の事業であるが、何らかの都合で縮小されたというような内容だったと思う。番組では無人となった小杉谷の集落には学校の跡があり、校庭の端にはかつて学校が在った証となる校歌を刻んだ石碑(普通の立っている物ではなく地面に半分埋もれていて、文字の部分が上を向いている)が残っていると紹介していた。その蘇った記憶の通り校庭の端を探したところやはり、文字の部分が上を向いた石碑が見つかった。このときは何とも不思議な感動におそわれたものである。番組を見ていたとき父親が「ここはずっと遠い、日本の端っこで簡単には行けない場所だ。雨がとても多く、山も深いし、もの凄く遠いところだから滅多なことでは行けねえ所だ。」と教えてくれた。そんな場所に自分が立っているという思い、幼い頃の記憶の奥底に埋もれていた映像の場所に自分がいる感動。こんな不思議な感覚は今まで体験したことがなかった。屋久島という名前さえも覚えていなかったが、沖縄の本土復帰前のことなので当時の交通の利便性を考えても実家のある東北からはまさに遠い場所であったのだ。

下山後、その『新日本紀行の』映像がこの屋久杉記念館で見れると知り見に行った。断片的にではあるが記憶に蘇った映像を確認することが出来、父親が言った「ずっと遠い、日本の端っこ」にいる自分に感激したものである。

3年前の9月、気晴らしにと身重な嫁を島に連れて来たはいいが特に遊ぶことも出来ないため、宿にある漫画を数冊ここに持ち込み、クーラーの効いたこの館内でまったりしたものだ。あのとき私は『Dr.コトー診療所』を全巻読み切ったのだ。中は相変わらずガラガラで前と変わらず様々な島の自然の情報が紹介されていた。

今回も大きく変わることはなかった。1階部には煉瓦状の屋久杉のブロックが床一面に敷き詰められ裸足だと木のぬくもりが非常に心地よく、また屋久杉の独特の強い香りが心地良い。一角にある子供コーナーには屋久杉の木片を利用した積み木が置かれ、ちび共は大喜びで遊んでいた。



そこで面白い体験をした。遊んでいる途中、長男は大を催し、気づいたときはその場でしてしまった。階のトイレは清掃中で使えなかったということもあり、困っていると掃除のおばちゃん曰く、
「誰もいないからオムツだったらそこで交換して良いですよ。」
とのこと。やむなくその場で嫁はオムツを交換した。ところがである。いつもならしばらくは臭いが残るのであるがあっという間にこの悪臭が消えた。これには嫁も私も驚いた。以前から屋久杉の消臭効果は物凄いという話を耳にしていたが、それが実感出来たのだった。

この屋久杉自然館入場料は取られるが屋久島の自然を知るには楽しい場所であり、我々のようにノンビリするにも良い場所である。時間に余裕があるときは是非お奨めしたい。

屋久島 ~亀の手~

2006-07-26 22:04:20 | 
屋久島はウミガメの産卵地としても有名である。ラムサール条約に登録している『いなか浜』等は厳重に係員が張り付き保護が行われているが、東側から南西部のある部分には監視員はいるものの、条約登録がないため、直にカメの観察ができる場所がまだいくつか残っている。

ウミガメは5月~8月にかけて砂浜に上陸し、産卵を行う。警戒心が強いため人の話し声や騒音がすると上陸してこないと言われている。その後、砂浜に穴を掘り、産卵し、そのまま海へ戻っていく。

7月末からはその孵化の時期となり孵った子亀達は海へ向かって進み、波にさらわれる形で海へ消えていく。一昨年の夏の夜に浜辺で孵った子亀が2匹海へ消えていった姿には感動したものだ。



話は変わるが、以前、屋久島で『カメの手』なるモノを食ったことがある。なるほど言われてみればカメの手のような感じもするモノであった。



味噌汁に入っていたモノで堅い爪とブヨブヨした皮の食材であった。確かに味噌汁の出汁としては旨い。店のオヤジにこれは一体何なのかと尋ねると笑いながら
「カメの手だよ。」
との返事が返ってきた。その後に続いた言葉は島で捕れるフジツボの一種らしく、様相が亀の手を思わせるからこの名前で呼ばれているのではないかという話だった。塩味が利いていて美味。屋久島の珍味である。

屋久島 ~カヤック・サウスアイランド~

2006-07-25 22:47:40 | 
食後、更に島をまわる。安房のスーパーで手みやげを買い、知人のガイドさんを訪ねた。

ここ、3~4年で屋久島もリゾート化がめまぐるしくすすみ、ガイド業・レンタカー業・宿泊業が著しく増えた。そんな中でも島でシーカヤックを一番に始めた知人がいる。

彼とは6年前の5月下旬、奄美大島でカヤックをした際に知り合った。屋久島出身の彼は当時、日本各地をまわりカヤックの修行をしていたそうだ。その後島に戻り、現地調査を繰り返し、島で初めてのシーカヤックガイドとなったのである。

15:00、そろそろ小学生の娘さんが帰っている時間のため奥さんはいるだろうと思ったがあいにくと留守であったため土産を玄関に置いて退散した。

私も嫁もカヤックがかなり好きである。いままで体験レベルではあるが、知床・奄美・屋久島・西表とチャンスがあれば参加している。


【このガイドの屋久島一周ツアーの一つ。西部林道からの眺め】

※ 実は私、乗り物酔いに弱い体質なため海よりも川の方が多い(笑)

そんなわけで私としては屋久島でのリバーツーリングがお勧めである。

このガイド、ハタナカさんの気遣いで安房川で2度ほど遊んだことがあるが、夏の渓谷沿いのルートも良かったが、このルートを弱い雨の中のカヤッキングは適度に霧もかかり、水墨画的な景色を見ているようで非常に印象深い。また彼の企画するツアーも面白く、一度シーカヤックを知人に紹介したところ大満足と感謝された程である。

その日の夕方、ハタナカさんと連絡が付き、家族の方々とも会うことが出来た。久しぶりの娘さんは驚くほど成長し、嫁も私もかなり驚いた。

3歳になれば我がちび共もカヤックに乗せられるとの事であった。

彼の立ち上げた会社のHPはこちら

屋久島 ~西部林道~

2006-07-24 23:27:25 | 
島を左回りで進む。永田集落からは一昨年登った永田岳が雲を被ってはいるモノのかろうじて望めた。その集落から先は西部林道と呼ばれ世界自然遺産の区域を横切ることとなる。狭い道路ではあるが、ヤクザル・ヤクシカ・ヤクイヌなどをかなりの確率で見ることが出来る。ただし、最近このヤクザルは観光客から餌を貰うことを知ってしまったため人を襲うような事故が発生しているという。サルにもヒトにも迷惑な話である。


【西部林道から見た東シナ海と口永良部島】


私のヤクザルとの格闘の記録はこちら

この林道、観光バスは狭いため進入が出来ない。また路線バスも走っていないためレンタカー等の足がなければ基本的にはバスの終点となる北側の永田あるいは南側の栗生橋(大川の滝)まで行って歩かなければならない。

3年前の5月に島一周(105km)を丸一日かけて歩いたことがあるがこの区間は6時間かかった。夜中の零時に丁度島の反対側となる小瀬田集落の宿を出発したためこの林道は朝の10時過ぎに入り、出るまで4時間ほどかかったが一体何処まで続くんだと思うほどの照葉樹林の原生林であった。その話はまたいずれ。

また狭い道路ではあるが、妊娠中の嫁を連れてきたときは特にすることもなかったためこの林道の待避所に車を止め、エンジンを切り、ドアをフルオープンにして宿に大量にある漫画から借りてきた『Dr.コトー診療所』を読みのんびりしたこともあった。

あのときとは逆ルートで曲がりくねった林道を進む。時折滝や沢また反対側には青い海を見ながら暫く進むとやはりヤクザルがすぐ目の前に現れた。クラクションで道を空けさせ、進むと次にヤクシカが現れた。一種のサファリパークである。


【道端に現れたヤクシカとヤクザル】

40分ほどのんびり進み、バス停のある落差88mの大川(おおこ)の滝に到着。以前この滝壺で泳いだことがあったが流石に流れが強く、滝の裏側にはとても辿り着けなかった。

昼もまわったので飯を食うことにする。栗生集落に入ると『手打ちそば 松竹』の看板が目に入る。面倒なので入ってみる。驚いたことに島では珍しい古民家を改造したものであった。今ままでこのような場所には入ったことがなかったので何とも物珍しかった。蕎麦は屋久島の名産ではないがそこそこに美味かった。値段も観光地の割には良心的でお勧めである。

屋久島 ~一湊海水浴場~

2006-07-23 19:03:41 | 
朝食後、手配しておいたレンタカーが届く。山は曇っているが海辺は快晴である。こんな日は海が一番と考え、泳ぎに出かける。途中、橋の上から見た限りでは前日までの雨の影響で川の流れは若干速そうであった。こんなときの川は泳げたとしても水温が低いため要注意である。

宮之浦の街を抜け、一湊(いっそう)海水浴場に着く。ここを選んだのは夏休み前のこの時期に既に監視員がいると聞いたためである。早速着替えて子連れで海に入ろうとする。長男は平気な様子であったが次男は怖がり泣き叫んでいた。



長男を連れて波打ち際に近づくと横でカップルがいちゃついていた。何を思ったのかその男性は女性を抱きかかえ波の方に連れて行った。女性は
「いや~...やめて...きゃー...あーっ...」
とお約束の台詞で笑いながら数々の奇声をあげて海に投げ込まれた。

この様子を見た長男は突如怖がりだし泣き叫び始めた。適当にあやしながら海に入るも長男の顔は恐怖に引きつり、この世の終わりのように絶叫している。横を見ると嫁に抱きかかえられた次男も同様であった。

あまり恐怖心を与えても仕方ないのでやむなく退散。早速シャワーを浴び着替えて撤収の準備をしていると、先ほどのカップルが近づいてきて男性は我々に声をかけた。

「かわいいですねぇ。波を怖がってたんじゃ残念ですね。」

一瞬、恫喝してやろうと思ったがカップルをかまっても仕方がないので適当に流して退散となった。

周りを気にせず恥ずかしげもなくいちゃつくカップル。ある意味公害である(笑)

その後、ブラブラしていると、午前中のシュノーケリングのガイドを終えたという女性が声をかけてくれた。



世間話をしながら泳ぎに適した場所を聞くと、今日は水がおおいが、明日には落ち着くだろうからと私にとって思い出深い横川渓谷を勧めてくれた。子供達は天然の滑り台に喜ぶだろうとのアドバイスを受けた。

屋久島 ~ライダーハウスとまり木~

2006-07-22 23:12:06 | 
95年8月の九州ツーリングの帰り、宮崎・日向のフェリーターミナルで知り合ったバイク乗りに屋久島を勧められた。
98年9月初旬、ツーリングで行った静岡県の梅ヶ島温泉近くのキャンプ場で一緒になり、宴会をした集団が屋久島のライダーハウスで出会ったという人たちだった。この連中とはその後もちょっとした週末や連休に一緒に遊ぶようになり、屋久島への私の憧れは増していくばかりであった。

翌99年のGWの事である。有給休暇は3日の申請で入職以来初めての11連休を取って南九州方面へは初めてのツーリングに出発した。このとき屋久島は滞在が当初4日のつもりが先ほどの仲間に紹介されたライダーハウスの居心地が良いのも手伝い、8日も滞在してしまった。

初めてこの宿に泊まったときは驚いた。宿泊費が2,000円と言うのには惹かれたが、行ってみるとカーテンの付いた3段ベッドが12あるのみ。プライベートを確保できるのはその空間のみである(よく言えば簡易なカプセルホテルと言えないこともない)。風呂は家庭用のもので当然のように順番待ち。食事は事前に頼めば夕食のみ出して貰えるが他の宿泊者、オーナー夫妻と一緒。700円で庭にテントも張らせて貰えるしまあ、贅沢は言えないと泊まったものである。しかし、ここで知り合う旅をする人々との情報交換が面白く、それ以後、島という独特の雰囲気と居心地の良さもあり9回も屋久島を訪れることになってしまった。


【西部劇にでも登場しそうな外観】

今回わざわざ飛行場まで我々を出迎えてくれた女将は、初対面となるちび共に
「お帰りなさい。初めまして!」
と挨拶をくれた。
それに対し長男は、
「どうもごちそうさまでした!」
と最初から呆けをかましていた。嫁にとっては2003年の9月下旬、双子が嫁の腹にいたとき以来の上陸となった。

空港すぐそばの宿に着き、挨拶を済ませ、落ち着いたので翌日の朝食を買いに散歩がてら出かけることにした。500m程離れたホームセンターベースのスーパーで買い出し。

※ この宿は朝食は出ない。夕食以外は全て自分で用意することになる。またライダーハウスとは誤解されがちだが、ライダーに限らず誰でも泊まれる。

宿に戻り入浴。その後夕食となった。オーナー夫妻は子連れの我々に喜んでくれ食いきれないほどの料理でもてなしてくれた。中でもミズイカと首折サバの刺身は絶品であった。

ハイジャック

2006-07-21 22:17:25 | 
さて、話は逸れるが飛行機に乗るたびに思い出すことがある。
2002年のGWのときのことである。九州の離島ツーリングを考えた。少しでも時間を有効利用しようとして出発の2日前の早朝、バイクを東京湾のフェリー埠頭から北九州へフェリー輸送をかけた。その後、2日間仕事をして、終業後、飛行機のバースデイ特割を利用し北九州へ1万円で飛んだ。

※ この北九州空港は今年3月16日に新北九州空港のオープンに伴い現在閉鎖となっている。

そのときの羽田でのことである。手荷物となるザックを検査に回し、普通に出発ゲートをくぐった。体の反応はなかったが、荷物はブザーが鳴りひっかかった。その場に居合わせたセキュリティの男性2人は私に言った。
「なにか金属系のものは入っていますか?」
キャンプ用品一式は既にバイクに積み別便で送ってあるため私は答えた。
「ちょっと心当たりありませんが、開けてみましょうか。」
私の申し出に2人は顔を見合わせ
「どうぞ、結構です。」
とそのまま荷物を返してくれた。

離陸後、機体が安定してからツーリングプランを確認しようとしてザックから地図を取り出そうとした。何気なく地図の入っている隠しのファスナーを開いて唖然とした。

何と、そこには刃渡り12cmを越える長さのヴィクトリノックスの登山ナイフが入っていた。すぐさまファスナーを閉じて辺りを確認する。こんなモノを機内で見られてはそのつもりはなくてもハイジャック犯と誤解される。幸い隣の席の人も客室乗務員も気づかなかったようだ。



ふと冷静になっていろいろ考えてみた。前年の9.11のテロまた翌月開催の日韓サッカーワールドカップの影響で警備が格段に厳しい。そんな中での一般客の航空機内ナイフ持ち込みとう不祥事である。これネタになるかも知れない...。

そこで、どうにか機内にナイフを持ち込んだという証拠写真を撮ってやろうと考えた。しかし機内と分かるようにするには例えば飛行機の特徴ある窓際にナイフが置いてある画像や、ナイフの画像の背後に客室乗務員が写ったりしていなければならない。いろいろ考えたがどうやっても一歩間違えばハイジャック犯扱いである。そこでトイレに行くことを思いついた。あそこなら個室だし、機内のトイレは間違いなく特徴的である。そう思い、ザックを抱えカメラを携えて立ち上がろうとした瞬間、客室乗務員に呼び止められた。
「お客様、先ほど当機は着陸態勢に入りましたのでおかけになりシートベルトをご確認下さい。後数分で到着となりますから...。」

飛行機には着陸態勢時にトイレに客がいると着陸出来ないという決まり事がある。そのため従うしかなかった。

程なく着陸。またもや機内トイレに行こうとするとあっさり、空港内のトイレを勧められた。完全なる敗退である。なんとも消化不良の結果になってしまい、逆にこのいい加減な警備体制に憤りを感じた。

そのとき、ふとナイフを持ち込んだ事実を関係者に伝えた場合どのような対応にでるかとくだらないことを考えた。そして出口を通る際私はそこにいた警備員にこう言ってしまった。
「いや、持っているとは思わなかったんですがナイフを持ち込んでしまったんですよ。時期的に警備体制に問題があると思いますよ...。」
そういってザックの隠しを見せると警備員は焦った顔でこういった。
「ちょ、ちょっとお待ち願えますか!」
そのままその警備員に空港事務所に案内され応接室に通された。茶とケーキを出され、待つこと数分、別な男性が現れた。その男性は空港の警備担当責任者と名乗り私に名刺を差し出し、質問をはじめた。
・(よろしければ)との前置き付きで身分証明書と連絡先の提示
・羽田のどのゲートから入ったのか
・その際対応は何名いたか
等々、またナイフのメーカー・刃渡り等を調べ写真を撮っていた。

一通りの事が終わると世間話の調子で彼はこういった。
「ワールドカップも近いんでこういったことはかなり大きな問題になるんです。この事件でまた警備マニュアル等の見直しがあると思います。」
私は返した。
「じゃあ、私は申し出ない方が良かったんですね(笑)」
「いえ、ある意味警備体制の強化になりますんでこちらとしては有り難いです。」
という優等生的な回答だった。私は言った。
「この頂いた名刺をもってフライデー(写真週刊誌)辺りに私が駆け込んだらどうなりますかねぇ(笑)」
相手は笑いながら言った。
「勘弁して下さいよ(笑)」
しかし、目は笑っていなかった。

程なく解放され、リムジンバスの乗り場へ向かう。しかし、こんな事をしていたため既に全てのバスは終了となり当然のように小倉行きのバスも終わっていた。

再び事務所に戻り先ほどの担当者を捕まえ言った。
「小倉行きのバスが終わってるんだよ。どうすればいいの?」
彼は言った。
「右へでて一つめの信号機を10分ほど歩けば下曽根の駅ですからご利用下さい。本当ならお送りするべきなのですが先ほどの件で羽田に連絡したため私もすぐには帰れませんので...。申し訳ございません...。」
一言、
「写真週刊誌へ駆け込みます!」
と言ってやろうと思ったが何となく気の毒に思えたので駅まで歩くことにした。

飛行機に乗るたびに思い出す出来事である。

屋久島へ

2006-07-20 23:58:04 | 
さてさて、無事屋久島から帰還しました。どうにも帰ってきてから屋久島呆けが体から抜けず、更新が大幅に遅れています(笑)

今回の旅は今までのモノとは違い、アウトドア天国屋久島へ行ったモノの双子の幼児連れであったため今までのように山へ登ったりカヤッキングをしたりということは出来ませんでした。しかし、子連れでの旅、これはある意味今までない新鮮味がありました。ということで私としては珍しい視点での展開となります。とは言ったモノのちび共メインで書くと単に自己満足の親馬鹿日誌になりかねないので適当にその辺は端折ります。以下。

今回で私自身9回目、嫁が6回目となる屋久島上陸となった。

13日朝食を終えた後、自宅を車で出発。当所羽田空港まで電車乗り継ぎを考えたが、家から徒歩6分の最寄り駅まで大量の荷物を抱え、幼児2人を連れて、更に羽田まで乗り継ぎをするのはある意味修行であると考えた。羽田に車をおいておく目処が付いたので新青梅・環八の渋滞を予測し、9時出発。たった26kmの道のりを2時間ほどかけて駐車場着。

駐車場管理会社のバスで空港へ移動。10分ほどであった。その後、チェックイン。屋久島までの荷物をスルーし、空港内のレストランで早速ビールを飲みながら昼食。こんなまったりモードは子供が出来て以来嫁は久しぶりであった。かくいう私は当ブログでもおわかりのように遊び呆けているので珍しいことではない(笑)

初めて乗る飛行機にちび共は喜んでいたが、こっちは大変だった。指定された席は私も嫁も何故か窓側の端の前後であった。隣の席にはお互い見知らぬ他人が座っているわけである。私の隣の女性は気遣って並んで座れるように客室乗務員に申し出てくれたが意外な答えが帰ってきた。非常時に子供用の酸素マスクがこの便の場合通路側の席には下りてこないとのこと。だから不便でも窓側の2列となったらしい。ちなみに中央のシートは正面左側2列は装備されているそうだ。


【愛知県渥美半島・伊良湖岬沖】

子供を抱っこしての100分間、これが大変だった。子供は離陸前に大喜びだったモノの搭乗すると騒音のためか落ち着いたらしくあっという間に寝に入った。しかし、飛行機が安定しても寝ている子供を離すことは出来ず、トイレにも行けない。更に困ったことにヤツは寝屁をかまし、また口からは涎を我が腕に垂らし続けた。

国内の短い移動だったためこんなもので済んだがこの状態で海外への長い時間をかけての移動はあまり考えたくはない。

寝起きに少々空を飛んでいることに驚いたモノの乗務員から子供向けの飛行機のおもちゃを貰いご機嫌の内に鹿児島へ着いた。

乗り継ぎが20分。しかし、10分程の余裕しかなく、ターミナルの端から端までの移動は汗だくであった。

チャーター便はいつものYS-11ではなく何故か更に多く乗れる便が用意されていた。
乗ってみて分かったことであるが唯一の国産の機体YS-11機は今年の9月を目処に完全廃止らしく徐々に大型の機体に入れ替えているらしい。



更に25分で屋久島着。飛行場では行きつけのライダーハウスの女将が出迎えてくれた。

ムラサキウニ ~三陸・北山崎~

2006-07-10 22:27:12 | 
秋葉原の総武線ホームに貼られていたポスターである。


【北山崎・『東北にアルプスがありました』というコピー】

3年前の9月半ば、思い立ってこの地を訪れた。10数年前私が上京した際ねぐらとしていたのは当時でも築30年を過ぎたキッチン・トイレ共同当然のように風呂無しの木造ボロ下宿の1階の4畳半だった。その2階にクマと呼ばれる輩が住んでいた。何故かヤツとは気が合い、よく遊んで歩いた。その後、私は進学し、ヤツはアメリカの大学へ行くといいそのまま事実上消息不明となった。

3年前の夏、東北の地図を眺めていると『北山崎』という地名が目に留まった。ふと遠いヤツとの記憶が思い浮かんだ。
「...三陸のリアス式海岸の北山崎って所で親が土産物屋をやってるんだ。」

ネットで『北山崎』とヤツの名字を入れてみるとあっさり1件ヒットした。これがツーリングの口実となった。もし、ヤツの縁者が経営する所なら消息くらいは聞けるかも知れない。確証はないが何となくテント等を持ち出しフルパッキングでバイクで向かってみた。

東北道・盛岡インターを下りたのは13時過ぎだった。そこから北東に延びる455号線沿いにヤマセの影響で本州で一番平均気温が低いと言われる岩泉町を過ぎた。この時期にもかかわらずバイクでは震えが来るほど寒かった記憶がある。

やがて太平洋にぶつかり北上、16時に北山崎に到着。景色を楽しんだ後、立ち並ぶレストハウスの1軒に入り、店員の女性にヤツの名字を出してその名の人が経営する店を訊いて見た。
店員さんは、
「はい、それは支配人の名字ですがどういったご用件でしょうか?」
一軒目で行き当たるとは思っていなかったためかなり驚いたがこう伝えた。
「はい、息子さんの東京時代の旧い友人でして、消息が分かればと想いまして...。」
そういって自分の名前を告げると女性は受話器を取り内線をかけてこういった。
「専務はいらっしゃいますか?なんでも東京での旧い友人の方がお見えですが...。」
意味が分からず待つこと2分、何とクマが現れた。ヤツは驚いた顔でこう言った。
「やっぱりお前か!久しぶりだなぁ...。東京からの客と聞いて名字で思いついたのお前だけだったんだ。」
予期せぬ13年ぶりの再開だった。

ヤツは帰国後、暫く働いた後、実家へ帰ったそうだ。その後目の前の海を見て漁師をしたくなり弟子入りして独り立ち、今は漁の傍ら両親のおみやげ屋を手伝っているとのことであった。

あっさり泊まっていくことを勧めてくれ、夕食に大量のウニ料理を出してくれた。それまでの私が食べたウニとは全く違う味でこれが本当のウニだったのかと思うほど感動した記憶がある。それまで誰もが言うように北海道の礼文で喰ったウニが一番と思っていたが私には格段にこちらの方が美味かった。礼文近辺のウニは『馬糞ウニ』、三陸のものは『ムラサキウニ』。目から鱗だった。

翌朝、海は荒れていた。4時に起こされ、海岸での昆布漁に出かけた。波の荒い日は海岸に昆布が打ちあげられるらしい。この昆布もウニの餌となる良質のモノである。これがきっかけでお互いの交流が復活した。

帰り際にヤツはこう言った。
「また来いよ。今度来たときはここ(北山崎)の海の洞門を俺の船で案内してやるよ!」

『海のアルプス』と呼ばれる北山崎の思い出である。

青春18きっぷ

2006-06-27 18:42:24 | 
本屋でこのような雑誌を目にした。いまでもこの切符は健在のようである。働いている今となってはこの切符を使って旅をすることなど考えてもみない。理由は簡単なことである。時間が勿体ないからである。



しかし、学生の頃、仲間との旅と言えばもっぱらこれが当たり前だった。今は知らぬが、当時は5枚綴1セットで売られていた。ある年の夏、サークルの仲間と東北の朝日・飯豊連邦を一気縦走してやろうという計画が持ち上がった。しかし、この話に乗った面子は4名。誰もが皆、一様に金がなかった。この山々を選んだのは単純明快。1週間以上のロングトレイルになるにもかかわらず、途中の朝日下山後の小国町での補給以外、全く金を使うところがないのだ。季節が8月末のということもあり、管理人がいてお金を必要とする山小屋が一軒も無いのである。つまり、衣食住の全てを背負っていかなければならず調達はあり得ないのである。おそらくルートがしっかりしているにもかかわらずこの状態の山域はここ意外には北海道の大雪山系くらいではないだろうか。

※ 山小屋を管理する行政の管理人がいて幕営料を取られたのは飯豊山域の門内小屋の1軒だけあった。

当時、金はあまりないが時間は無限と思えるほどあった。我々4人は、池袋の金券屋でこの『青春18きっぷ』のバラ売りを手に入れ、早朝6:10の武蔵野線に乗り込んだのである。この旅が今思えば凄かった。上越線経由で延々と乗り継ぎを繰り返した。みんながそれほど金を持っていないため今のように酒を飲んで時間を潰すなどと言う考えは全くなかった。乗り換えの度に各自車両をまわって捨てられた雑誌や新聞を回収してそれを読んで時間を潰した。乗り換えに間があるときは改札から出てひたすら見知らぬ町を徘徊するという移動であった。
特に思い出深いのは乗り換えに100分以上あった新潟の新津で、昼時と言うこともあって駅建物横の日陰でコッヘルとストーブを取り出し飯の準備をするという離れ業もやってのけた。

ひたすらそんなことを繰り返し、目的地の山形県の鶴岡駅に着いたときはもうこんな旅は嫌だと辟易したモノである。しかし、この旅に同行した後輩はやはり安さには勝てなかったらしく私の卒業後、グループを組んで九州の久住・阿蘇縦走のためこの切符で遠征に出たらしい。

青春18きっぷ(なんとも恥ずかしい名前だ)の思い出である。

Dr.コトー診療所

2006-06-16 22:11:07 | 
Dr.コトー復活…平均視聴率19%の人気作、3年後の「診療所」

ネットのニュースで上述の見出しがあった。

先日、泉谷しげるがライブで叫んでいたのでまたもやスペシャル番組でも作るのかと思いきや連ドラで10月から復活するらしい。

この番組、離島で診療活動をする外科医のドラマであるが何故か心臓・肝臓・脳等々、何でもこなす名医の話である。

※ 実際には医者には専門分野があるのでこのような存在はあり得ない。

これに関して思い出したことがある。私は離島を旅をしていて診療所にかかったことがある。

一昨年の夏、屋久島でのこと。泊まっていたライダーハウスで一緒の面々とあまりにも暑いので泳ぎに行こうと言うことになる。しかし海はぬるくて気持ちが悪い。川で泳ごうと言うことで横川(ヨッコ)渓谷へ行った。花崗岩の隆起が水の浸食で削られた豪快な場所である。



午前中、泳いだり岩登りをしたりして遊んでいた。昼食時に適当に酒をのみくつろいでいた。その後帰る前に一泳ぎしようかとまた水辺へ行こうとした際、沢筋に足を取られ、転倒した。水の流れる岩に右こめかみから落ち、1cm程切り流血となってしまった。適当に止血し、自力でバイクで島の診療所に向かうというハプニングとなった。

診療所に着いた時点で完全に血は止まっていたが治療に当たったのは名誉院長というIDを付けた白髪のじーさん医者だった。
じーさんは先の丸い金属製の診療具を私のこめかみの傷口に突っ込んでかき回した。かなり痛い。

以下私とじーさん医者との会話

【じーさん】外見は1cm位だけど傷は深いね。これは縫った方が早いね。他に気になるところはあるかい?

【私】若干鼻の粘膜が喉に流れ込んで血液が混じってるんですが。

【じーさん】....それは鼻血だね...。

【私】(....これが鼻血以外のなんだと言うんだ。こっちはその原因が気になるんだ!)

【じーさん】(目の周りを適当に押しながら)鼻血の原因はよく分からないけど大丈夫だろう。歯医者で麻酔をやったことはあるかい?その麻酔をしてから縫合するから...。(多分これがアレルギーチェックだったんだろう)。

そういうとじーさんはすぐさま処置を開始した。中3針・接着剤注入後更に外4
針という縫合をした。10分程で完了。後、そのじーさんが破傷風の予防接種を
打とうと言い出した。

ここで理解して欲しいが破傷風とは主に土中に生息する病原菌である。予防接種は一度接種後4週間程後、さらに再接種、1年後もう一度接種。計3回で基礎免疫の完成となる。これを念頭において以下の会話。

【じーさん】沢にはどんな雑菌がいるか分からない。念のため、破傷風の予防接種をしておこう。

【私】(注射は大嫌いである)私、既に接種済です。それに破傷風って最低でも2回法じゃないと効き目無いですよね。一度打って、免疫が出来る3・4週間後にもう一回打たないと...。まして現時点で菌が入っていたら予防接種しても何ら効き目が無いと思いますが...。

【じーさん】屋久島では過去3年に3例の報告があるんでねえ。前に打ったのは何年前だい?

【私】5年程前ですが...。

【じーさん】それじゃそろそろ打ち頃だ...。

どんなに特殊な菌でも免疫というのは普通一度出来れば最低20年は効果が維持
できる。普通の菌なら一生モノである。
全く意に介せないがふと考える。まあ、まともに打って貰うと自由診療だから3
~5千円は取られる。保険診療でやって貰える上に確かにわずかながらブースタ
ー効果が期待できる。それよりも何よりもこの医者を説得するのが面倒になった。

あっさり肩を出す。

【じーさん】凄いねぇ。何故二の腕だと分かったんだい?

(このじーさん、さっきの俺の話、一言も聞いてねぇな...。)

二日後、経過を診て貰いに再来。

【じーさん】もう大丈夫だ!抜糸しよう。おめでとう!今日で終わりだよ。もう、泳いでも酒を飲んでもかまわんよ!

【私】え!?まだ、40時間も経過してませんが...。普通、最低でも1週間くらいはこのままじゃないですか?

【じーさん】ここまで接着剤が効く人は珍しいよ。昨日は一日安静にしてたのかい?

【私】いえ、宮之浦から永田岳行ってきたんですが...(詳しくはこちら)

【じーさん】...ともかく抜糸しよう。

今、思うこと。私は通り一遍の観光客として遊ばれたんだろうか?
離島診療は行政等からの赤字補填が実質100%あるから無理して業績あげなくても良いはずなのであるが...。

まあ、合計1400円程度で結構楽しい思いが出来た気がする。
余談だが、2度程請求したが何故かエンボス(診察券)は発行して貰えなかった。

ツーリング 山バッジ

2006-05-26 21:57:03 | 
戦場ヶ原の売店で男体山のバッジを購入。休憩ついでに暇そうな店のばーさんに戦場ヶ原という名前の由来を聞くと、歴史的な合戦があったわけではなく伝説に由来しているということを知った。ばーさんの長い話を要約すると、中禅寺湖を自分の領土にしようと、男体山の神の化身となった大蛇と同じく赤城山の化身の大ムカデがこの戦場ヶ原となる場所で大戦争を繰り広げたことに由来するらしい(おお!わずか2行程度に要約できた!)。



長くなる一方のばーさんとの世間話に終止符を打ち、日光側へ下りるも天気は朝のようにどんよりと曇っていた。全長2,765mの日足トンネルを抜け南側の足尾へ出る。この足尾、初めての場所であるが、一度は行ってみたかった所である。幼少の頃見た菅原文太主演のテレビドラマ”獅子の時代”の最終回に出てきた日本初の公害となった足尾鉱毒事件の大元となった場所である。渡瀬渓谷鐵道の終点となる所で全盛期の明治から大正初期までは銅山として東洋一、町としても宇都宮に次ぐ2番目の人口を誇ったと言うことだ。残念ながら16:30を過ぎていたため資料館は見れなかったが深い山中に点在する場違いなレトロな建物と廃墟はバイクで走っていて楽しかった。

この足尾の町はずれにある足尾温泉・銀山平のキャンプ場へ向かう。ここが100名山・皇海山(すかいさん)の栃木側からの登山口となる。ただし、ここからは庚申山を越えて1泊のロングトレイルとなり、現在は群馬側からの日帰りコースが主流との事である。わざわざ、この登山口に立ち寄ったのは、皇海山のバッジは栃木側でしか手に入らないと聞いたからだ。登る前に購入するのも気が引けたが、おそらく今後登るときは群馬側からのアプローチとなるための購入であった。値段は700円。今までのコレクションは4~500円だったため驚いた。

その後、伊勢崎から北関東・関越・圏央道経由で19:10帰着となった。

東北自動車道 ~大渋滞~

2006-05-11 23:37:34 | 
7日の続き
学生の頃、時間は山のようにあったが金はその時間を有意義に過ごすほどの額はなかった。そのため無理して新車で買ったオフロードバイクは急がない場合はひたすら一般道を走ってのツーリング、また宿泊を伴う場合はテント持参となった。

適当に時間を見つけては田舎方面に出かけることも多く国道4号や6号・121号をひた走り北上することが多かった。どうにか社会人といわれるようになってからは若干の金銭的余裕は生まれたものの逆に時間が取れない事が多いため高速道路などの手段を取ることになった。そのせいか、実家までの国道や高速の景色は不思議な物でおおよそ覚えてしまった。

そんな繰り返しの中で利根川というのは私の中で一つの北方面へのいわば関所のようなものである。この川にかかる橋梁を北へわたると都会での日常を抜けた気になる。逆に南へわたると実生活に戻ってきたという不思議な安堵感が漂い始める所である。



ご多分に漏れず今回も田舎へ帰る際、大渋滞の中この橋を越えると気持ちが落ち着き始めた。田舎へ帰るという実感がわき始めたのだ。進むに連れ左に上州の山々、また行く手には那須・茶臼岳を主峰とする未だ雪を被った峰々が見え始めた。宇都宮の大谷で休憩を入れ、のんびりした気持ちで渋滞を進む。やがて、磐梯山・吾妻山が見え始め調子が良ければ3時間弱という300kmのドライブが8時間半という記録的な行程になってしまった。



渋滞というものは私はかなり苦手だった。実家の者共も大部分は苦手のようだ。しかし、東京で生活し、マイカーを所有する以上避けられない問題でもある。半ば諦めがあるせいかもしれないがいつの間にか私にも8時間半という長丁場に耐性が付いてきたようだ。また車の場合だとバイクとは違い、天気を気にしなくてすむ。それにFMラジオや音楽を聴いていれば気が紛れる。今回はiPodが大活躍だった。

嫁はというと生まれも育ちも東京のため物心付いた頃からあまり苦にしたことはないそうだ。不思議な物で我がちび共も今のところ気にはしていないようだ。

ガソリン高騰

2006-05-07 19:32:03 | 
3日(水)少ないながらも5日(土)までの3連休である。天気も良さそうなので1年ぶりに南東北の実家へ帰ることにした。しかし、ガソリンが高いと聞く、家の近くのガソリンスタンドでも値段が先週よりも10円程度、またどのスタンドでも同じ位の値上げをしていた。



【レギュラー134円・ハイオク145円】

こんな異常値を東京で見ることになろうとは夢にも思わなかった。今まで私が給油した限りレギュラーで一番高かったのは02年GWに開催された第2回対馬TTというバイクのイベントに参加するために向かった長崎県の離島対馬であった。レギュラー132円。この値段には驚いた。その旅の際、五島列島(上下)・天草諸島・屋久島と離島巡りをしたが対馬での値段が最高額だった。

対馬では一緒に回った佐世保のライダーがガス欠間近ではあったが、翌日福岡へ戻るという理由のため3リットルしか給油しないという笑い話さえ出た。ちなみにこのときの福岡は80円代後半だった。

その次に高かったのは00年5月に行った鹿児島県奄美大島の南にある加計呂麻島であった。レギュラー130円離島から更に離島への乗り継ぎが必要な場所、更に島内唯一のスタンドだっただけに値が高いのは当たり前のことと納得した。

しかし、この2件は消費税が内税方式となる04年04月より前の話である。当時は外税表示だったため当然この高額に消費税等が加わったわけである。

今の時勢、これらの島嶼のガソリンはどれほどの金額に高騰しているのだろうか?

そう思っていたら今年で6回目を迎える対馬TTに参加している知人から連絡があった。試しにガス代を訊いてみると156円程度だそうだ。内税なので思ったよりは上がっていないようである。

話は変わるが、この対馬、日本本土よりも韓国の方が近く、島北西部からは韓国が望める。また夜になると釜山の夜景が見えるという大陸を間近に感じれる場所である。詳しくは機会があれば紹介しようと考えるが、一度は旅することをお奨めしたい所である。