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思考の7割と収入の3割を旅に注ぐ旅人の日々

一般的には遊び(趣味)と見下されがちな「旅」も、人生のなかでやるべき「仕事」である、という気概で旅する旅人の主張と報告。

再び山梨県北杜市へ、シェルパ斉藤トークショーに行ってきた 

2007-06-17 23:59:45 | 他人の旅話
2007年4月22日の投稿で、前日21日にバックパッカーのシェルパ斉藤氏の店「Team Sherpa」のトークショーを聴きに行ったことについて触れたが、その第2回が昨夜開催され、再び聴きに行ってみた。
前回はひとり参加だったが、今回は雑誌『BE-PAL』のウェブサイト内にあるメールマガジン「Air BE-PAL」の6月9日配信分でも告知されたとおり、ミニコミ誌『野宿野郎』のかとうちあき編集長を含む野宿仲間4人とともに参加した。現地への行き方はみんなバラバラだったけど。

今回も前回同様に70人ほどの参加者が集まるなか、19時15分頃から始まった。「Air BE-PAL」の効果はそんなにないようで、僕の、ひょっとしたら100人以上は来るかもしれない、という大胆予想は見事に外れた。まあこぢんまりとした催しなので、このくらいの人数がちょうどよいと思う。
今回からは斉藤さんが近況報告したあとは縁のあるゲストに登場して喋ってもらうというカタチになり、その第1回のゲストに、『BE-PAL』(以下、ビーパル)で連載を持っているつながりで、自転車世界一周の経験者であるエッセイストの石田ゆうすけ氏が招かれた。このふたりは昨夏のビーパルのイベントで一緒になったのが初めてでまだ関係性は浅いようだが、石田さんはよく引き受けたな。

斉藤さんの旅話は10年ほど前から東京都や大阪府などでの各種催しで7、8回は聴いていて聴き慣れているが、今回正式にお会いするのは初めての石田さんのほうはここ2年で東京都内のトークショーに2回行きそびれていたので、今回は3度目の正直で、どちらかと言うと石田さん目当てで行ってみた。彼が世界一周中から、本名の「石田祐輔」という名前は、世界レベルのチャリダー集団、JACC(日本アドベンチャー・サイクリストクラブ)の機関紙「ぺダリアン」をたまに読んでいて知ってはいたが(10年ほど前は、彼と待井剛氏の動向が特に目立っていたな)、実際の人と成りはどんな感じなんだろう? と帰国後にライター稼業を始めたことを知ってからはずっと気になっていた。

トークショーの内容は、石田さんが7年5か月かけて世界一周している最中に体験した、自著『行かずに死ねるか!』(実業之日本社刊)に関する話、さらにそこには挙げられなかったより細かい話を披露していた。その詳細はもちろんトークショー参加者のみの秘密ということで控えるが、僕個人的には、空砲、ツアーガイド、2リットルの水、の話が印象的であった。

さらに、『行かずに死ねるか!』の文庫版がつい最近に幻冬舎から発売されたが、その解説は椎名誠が書いていることについても(解説というよりは感想)、石田さんの旅においての観察力などをベタ褒めしている、その文中で少々本文のネタばらしをされた、帯の署名は著者である石田さんの名前よりも椎名さんの名前のほうが大きい(「権威付け」の典型例ですな)、などというくだりが面白かった。
また、その幻冬舎の社長で、出版業界の革命児的な扱われ方をされて近年注目され続けている見城徹氏が、普段よく力を入れて確認する自社の文芸書の単行本以外の文庫本にしては今回やけにこの本の販売に力を入れよ、と言っているらしい。最近特に勢いのある出版社からそんな好評価を受けるなんて、いいなあ。人気も部数もかなり少なめの僕とは大違いだ。でも僕もそれなりに頑張っているつもりなんですが。幻冬舎は最近はエッセイや旅本にも力を入れるようになり、石田さんもその勢いに上手く乗っかっている。うらやましい。

石田さんの話のあとは前回同様に、トークショー参加者全員を一巡する自己紹介大会があり、参加者は前回よりはやや多かったためか1時間以上かかった。なんか面白そうなことをやっていると聞きつけてふらっとやってきた近所の方も多かったが、二輪車で世界一周した経験のあるライダーが数人ふつうにいたりして、集まった面子は地平線会議と同様の多彩さと凄みがあった。
ちなみに、今回はかとう編集長が来ていることもあってか、店長(斉藤さんの奥様)からは自己紹介ついでにこれまでの野宿歴や印象的な野宿についても答えよ、というお達しがあり、みなさん困惑しながらもいろいろ喋っていた。ただし、これはテント泊も含めてよいとのことで、そうなると僕も『野宿野郎』5号のアンケートにも回答したとおりに400泊以上とふつうに答えたら、ちょっと驚かれた。3桁以上の数字を挙げていた人はかとう編集長や僕を含めて10人くらいだったかな。でも野宿経験が多いからと言ってもべつに偉くも何もないのだが。逆にいくらか社会から足を踏み外しかけている人だからこそ、そんなに野宿するのかもしれない。

出店のそばでは、石田さんのこれまでの著書を即売していて(『行かずに死ねるか!』の韓国語版もあった)、サインも書いていた。僕も2003年発売の単行本ではなくそれを少々書き直して新しい解釈になった? 最近発売された文庫本のほうを買った。そして、ちょっとした旅話(特に沖縄県のこと)を交しながらもサインも漏れなくいただいた。そのさいに、JACC絡みのちょっとしたおつかいも済ませることができ、これで僕の今回の任務は完了し、ここから前回と同様の手当たり次第の飲み食いを始めた。

トークショー終了後は、参加者はあとは早めに帰宅したり寝たり、起きていたい人は限りなく旅話をしたり適当に飲み食いしたり、というのが日付が変わって夜が更けても延々続いた。僕はビールと焼酎と日本酒をチャンポンしたり、余るとよろしくない焼き鳥を積極的に片付けたり、深夜1時すぎからしばらくはある女性グループが持参したマシュマロを炭火で焼いて柔らかくなった食感を楽しむ「マシュマロパーティー」に興じたりしてから、2時30分すぎに就寝。石田さんを含む数人は空が明るくなってきた4時近くまで喋っていたのだろうか。

泊まりはテントも利用できたが、天気は良いので僕らは当然ながらテントなしの野宿にこだわり(テントの設営・撤収が面倒だからということもある)、僕が就寝した3時間後の明るくなってきた5時に一度起きたがまだ誰も起きておらず、二度寝をしたりして、起床は結局8時になった。
そういえば、他人の家の敷地内で堂々と、良くも悪くも様々な人々の襲来をまったく気にする必要なく寝袋とエアマットのみで野宿できるということはめったにないことなので、今回の、ある程度の緊張感を強いられるいつもの旅の最中の野宿とは違って不安要らずで安眠できたのはとても新鮮であった。

そして朝食のあとに10時30分頃に店を離れ、解散となった。ちなみに僕は前回は往復ともにJR利用だったが、新宿←→岡谷間の高速バス利用のほうが若干安く行けて移動時間も少し短縮できるので今回、中央道日野バス停←→長坂高根バス停間を往復利用してみた。やはり予想以上に安いし速かった(僕の地元から片道、5000円弱、約4時間)。今後もこの路線には度々お世話になるだろう。

天気は先週の時点では雨が心配されたが、日に日に晴れる方向に向かい、当日は結局は2日間とも快晴で、八ヶ岳、甲斐駒ヶ岳、鳳凰三山などの周囲の山の稜線もくっきり見渡すことができた。もちろん、3週間前に登った南方の富士山もバッチリ見え、14日に梅雨入りしているのがウソのような、恵まれた、というか恵まれすぎて逆に日焼けが進んだ好天のなか、今回の催しを存分に楽しむことができた。次はいつ行けるだろうか。



「Team Sherpa」に行く直前に、その最寄りの中央自動車道・長坂高根バス停付近から見た不可解な雲。すぐそばのスーパーの店員は地震の前兆である「地震雲」と言っていたが、ホントかね? まあたしかに、雨も降っていないのに虹が出ていたりしたので気にはなった。
でも結局は翌朝まで、地震も大きな天候の崩れもなく清々しい週末であったよ。



「Team Sherpa」の出店の一角にある、炭火焼き道具。七輪もある。出店の営業中は活気づくが(だいたい23時頃まで)、深夜にみなさんお腹一杯になるとほとんど見向きもされなくなるので、今度訪れる場合はここで密かに焼くための食材を持って行こうかな、と今から企んでいる。街暮らしをしていると炭火焼きをする機会はめったにないからね。



斉藤家の敷地内で野宿すると、朝はこのような光景が頭上に広がっている。天気は良く、環境も良く、まさに野宿日和であった。十数年前からシェルパ斉藤フリークである僕としては、斉藤さん家で野宿ができるなんて最近まで夢にも思わなかったよ。感無量。貴重な体験ができ、感謝であります。ぜひまた寝に行きたいものだ。

渋谷へ、ホーボージュンのトークショーに行ってきた

2007-06-09 09:03:31 | 他人の旅話
昨夜、東京都渋谷区のパタゴニア渋谷店で行なわれた野外行動者の旅話を聴く「スピーカーシリーズ」の、ライター・ホーボージュン氏のトークショーに行ってきた。僕は野外業界人の旅話をする場にはよく出かけていて著名な方の話はだいたい生で聴いてきているが、ジュンさんに関しては数年前に休刊した旅雑誌『OUTDOOR EQUIPMENT』で本名の斉藤潤名義で寄稿していた10年ほど前から当然気になっていたが(9年前に元奥様と南米自転車縦断をする直前あたりからペンネームを本名から現在の“ホーボー”に変更したことを知っている人は全国にどのくらいいるのだろうか?)、これまでお会いする縁がなかった。が、ついに昨夜、僕が近年ぜひお会いしたい業界人の第1位にずっと挙げていた彼とやっと対面することができた。
そのため、会場入りして20~40代くらいの男女約90人の聴衆のなかに紛れ込んだ時点ですでに感無量で、冒頭のジュンさんがこれまでに撮影してきた写真から厳選したもののスライドショーをプロモーションビデオ風に仕立てた自己紹介代わりの画をMacで流すところからやられた。

催しの中身は、今回は前半は南米のみっつの旅(と取材)の様子の写真をスライドショーで見せながらそれに合わせて解説し、後半は今春に行った、雑誌『BE-PAL』でも今年始めから連載で取り上げているパタゴニアのトーレス・デル・パイネ国立公園のパイネサーキットを歩いて旅したときの装備の解説をしていた。

スライドショーのほうは、『OUTDOOR EQUIPMENT』連載・寄稿時に掲載していた見慣れた写真も数点あったが、おそらくこれまでにフィルム・デジタル含めてキヤノンの一眼レフカメラで十数万枚撮影してきているだろうから、当然ながらまだ見たことはないものもあり(公表していないものも多々あるだろう。それらをまとめて写真集を出版してくれないかなあ)、こんなものも撮っていたのか、やはり写真はウマイなあ(しかもかなり困難な地形・気象条件のところを行動しながらだし)、とやや前のめりになりながら鼻息荒く、興味深く見入った。

次に歩き旅の装備解説だが、どちらかと言うとこちらのほうが笑える要素が多くて面白かった。
衣・食・住の順に使用している装備へのこだわりを説いていったが、ジュンさんは人前で喋るのが苦手と言いながらも、媒体でも特に雑誌『モノ・マガジン』の長期連載や今年から『山と溪谷』でもよく書いている道具へのこだわりは凄まじく、マイクを使わずに生声で自分のお気に入りの道具たちを解説していくうちにだんだん熱くなって眼の輝きも増していって、興に乗ってきたところはまさに媒体でよく読むあのやや軽妙だけれども筋はしっかり通っている文体と一致し、彼の熱いこだわりにぐいぐい惹き込まれた。僕のようにちまちましたものしか書けない者よりも、こういう地球規模で行動・表現できる人が世に広く出て行くべきなんだよなあ。
僕も旅の道具へのこだわりはそれなりにあるが(できるだけ日本のメーカーの製品を揃えていることなど)、原稿の締め切り間際に現実逃避的? にコッヘルの取っ手を電気ドリルで肉抜きして装備を1gでも軽くするための軽量化に努めるほどにあんなに病みつきになることはないよな、そこまでやるのか、凄い、と圧倒された。

モノ話で特に印象的だったのは、衣では膝から下をジッパーで着脱できるジップオフパンツ(コンバーチブルパンツとも呼ぶか)を愛用していること、食では今回のパタゴニア行では前時代的であっても故障を気にしないで済むアルコールストーブを選択したこと、住では『BE-PAL』07年3月号の連載で紹介していた、アライテントのトレックライズ0に合わせる前室付きのフライシートを自作した「ホーボーズ・ネスト」の3点かな。展示していたこれらも生で触ることができた。

ほかにも、異なる性質の道具を交互に使用したり組み合わせたり、行動中はただの「重り」で「死んでいる」状態になる住関連のテントや寝袋をいかに軽いものに選択するか、ひとつのモノをいかに使い回していくかに腐心したことなど、僕のような旅道具マニアにはたまらない、媒体では細かすぎて敬遠されそうな話が続き、もっと時間があれば延々聴いていたいなあ、というくらいの予想どおり僕好みのよだれ垂らしまくりの面白話が続いた。夏であっても高緯度で比較的寒いはずのパタゴニアに、今回は寝袋はモンベルのU.L.スーパーストレッチダウンハガー♯5のみで行ったのは驚いた(もちろん、ダウン製の薄手の上下を着て寝る、という工夫もあった)。

そんな感じで1時間30分ほどの濃密な時間を過ごすことができ、幸せ。ホントに時間が許せば(僕はべつに終電を逃してもかまわないから)3時間でも4時間でも、可能であれば翌朝まででも聴いていたい濃ゆい内容であった。

今回生で初対面したジュンさんも「おいっす」という挨拶から始まるような文体どおりのかなりくだけた感じの人で、第一印象では今年で44歳には見えないし、あれほどの厳密な軽量化にこだわるふうにも見えなかったが、実際にお会いして、こだわりの塊の人であることはしっかり確認できた。各種媒体のパッと見ではややクサイ? 文章も、あの人が書くのであれば納得ですな。文章力も写真の巧さも光るこの人がなんとか病から復活してホントに良かったなあ、と今回ジュンさんと生で会って実際に少し喋ったりもして、安心した。ちなみに、身長は171cmの僕よりもやや低く、喋り方は津田寛治や山本“KID”徳郁に似ているかも。

帰り際に彼の『モノ・マガジン』の連載をまとめた著書『実戦主義道具学』(ワールドフォトプレス刊)にサインをもらったりしながら、またこういった話を聴きたいなあ、と次回開催を切望した。ちなみに、僕はこの本のなかでは「見る前に撮れ」の一言で始まるキヤノンのEOSKissデジタルの回が好き。この文言はまさに、撮り溜めや撮り直しが容易になったデジカメ時代の鉄則であると思う。
また、サインをもらうときにこの本は誤字脱字が多くなってしまった、という話もあったが、そもそも僕が出版校正を志すようになったのは、このような僕好みの野外本を担当してジュンさんや、本ブログでも度々触れている行動しながら物書く数々の旅人の助力になりたい、という思いがあったからで(現在はその第一希望からはかなり外れた分野で経験を積んでいる最中なのだが)、今後もジュンさんと何かの機会にかかわることができればいいなあ、と現在も切望している。ジュンさんくらいのマニアックな話に付いていける校正者ってとても珍しいと思うんですけど、どうでしょう?

そんなことを思いながら催しの余韻を噛み締めながら、満足顔で会場をあとにした。今度、前々から検討していたHOBOのチェストパックをそろそろ買ってみようかなあ。

山梨県北杜市へ、シェルパ斉藤トークショーに行ってきた   

2007-04-22 23:59:10 | 他人の旅話
21日夜、山梨県北杜市にあるバックパッカーのシェルパ斉藤氏一家の店「Team Sherpa」にて斉藤さんのトークショーが開催され、それを観に行ってきた。これは1か月ほど前からウェブサイト上で告知されていたが、1週間前まで予定がはっきりせずに行けるかどうか微妙なところであったが、5日前になんとか行けることになった。

埼玉県の家から徒歩とJRを乗り継いで店の最寄り駅であるJR中央東線・長坂駅まで移動し、さらに駅から徒歩で1時間強かけて店に行き、片道5時間半ほどかけて店に到達した。ちなみに、片道の運賃は2520円であった。
実際の店の場所の第一印象は地図や写真の見た目よりも意外と交通量のあるところにあり、中央自動車道の長坂ICも近いし、そんなにバリバリの田舎暮らしという場所ではない気もしたが、でも東京近郊よりはクルマは必要不可欠な場所かな、と感じた。

この催しの事前受付では参加者は70人ほどに達したそうだが、実際に参加したのは50人ほどで(後日、店長からの発表によると68人だそうで、僕の目測よりも多かったんだな)、男女比が7:3くらい。やはり東京近郊からクルマで参加した人が多かった。参加者を見ると、斉藤家の家と店の建築や店で販売している商品や出版業界などでかかわっている友人知人、斉藤家の近所の方、犬(レトリバー種)つながりの方、僕のようなふつうのファン、に大別される。特に斉藤さんの友人では、斉藤家の建築の様子を記録した1997年発売のムック『野宿の達人、家をつくる』(地球丸刊)で見たことのある方々が多くいて、ホントに「チームシェルパ」は存在して今も結束は固いんだな、と改めて感じた。今回はその方々は各種食べ物飲み物を提供する出店を営業していた。

最初の1時間は斉藤さんの近況報告が主のひとり語りで、たしかに各種媒体では出てこない、出せない貴重な話が続いた。ここでそれをいちいち再現するのは野暮だし面倒なので、内容は伏せておく。
次の1時間は今回の参加者全員の自己紹介大会になり、ひとりあたり1分ほどの持ち時間で進めていき、僕は申し込みが遅かったためにその順番も終盤になった。全体の3分の1ほどは、すでに1回以上は店を訪れたことのある方々であった。
そのあとは22時前から焚き火台を囲んでダベったり、出店の売れ残りの肉や干物を炭火で焼きながら飲み食いしたりして自由な時間を過ごし、夜が更けるにつれて参加者が帰宅したり泊まる方は各々のテントなどで寝たりするためにどんどん減っていくなか、僕は22日深夜3時頃に最終的に10人でおひらきになるまで寝ずに粘った。
過去に春と秋に身近な人たちだけで同様の催しは数回行なわれていてまさに「チームシェルパ」という感じの家庭的な雰囲気がすでにできあがっている場に、僕のような店は今回初訪問で一見の、しかも普段から初対面の方々の輪に分け入るのが下手な者にとっては戸惑う部分もあったが(これまで経験した旅の集まりとはやや異なる雰囲気があった)、日付が変わった頃からは斉藤さんとその友人による面白話で、それを聴いているだけでもかなり楽しめた。
僕個人的には、斉藤さんとは『東方見便録』(小学館、文春文庫刊)や雑誌『東京生活』(出版社)の連載「東京見便録」でよく一緒に仕事していて、最近は自著『世界屠畜紀行』(解放出版社刊)が売れているイラストレーターの内澤旬子氏との関係性についてのことが特に面白かったのだが、これもまあ伏せておこう。僕も29日に、彼女も主催者に名を連ねている不忍ブックストリート・一箱古本市でお世話になるし、そのへんの話は今後も特に聴いてみたいものだ。
野宿は、店の前のデッキでやろうと思えばできたが、宴のあとで散らかっていたりしたので、結局は近所の空き地で寝ることにした。2万5000分の1地形図「若神子」によると標高は約680mのここはこの日は夜中も意外と暖かく、周りも人家があまりない静かな場所なので安眠であった。

翌朝というか寝てから数時間後に起き出して、22日は9時開店の店の内部を改めてじっくり見回す。ウェブサイトや1月発売のムック『シェルパ斉藤のニッポンの山をバックパッキング』(出版社刊)の80ページの写真だけではわからない実際の店内の雰囲気がやっとわかり、安心した。
また、この店の店長である斉藤さんの奥様も初めて見たのだが、写真の見た目よりも若々しく、店が開けることがホントに楽しいんだな、ということがひしひしと伝わってきた。斉藤さんと奥様のなれそめや、昨夜は一緒に炭火焼きをつついていた長男の一歩くんのことは、現在は中3の彼が産まれる前から斉藤さんの数々の連載と著作で知っているため、斉藤家とは今回が初対面とは思えないなんとも不思議な気分であった。ちなみに以前、とある催しで故ニホとサンポには触ったことがあるのだが、あと斉藤家でまだ見ていないのは次男の南歩くんとトッポとジッポか。このへんの固有名詞がわからない方はウェブサイトを参照のこと。
この日は店では2点の買い物と前々からの懸案であった所用を済ませるだけで終わったが(実はトークショーよりもこれのほうを重視していた)、催しのないもう少し落ち着いたときに、メニューにあるベジタブルカレー(700円)を食べるために再訪しようと思いながら店をあとにした。カレーに関してはちょっとうるさい僕としては、コーヒーよりもケーキよりもネパール仕込みのカレーが気になる。

帰路は単純に長坂駅まで同じ道を戻るのはつまらないので、ひとつ南の日野春駅を目指しながら小旅の雰囲気を味わいながら歩いて帰ることにした。
実はこの近辺は10年ほど前に、当然まだ北杜市になる前に一度散歩したことがあるのだが、今はそのときの記憶がほとんどなくなっていて、斉藤家の普段の生活範囲の雰囲気も少しは掴めるだろうとも思い、改めて歩いてみた。
桜の木があちこちに点在するが見頃はすでに終わり(1週間前だったらまた違った景色があっただろう)、それよりは道端に咲く菜の花の黄色が目立つ。また、中央自動車道の下にある細いトンネルを徒歩でくぐるというのも珍しいなあ、と思いながら進む。気温は25度近くあって暖かいと言うよりは暑く、久々に大汗をかいた。でも北の八ヶ岳や西の甲斐駒ヶ岳は21日から頂上付近に雲がかかっていて見えなかったのがちょいと残念。

日野春駅に着くと、ここでもすぐに帰るのはもったいないなあと思い、近くにある北杜市オオムラサキセンターに立ち寄り、これまではあまり気にしてこなかった昭和32年に国蝶に指定されたオオムラサキの標本や生態などの情報に触れ、少し勉強になった。僕は蝶類や羽根物類にはあまり興味がなく、最近長距離移動することが実証されたアサギマダラや沖縄県・与那国島名物? のヨナグニサン(世界最大の蛾)くらいしか気に留めていなかったが、ここには世界各地の蝶や昆虫の標本があり、それらを見ているだけでも楽しかった。虫取り網片手に各地の野山を徘徊する“蝶屋”の底力を垣間見ることができて良かった。オオムラサキは僕の地元の埼玉県では武蔵嵐山あたりでも名物扱いしているから、今度そちらにも行ってみよう。

あとは普段から乗り慣れている中央東線でふつうに帰途に就いた。車内も暑く、半袖Tシャツでも少し暑いくらいになり、この日に関しては6月くらいの陽気であった。

今回の主目的は「Team Sherpa」の訪問だったが、ちょっとした小旅に仕上げることができた良い週末であった。この甲斐路は現在のNHKの大河ドラマ『風林火山』の影響で例年以上に賑わっているようで(山梨県の中心地・甲府駅の人出も例年以上だったような気がする)、それに便乗してそんなに遠くないうちに再訪するかもしれない。



JR長坂駅から徒歩6、7分のところにある牛池。後方は赤石山脈・甲斐駒ヶ岳あたりだと思うのだが、21日も22日も山の頂上付近は雲がかかっていた。でも天候が大崩れすることはなく、雨にも降られることなく久々の山梨行を楽しめた。



「Team Sherpa」前。この店を始めて2年ほどになり、最近はウェブサイトや『シェルパ斉藤のニッポンの山をバックパッキング』(出版社刊)でも店の所在地を公表しているくらいだから、店の営業が軌道に乗ってきたということなのだろう。もっと早めに行っておけばよかった、と少々後悔するくらいの家庭的な良い店構えであった。
今度は埼玉県内から全行程を人力移動で行こうかな。もしそれができたら、斉藤家はホントに歓待してくれるのだろうか。まあ僕の場合は運転免許の類を持っていないので、ここに行く手段は必然的に公共交通+人力になるんだけど。



北杜市オオムラサキセンターの敷地内にある、ツリーハウス。これはテレビ『TVチャンピオン』のツリーハウス王選手権で造られたもので、ネスカフェのテレビCMでも使用されたものだそうで、ふとした思い付きで寄り道したところにこんな大きな発見もあって、「Team Sherpa」から長坂駅へ単純に往復しなくてよかった。
日野春駅-長坂駅間には自然観察路も整備されているそうで、今度はここを歩きに来ようと思う。まあ何にせよ今後店を再訪するときもそのほかの見所を巡るときも、北杜市を行く場合は旅の要素が付いてまわることになりそうだ。

2007年3月25日付産経新聞31面掲載の、僕の身近な冒険家 

2007-03-26 01:00:41 | 他人の旅話
昨日の、2007年3月25日付(日曜版)の産経新聞31面、つまり社会面のひとつの面の右半分で「人語り」という人物紹介の欄が設けられているのだが、この日の回に登場したのは安東浩正さんであった。しかも「冒険家」という肩書きで、高校時代に観た映画『植村直己物語』と、その主人公である数々の冒険的行為をやってのけた昭和の偉大な冒険家・植村直己(故人)に影響を受けて登山や自転車旅の世界に入っていった経緯、「冒険」という概念へのこだわりを簡潔にまとめたインタビューである。

記事後半にある、「冒険を事業化して予算を組み、スポンサーを付ける」という、冒険的行為を自分の身体ひとつだけでは掌握しきれないくらいに大がかりにしながらも上手く立ち回ることができる才能の有無についてのくだりがあるが、そんな“商才”がない、例えば極地に何億円も資金をかけて行くことに抵抗がある、と言う安東さんの言い分には、内容も場所も問わずどこかを旅するさいに基本的にはできるだけ「自助努力」で行くべきだと常々思っている僕も激しく同意する。
このような姿勢を活字で読むと、んー、やはり凄ぇ人だなあ、と改めて舌を巻いてしまう。まあ詳しい記事の全容は新聞販売店で25日付のこの新聞を注文して取り寄せたり、最寄りの図書館でバックナンバーを拾ってタダ読みしたりして(あとはウェブサイトでも読めるのかな?)、とにかくより多くの方に読んでいただきたい。

実はこの記事が掲載されることは、先週の安東さん本人からの直々の仲間内メールによって知ったのだが、全国紙にしては比較的発行部数の少ない新聞で早めに買いに行かないと売り切れてしまうかな、と少し心配ではあったが、昨日は午後からの外出であったけれども近所のコンビニエンスストアでなんとか入手できて良かった。
さらに、安東さんとはつい最近も、18日の神奈川県・相模湖の「アウトドアバイクデモ2007」、23日の地平線会議の報告会のあと、と最近は2週連続で会っているのだが、そんな僕の身近なところにこんなに偉大な平成の冒険野郎がいることを、改めて幸せに思う。僕個人的には、安東さんには「冒険家」と呼ぶよりは「冒険野郎」という、前者よりも破天荒で、好奇心のおもむくままに突き進むある種少年のような心を持った若々しい感じの呼び方のほうがふさわしいように思う。

そもそも、本ブログでも度々触れている地平線会議の報告会に僕が初めて足を踏み入れたのも1999年6月の安東さんの回だったし(そのときは、MTBによる冬季チベット横断の話だった。報告会の会場がまだアジア会館だった頃)、それ以降も現在までに彼が報告の舞台に立つ場が6回あったのだが、僕はその計7回すべてを聴きに行っている。今思うとこれは偶然ではなく必然だったのだな。そのくらいの“自称安東フリーク”の僕としては、昨日の記事のような取り組み方が世間にもっと広まればいいな、と否応なしについ応援したくなる。

最近は安東さんのほかにも、今年からなぜかマラソンランナーと化している『野宿野郎』のかとうちあき編集長や、地平線会議代表世話人である江本嘉伸氏をはじめとする地平線会議の方々など、僕がこれまでに各種媒体でのみお目にかかっていたような物凄い旅の達人たちと実際に酒席をともにしたり催しに混ぜてもらったりする機会が多い。僕のようなほとんど日本国内しか旅しないようなある種ヘタレの旅人がそんな凄い場に居合わせて同じ空気を吸っていてよいものなのだろうか? とちょっとした劣等感にさいなまれるというか“自分の小ささ”をつい感じてしまう瞬間も多々ある。なんせ、世界一周や大陸縦横断をしたり(手段はいろいろ)、標高7000~8000m以上の山を登ったり、北極圏や山岳地域に何回も通い詰めていたり、媒体ウケなんかどこ吹く風でこれまでに誰もやったことのない調査や研究に打ち込んでいたり、様々な方法によって旅にまつわる表現活動をしていたり、というようなある種ぶっ飛んだ? 行動範囲と思考は地球規模、パスポートの増補は当たり前、野宿は旅の基本、という感じの旅人が右を向いても左を向いてもそこらじゅうにいるくらいだからね(ただし、旅に傾倒するために定職に就いていない人の割合が高いけど)。
でもまあ、ここで出会ったのも何かの縁だ、と最近はできるだけそういった仲間内に混ぜてもらえるように、基本的には人見知りが激しくて人付き合いがど下手な僕であってもそれなりに努力している。まあ好きな物事でつながっていることもあって、そのなかに入るのが単純に楽しいから交わっているのだけど。

今後も安東さんを見習って、守りに入らずにもっと攻めの姿勢で地球規模のどでかい旅もやらなきゃいかんのかなあ、と記事を読んで改めて自分で自分を奮起させるのであった。でも、旅立つ前にやることが山積しているなあ。借金返済とか、ダイエットとか、多くの旅人の行動や地域のさらなる情報収集とか。まあ、ぼちぼち頑張ろうっと。

「熱気球による太平洋横断」はやはり延期  

2007-01-26 10:30:35 | 他人の旅話
25日の朝日新聞埼玉版朝刊の29面中央の囲みに「熱気球で太平洋横断 今季は断念」という記事が掲載されていたが、それを受けてこの計画のいち関係者の僕としては、ああやはりそうか、という残念無念な思いと、まあこれが妥当な判断なのかな、という安堵感が交錯した。

この記事中にある、辞退した「同乗予定のパートナー」というのはもちろん昨年の投稿でも数回触れた、植村直己冒険賞の第8回受賞者であるチャリンコ野郎の安東浩正さんなのだが、風貌に似合わず実は理系肌の安東さんがその観点からこの計画に難色を示した理由は(本ブログでもブックマークしている)地平線会議のウェブサイト内にある地平線通信の項でわかるので、この新聞記事以上の詳細を知りたい方はこちらを参照してほしい。

僕としては昨年11月からこの計画の進行の一部を手伝っていて、そのなかで安東さんのこの計画への懸念や媒体に発表する(また、本ブログで触れる)のはちょっとためらわれるような内部事情(装備面、資金面などなど)は度々、安東さんから直接聴いている。ちなみに資金面で有名なところでは、雑誌『BE-PAL』などでお馴染みのシェルパ斉藤氏がその一部を援助していたりもする。
僕がこれまでにこの熱気球「スターライト号」に実際に数回触れた実感としても、離陸する前にやるべきことはまだまだあるのではないか? 準備の時間がやや少ないのではないか? という疑念が素人目に見てもあり、当時からどちらかというとやはり期待よりは不安のほうが大きかった。23日の記者会見で発表した、機長である神田道夫さんの来年への延期という判断は妥当だと思う。「スターライト号」を膨らませた様子を実際に見たことがある方ならよくわかるはずだが、さすがに通常の熱気球の約20倍の大きさのあれをいくら熱気球の熟達者の神田さんであってもひとりで扱うのは困難であるよ。

安東さんが今後この計画に再び戻るかどうかはまだわからないが(人命にかかわる繊細な問題なので、昨夜会ったときも今後どうこうという深いことはさすがに聴けなかった)、まあいち手伝い人の僕としては搭乗者の変更や機体の補修・改修の有無にかかわらず、この計画に一度は首を突っ込んだ者として、再び人手が必要なときは今後も引き続きできるだけ協力するつもりではいる。さて、どうなるかね。

あ、そうそう、本題からは話は逸れるが、昨夜に地平線会議の報告会で安東さんに会ったときに、拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)を直接買っていただけたりした。日本を代表するホンモノの冒険野郎に弱小本である拙著を気にかけてもらえるなんて、正月の年賀状に続いて再び恐縮であった。
ただし、安東さんが後々に刊行するらしい(予定は未定の)数年前の冬季シベリア横断話の本は必ず買ってよね(しかも複数冊!)、という交換条件が付いたけど(まあ安東さんの本であれば何も言われなくてもほぼ間違いなく買うつもりだけど)。とにかく、拙著をお買い上げいただき、感謝感謝。この勢いをもらい、拙著の販促(書店営業や手売り)により力を入れていこう、と再びやる気になった。

ちなみに、拙著は僕が直接手売りする場合は割引価格で対応するので、もし興味のある方は最近僕がよく出没する地平線会議の報告会やミニコミ誌『野宿野郎』の野宿に来ていただけると幸いである。まあそれ以前に、これらの催しや熱気球の作業が面白いから、それが目的でもかまいません。



太平洋横断計画の実行が延期された今となってはもう出してもいいかな、という2006年12月16日の「スターライト号」の浮上テストのときの1枚。
11月に球皮の内側にアルミの蒸着シートを全面に貼って補強したのだが、12月2日と16日の2回のテストを経てシートのあちこちが破れてしまい、目立つところでは上の写真のように数mにわたってビリビリ破れているところもあった(写真中央の銀色がすべてつながっているべきで、黒い部分が見えているのはまずい)。11月にこの作業を担当した僕としては呆然とした。工業用ミシンを使用してシートをきっちり縫い合わせても、自然の力は人間の知恵によるそんな対策をも簡単に凌ぐくらいに強大なのだな、ということが改めてわかる。
一応、テストを終えて球皮をたたむときに破れた部分の補修はしたけど、この状態で離陸して高度1万m近くまで上昇するのはちょっと……、とその後もこの様子が気になっていた。
神田さんが今回の延期を決めた最大の理由はやはり安東さんがこの計画から降りたことなのだろうが、通常よりもとても大きな熱気球にはこのような小さな問題点がいくつもあり、山積するこれらを解消する時間が少なかったこともその原因になっていると思う。

よって、今回の延期決定には僕としては正直ホッとした。来年の再起に向けて準備する時間を作ることができたのだから、これを充分に活かして今からでも良い準備をして来年に臨みたいもんだなあ。

巨大熱気球「スターライト号」の浮上テストは成功したものの……

2006-12-17 23:59:28 | 他人の旅話
本ブログでも先月から度々触れている、「太平洋を熱気球で横断」計画だが、16日の早朝から昼間にかけて、栃木県栃木市の永野川緑地公園で実際に気球を膨らませて、約6トンの重りを持ち上げるという浮上テストが行なわれた。

実は2週間前の2日にも同様のテストが同じ時間と場所で行なわれていたのだが、その日はすでに本ブログの2日の投稿でも書いたように、僕は出がらし紋次郎さんとの約束が前々からあったため、そちらを優先した。ちなみに、その日の浮上テストは失敗に終わり、その場に居合わせた人たちの落胆の色が濃かったとか。
その2日のほうのテストは、これまでに熱気球の製作・補修に携わった人のほかにも神田道夫・安東浩正両氏の友人知人関係(地平線会議の面々ももちろん含まれる)も含めて100人以上来ていた、取材陣も多かった、ということはその日に手伝いに行っていた友人からも詳しく聴いていた。が、前回は1か月ほど前から告知していたためにそのくらいの人数が集まったが、昨日のほうは僕もテストを行なうという情報は2日前の14日に急に知ったくらいなので、手伝い人として集まったのは計30人もいないくらいで、むしろテストの様子を見物に来たり、朝の散歩ついでに気球を触りに来た地元の人のほうが多いくらいだった。

僕は早朝4時起きで埼玉県の自宅からこの公園に向かい、(JR小山駅での)電車の乗り継ぎに失敗したり、最寄り駅であるJR栃木駅からこの公園へ徒歩で行く途中に道を間違えたりしながやや遅れて8時すぎに着くと、すでに気球は大きく膨らんでいた。通常の熱気球の20倍ほどの大きさのこの熱気球は当然ながら500m以上離れた遠目から見てもよく目立ち、近くで見上げればそりゃあもう圧巻であった。1か月前にあの気球に作業で触っていたんだなあ、と実際に頭上に膨らんでいる様子を見るととても感慨深い。
で、テストのほうは、まだ暗い5時前から作業を始めていたが、9時前に球皮の上部から空気が漏れてしぼんでしまい、失敗した。が、すぐに周りの手伝い人たちが気球を安定させるためのロープを引っ張ったりして再び体勢を立て直して、ガスボンベを交換して、作業を始めてから約5時間半後の10時30分に大きな重り(砂袋)がすべて地面から浮き、テストは一応は成功となった。

この報は16日の朝日新聞と読売新聞のそれぞれ埼玉版(ともに35面)の片隅に掲載されているように、傍目には「成功」と言える(ちなみに、朝日新聞の写真に、気球を見上げる人々の一員としてそのとき赤い上着を着ていた僕もごま粒ほどの大きさで写り込んでいた)。が、現実としては球皮のてっぺんあたりのアルミ蒸着シートの一部が破れてしまって再び補修する必要があったり、特に朝日新聞の記事のほうで触れているのだが、安東さんがまだまだ問題点が多く目立つこの計画の来月から再来月にかけての本番実行に難色を示していたりもする。

先月に熱気球の製作に携わった僕を含めた若手の人たちには安東さんから直々に、鳥取大学時代は機械工学、なかでも流体力学を専攻していたバリバリ理系人の彼の観点からの個人的な印象を含めた連絡が伝わっているのだが、これによってこの計画が大幅に変更されるかも、という可能性が出てきた。物資面では着々と準備が進んでいるものの、地上数千mまで上昇したときの熱気球の耐久性はどうなんだ? という心配は素人目に見ても多分にある。これまでに「スターライト号」の補修作業を手伝ってこれにじかに触れている手伝い人たちからもこういう不安の声は実際に出ている。まあそれを払拭して自信を持って離陸するために今、着々と準備を進められているのだろうけど、手伝い人のひとりとしては正直、期待よりはどちらかというと不安のほうが大きい。このへんの細かい事情は僕が詳しく公表するのも難だから、とりあえずは神田さんと安東さんの今後の結論を待ちたい。昨日現場に居合わせた新聞やテレビの取材陣にはこのへんの細かいことは伝わっているのかなあ。
そういえば、昨日の作業には2004年の最初の横断行が失敗に終わったときの副機長であった“冒険界の王子”こと石川直樹くんも参加していたが、彼のような経験者への搭乗者変更もあり得るようだ。機長の神田さんとしては、一般的な熱気球乗りよりも高所登山や極寒地での冒険的行為を経験している世間的にはやや酔狂な? 人とともにこの計画を成し遂げたい、というか、このようなある種ぶっ飛んだ計画にそのような命懸けの覚悟のもとに取り組める、言い換えると家族や普段の仕事のような「守るべきもの」よりもそれを重視して生きている人でないと務まらない、ということでこの計画はその思惑にうってつけの石川くんや安東さんと組んでいるのだが、果たして今後はどうなるものかね。

まあ本番当日の熱気球の離陸までを手伝う(その他大勢のうちのひとりの)僕としては、とにかく膨らませる前後の気球を移動させたり支えたり、膨らませる途中に球皮やゴンドラに据え付けたロープを引っ張って安定させたりするような猫の手以上の人手がより必要な手伝いしかできないから、引き続き何か必要な、身体ひとつあればできる作業があれば今後もできるだけ参加するように努めるけどね。せっかくの面白い計画に一度首を突っ込んで、バーナー付近の球皮に寄せ書き(作業参加者の署名)もしているくらいだから、最後まできっちり見届けたい。

以下に16日のそのときの写真を加えておく。



8時21分。栃木県栃木市の永野川緑地公園で膨らんでいる「スターライト号」をやや遠目から見るとこんな感じ。周りのクルマの大きさと見比べてもらえれば、通常の熱気球の約20倍の大きさ、というのがわかりやすいだろう。モノがこんなに大きいぶんだけ準備して、膨らませて、片付けて、と支えるほうの労力(できれば男手)もより必要になってくるというもの。
僕もこのすぐあとにロープを引っ張る人員に加わり、冬なのに大汗をかいた。この翌日も上腕がやや筋肉痛になったりもした。



10時13分。操縦者のカゴの下にある肌色の大きな袋が砂が詰まった重り。新聞報道では約6tとあるが(袋が6個、つまり1個あたり1t)、その上部の巨大な球皮だけで1t近い重さがあり、しかもガスボンベも積んでいるから、総重量は7t以上になるか。数人の取材陣がしゃがんで下から上に向けてカメラを構えているが、このように撮影したほうが画的にはより映えるだろう。僕も同じ構図で撮りたかったが、今回は一応はただの見物者ではなく手伝いに来ているので、撮影はできるだけ自重して、不測の事態に備えてやや遠めから見守りながら、手伝い人としての役割を重視した。



10時31分。重りがすべて浮き上がったところ。6個の重りのうち3、4個は早くから浮くのだが、最後の1個が浮き上がるのに時間がかかった。このとき操縦していた神田さんも前回失敗しているだけにそりゃあかなり嬉しいだろう。
ちなみに、今回の重りの重量が6tというのは、本番でふたりの操縦者が超高所で熱気球を操作し滞在するためのゴンドラの重量が5.8tあるそうで、それよりもやや重いものを持ち上げていれば大丈夫だろう、とのこと。



10時46分。浮上テストが終わり、片付けの段になると当然ながら球皮内の暖まった空気を抜いてたたんでいくことになる。ホントは写真右側の河川敷のほうに球皮を倒したかったのだが、ちょっとでも風に煽られるとこのようにヘンな方向に倒れてしまい、片付けに難儀する。実はこの土手の左側に有刺鉄線があり、それに引っ掛けて穴を開けないようにするために、僕もこれを撮ってからすぐに駆け付けて土手で球皮を抑える側に入った。
道行く公園利用者に迷惑にならないように努めたが、やはりふつうの熱気球よりも巨大なのでなかなか思ったとおりに片付けることができず、苦労した。30分ほどはこの状態のまま、扇風機で冷たい空気を送りながら徐々に内部の空気を抜いていった。



12時11分。球皮を大勢でたたんでいくと、最終的にはこのようにトラックの荷台にクレーンで吊り上げてなんとか積めるくらいの大きさには収まる。このカタチを見てのとおり、関係者はこのたたんだ状態を「イモ虫」と呼んでいる。
ちなみに、この公園のすぐ南側に栃木工業高校があるのだが、これを校舎内の空き倉庫に一時的に置かせてもらっている。公園の使用も栃木市の許可を得ているし、公的にも私的にも多くの人たちにお世話になっている壮大な計画なのよね。

実は、今春、「リヤカーマン」にお会いしている

2006-11-24 11:00:21 | 他人の旅話

昨夜、東京キー局で言うところのテレビ東京系列で放送された特別番組「アマゾン発! 地球一周40000キロに挑む リヤカーマンのでっかい地球! 大冒険」の旅人で、今年の第10回植村直己冒険賞を受賞した永瀬忠志氏に、実は今春にお会いしている。

その場所は、毎度お馴染み? の地平線会議の2006年3月の報告会で、番組にあったアマゾンにはまだ行っていないこのときは、永瀬さんが1975年に現在の歩き旅と同様のリヤカースタイルを確立した初期の頃に日本縦断したことがあるのだが、昨年つまり2005年に、初めて歩いた30年前と最近はどんな変化があるのだろうか? ということから、この節目の年に30年前に辿ったコースと同じところを再び縦断し、風景の変化に感慨にふけったり、クルマの多さによって幹線道路やトンネルの通過が困難になったり、その当時通りかかったときに出会ってお世話になった方やそのお子さんたちと再会したり、みんながリヤカーを引いて旅している(当時としては物珍しい)永瀬さんのことを憶えていてくれて思い出話に花を咲かせた、というような「再訪」の旅の報告だった。まあその詳細はここでは当日に聴きに来た方のみの秘密ということで、ここでは割愛する。簡単に言うと、僕がこれまでに地平線会議の報告会で聴いた旅の話のなかでベスト3に入るくらいの良い旅の報告会であった。一度巡ったことのある場所を再訪する旅もまた良いものだ、と改めて思った。

で、僕はこれまでは永瀬さんに対しては「サハラてくてく記」「アジアてくてく記」(ともに山と溪谷社刊)のような本や紙媒体での印象しかなかったのだが、3月に実際にお会いしてみると、物凄く謙虚で、誠実で、「自称冒険家」によくある驕りというか尖った部分がなく、簡単に言うと「内なる闘志を秘めている」という感じの方だな、と印象をさらに良い方向に更新できた。やはりそれは数々の難しいリヤカー旅をひとりで切り抜けてきた過程でそのように形成されて達観もしたのかな、とも思う。

そんな永瀬さんのごく個人的な旅をテレビカメラが密着するというのはどんなものなのか? とリヤカー利用の旅の実情が人一倍、いや人三倍くらい気になる人力移動派の僕としても、今回の、2003年の南米縦断のときに残した「傷」を埋めるための900kmの旅も当然、気になる。特に、人力移動をこよなく愛し、全行程をとにかく自力で全うしたい! と思う旅人というのはこういう細かい部分に並々ならぬこだわりがあることは、自転車旅の本を出版しながらも元々は徒歩による旅から入っている僕としてもよくわかる。先の投稿でも触れた「チャリンコ野郎」の安東浩正氏も、数年前の冬季チベットやシベリアの自転車横断旅では「1mmのズルもなく自転車での踏破を完遂する」ことに強いこだわりを持って取り組んでいたが、世の中には僕らのようなあくまで人力で進むことに並々ならぬ強いこだわりを持つ人種も少ないながらもいるのだ。
おそらくこれは、旅のなかで鉄道やクルマなどの動力に安易に頼りきった人や、主要観光地ばかりをとにかく巡りまくっているような人には、手段は選ばずにそんな「点(観光地)をいくつも付ける」ことよりも、人力で「とにかく線を延ばしていく、任意の点と点を線でつないでいく」永瀬さんのような一歩一歩ゆっくりとだが着実に進んでゆく旅の細かい感覚は理解されにくいことかもしれない。今回の放送で、旅においてのそのへんの細かい、けれども決定的に異なる「点」と「線」の旅の違いがより多くの視聴者におわかりいただけたかな、と、永瀬さんと似たような趣味嗜好を持つ“後輩”の僕としては勝手に鼻を高くしている。

そんなわけでよく考えると、今年は永瀬忠志、関野吉晴、安東浩正、神田道夫と、これまでの植村直己冒険賞受賞者10名のうち4名とお会いしている、という当たり年になった。
みなさんにお会いして思ったのは、ひと昔前の、風体で言うところの植村直己や河野兵市のような少々野暮ったい外見で「いかにも山や極地に向かっています!」という感じではなく、「えっ、この人がこんな凄いことをやっているの?」という、パッと見だけでは冒険的な行為に傾倒しているかどうかはわからない、おおむねスマートで物腰も柔らかい感じの方々が「内なる闘志」のようなものを秘めて荒野に向かっていたりする、ということ。
これは最近の「冒険家」という冠を付けたり周囲から付けられているやや若めの世代では、(先日、テレビ『報道ステーション』の10日金曜日のゲストコメンテーターとしても出演していた)九里徳泰、山の清掃活動でお馴染みの野口健、文化人類学的な視点から表現活動を続ける石川直樹のような人々を見るとより顕著で、直感に任せることよりもどちらかと言うと理詰めで旅する感じが現代的と言えばまあ現代的なのかもしれない。彼ら以外にも最近の若手の旅人を見ると、おおむねシュッとした感じの、人跡未踏の荒野だけでなくふつうに賑わった街にもすぐに溶け込めるような大きな振れ幅を持つ人がホントに多くなってきた。翻って、僕はどうだろう? と考えると、都会と野外での自分の立ち位置や発想の切り替えは相変わらずヘタクソだし、どこかしらに出かける格好を客観的に見てみても野暮ったい地味~なものばかりだよな、と反省することしきりである。

ちなみに上の写真は、冒頭の永瀬さんの報告会のときにもらった、永瀬さん直筆の、自身のこれまでの旅の実績を年譜と地図に表した資料。また、会のあとに僕が持参した永瀬さんの本にサインもいただいたのだが、名前のほかにも「一歩ずつ 一歩ずつ」という言葉と、自身のリヤカーを引いたイラストも併せて3分間ほどかけて丁寧に書いていただき、誠に恐縮であった。この人を嫌いになる要素はまったく見当たらない。こういう人たちが日本にいることを僕たちはもっと幸せに思わなければならないよな、と予約録画しておいた昨夜のアマゾン旅の番組を観ながら、3月に永瀬さんと対面したときのことをしんみりと振り返った。

朝日新聞11月19日付朝刊埼玉版35面の記事「熱気球で太平洋横断」のいち関係者    

2006-11-20 01:00:49 | 他人の旅話
朝日新聞11月19日付埼玉版35面の右上に、「熱気球で太平洋横断に再挑戦」という記事があり、この壮大な計画に挑む(過去に植村直己冒険賞を受賞したことのある)神田道夫、安東浩正の両氏と、その計画に使用する気球の18日の補修作業の様子が取り上げられているが、実は僕もこの計画および作業にほんの少しだがかかわっていたりする。
今回の計画の概要や神田・安東両氏の実績、それに今回の熱気球の名前が「スターライト号」であることの経緯などの詳細は安東さんのウェブサイト内にPDFの計画書があるので、それも要参照。で、最近のこの熱気球作業に参加した印象について少々触れておく。

新聞記事のとおり、熱気球の補修作業自体は今月始めから行なわれていて、毎日入れ替わり立ち替わりで様々な手伝い人(ボランティアとも言うか)たちの手によって製作が進められた。
手伝い人を見ると、神田さんの熱気球仲間、安東さんの自転車つながりの人、それに僕のように地平線会議の報告会によく出入りしている人が多い。朝日新聞のこの記事を書いた、本ブログでも2006年10月29日の投稿で触れた角幡唯介記者も、2004年に神田さんがこの試みに最初に挑んだときに副機長として参加した(最近は文筆・写真撮影による表現活動に忙しい)石川直樹くんも地平線会議つながりであるし。
なかでも今回の作業で主力になったのが、「グレートジャーニー」でお馴染みの、これまた植村直己冒険賞受賞者の探検家・関野吉晴氏が現在勤めている武蔵野美術大学の彼のゼミ生たちであった。肝心の“関野先生”は「新グレートジャーニー」の旅で最近は外出中で、その間はゼミ生たちは休講になるとかで、その間にちょくちょく手伝いに来ていて、作業への貢献度は若い彼ら彼女らが最も高い。で、僕も18日と上旬に1日の計2日間、作業時間にすると約10時間携わっている。

そもそも僕が今回なぜこの作業に参加したかというと、埼玉県出身の冒険野郎の先輩である神田さんも、冒険的で挑戦的な旅を継続するチャリンコ野郎の安東さんも前々から注目していて、前回の2004年のときに、結局はこんな面白い試みに何もかかわることができなかったことをやや悔やんでいた。しかも今回の作業場が埼玉県吉川市内で近場ということもあり、いち埼玉県民および自転車乗りとしては聞き捨てならん! ということで作業に参加した。それに、今回の「スターライト号」はふつうの気球の20倍の容積ということで、そのぶん作業にも人手、特に体力のある男手が要るだろうから、ということもあった(暇人ならなお結構?)。

実際の作業は、熱気球の保温のためのアルミ蒸着の生地の加工や、その生地同士をつなげるためのミシンかけの補助のような、ホントに地味~で根気も力も要る作業であった。こういう作業は喋りながら適度に力を抜いてやるほうが良いのはわかっているが、地味な作業に一度はまると作業に没頭して無口に拍車がかかってしまう性格のやや堅物の僕としては、もう少し柔らかめの発想で作業に従事すれば良かったかな、とやや反省。でもまあそれだけ力を入れたぶん、地上に生きる動物なら大概は持ち合わせているはずの、未知の空間である「空」への憧れと、太平洋横断成功へ想いはしっかり込めておいたけどね。

作業後の簡単な感想としては、世界的な試みに参加していると言うよりは、ホントに派手さはないひと昔ふた昔前の家内制手工業という感じだったが、それでもこの生地たちが空に上がる場面を想像すると面白い。それに、神田さんとも安東さんとも作業をともにした、ふたりとも計画書内の経歴のような凄いことの数々をホントにやってきた人たちなのだろうか? 特に神田さんは公務員をやりながら世界レベルの冒険的熱気球行を継続しているし、とつい疑ってしまうくらいに気の良いお父ちゃんとお兄ちゃんという感じで、どう見てもこれから命懸けの冒険的行為に向かおうとする物凄い人たちには見えないよな、というこれまでの媒体を通してのふたりへの先入観と当人たちの(やや適当というかおおらかな部分も併せ持つ)素の姿との差異を感じたりもできて、おふたりのことを勝手に「心の師匠」と位置づけていて大ファンの僕としては、地味な作業のなかでも結構楽しめる要素が多かった。

12月2日にこの作業した熱気球の浮上テストが栃木県栃木市の河川敷であり、テストはそれ1回だけで、あとは2007年1月から2月のあいだの、ジェット気流の流れが良いときを見計らって離陸するだけで、ほぼぶっつけ本番で行ってしまうのだそうだ。

今月2回の作業参加でそれなりに手垢や指紋を付けまくり、それに汗もいくらか垂らしたりもし、作業終了後に気球の生地の一部に寄せ書きもした僕としても、このでっかい計画はもはや他人事ではなくなってきた。12月の浮上テストは観に行けそうにないが、来年の本番の出発風景は、仮にそのときに休日が取りにくい勤め人になっていたとしても、強引に欠勤してでも観に行こうと思っている。



大型熱気球「スターライト号」の球皮の一部。僕ら手伝い人は、球皮の部品同士を接続する前に、左の元の球皮生地に右の今回特別に用意した銀色のアルミ蒸着の生地を縫い合わせるために、これを裁断したり、ミシンで縫い合わせるための水色の補強テープを生地の端のほうに貼る作業を主に担当した。人手とミシンが命、という感じの作業が連日続いた。よく考えると、実際に熱気球を操縦する神田・安東両氏の命が懸かっているのだから、手伝うほうもあまり中途半端な意識でかかわることは許されないかな? と思って僕は結構真剣に作業に従事した。

10月26日付朝日新聞夕刊社会面の「サバイバル登山」は一般にどう受け止められるのか       

2006-10-29 13:36:45 | 他人の旅話
先週のことだが、朝日新聞の2006年10月26日付夕刊14面に、本ブログでもすでに取り上げている本『サバイバル登山家』(みすず書房刊)の著者である服部文祥氏とその登山の一例が写真付きで紹介されていた。これを読んで、登山にあまり興味のない一般読者はどう思うのだろう? というのが気になる。

普段から彼が編集に携わっている山岳雑誌『岳人』の愛読者である僕としては、今回のこの記事についても特に違和感なく面白く読めるし、最近の登山でよく使われるヘッドランプ・ライトやGPSや携帯電話のような近代的な道具をあえて排除しながら山に向かうことの難しさも心得ているつもりだが、改めて読むと山のことをいくらか知っている“山屋”な人でもおそらく舌を巻く登山であろう。
見方によっては“常識外れ”と酷評されかねない彼がこの本で挙げる登り方については、僕も「これが理想の登り方だよな」と思っていて(装備も衣服もできるだけ減らして、より素っ裸に近い状態で分け入る。高所登山も同様)、何かと便利さが加速する今後はこれにより近い登り方、自然への分け入り方を目指すべきだが、実際に行動に移すとなるとホントに難しい。僕も以前にちょっとした日帰りの山歩きを腕時計(カシオ・プロトレック)なしでやったことは数回あったが、それだけでも時計があるとき以上に軽い不安感を覚えることがあった。僕も含めて、やはり現代人は街なかにある便利さや効率の良さに浸りきっていて、その影響で相当なまっているよな、と痛感する。

今月上旬に(拙著『沖縄人力紀行』もお世話になっている)東京都のジュンク堂書店池袋本店で服部氏のトークイベントが開催されたが(僕はその日は北海道にいたので行けなかった)、それに合わせて『サバイバル登山家』が紹介された新聞・雑誌記事のコピーが掲示されていた。今回の朝日新聞の記事によるとこれまでにこの本は30ほどの媒体で紹介され、5回重版したそうだが、たしかにそのくらい注目されるにふさわしい内容である。この本は面白いのはわかっているのだが、熟読するのはやはり来年になりそう。

また、26日のこの記事で僕個人的にもうひとつの目を引いたのは、これを書いているのが角幡唯介記者だということだ。
知っている人は知っていることだが、僕と同年代の角幡くん(とあえて書く)は冒険・探検業界ではかなりの老舗の早稲田大学探検部出身で、中国やニューギニアへの探検で名を馳せたことでも知られ、特に朝日新聞入社直前の2002~2003年にかけては中国・チベット東部からバングラデシュに流れる大河ヤル・ツアンポーの峡谷(大屈曲部)の未踏査部を単独で探検した、という出色の記録も持っている凄い人物である。この探検行の模様を2003年3月に地平線会議で報告しているのだが、僕はこれも聴きに行っている。そもそも、彼がこの探検の前段階で行った沢登りの初単独行が結構大きな滝もある鹿児島県・屋久島の沢というのが凄い。
また、登山や探検に関する発言も服部氏同様にやや激しさがあり、なかなかの論客でもある。

それから、角幡くんが富山支局赴任時代に、黒部川の上流域にあるダムの排砂とそれによって富山湾の漁業へ悪影響が及んでいる問題を丁寧に取材して書いた記事をまとめた本『川の吐息、海のため息 ―ルポ黒部川ダム排砂』(桂書房刊)が今年5月に発売されたのだが(偶然にも発売は『サバイバル登山家』とほぼ同時期)、実は僕はちょうど今この本を読んでいる最中であったりする。やはり新聞掲載が元なので、『岳人』や山岳系冊子『きりぎりす』などに寄稿していた頃や以前あった彼のウェブサイト内の文章よりは一般向けになっていて柔らかくなっているが、社会への問題意識の高さや自身の探検体験を踏まえた自然に対する畏敬の念のようなものはひしひし感じられ、僕もこの本を読んでいて共感できる部分が多い。
今年、富山県から埼玉県内の支局に異動してきた今後も、それを感じられる記事を楽しみにしている、期待の新聞記者のひとりである。

この服部文祥・角幡唯介の両氏は、今後の媒体において登山や冒険・探検や自然環境絡みの記事に関心を寄せる場合、ぜひとも覚えておくべき名前だと思う。彼らの書くものをチェックしていれば、間違いはないはず。それにしても、全国紙の社会面で地平線会議関係の(若手の?)人名がいっぺんにふたりも出たのは驚いた。

沖縄「旅行」関連写真・食事編

2006-09-21 11:11:11 | 他人の旅話
先日の沖縄「旅行」で食べたもの、特にやや珍しいものついてもいくつか触れておく。



2006年9月10日、恩納村「元祖海ぶどう恩納店」にて、豚肉丼。この店の名物は海藻である海ぶどうとウニを白飯の丼に乗せた「海ぶどう丼」(たしか1200円だったような)なのだが、これは僕は昨年試しているので、今回はあえて別のメニューを試すことにし、これを注文した。まあ沖縄県ではごくふつうの豚肉入りの丼なのだが、やや小さめの沖縄そばとレモンティーが付いて680円! という安さには驚いた。



2006年9月11日、那覇市国際通り「あかさたな」にて、やぎ汁1200円。北海道のジンギスカン(羊)料理と同様にややクセのある味。以前何かのテレビ番組で、いかにも頑強なウチナーンチュという印象があるゴリ(ガレッジセール)でさえ苦手にしていると言っていたから、沖縄県といえどもあまり一般的な料理ではないのかもしれない。
これは前々から試してみたく思い、今回やっと念願が叶った。思ったよりは強烈ではなく、僕はふつうに食べることができた。羊料理に慣れている道産子もふつうに食べられるのではないかと思う。



2006年9月12日、豊見城市「Jef豊見城店」にて、ゴーヤーリング(253円?)。輪切りしたゴーヤーに衣を付けて揚げたもの。苦味は飛んでいて比較的食べやすくなっている。ただ、揚げ物なのでゴーヤー本来のシャキシャキッとした食感は揚げ茄子のように失われてしまっていて、しなしなになっている。それを求めるのであればほかの料理店でふつうにゴーヤーチャンプルーを食べたほうが無難。
沖縄産のファーストフード店であるJefはこのほかにも、ゴーヤーの玉子とじを挟んだハンバーガーである「ゴーヤーバーガー」や、さらにそれに加えてポークランチョンミートも挟んだ「ぬーやるバーガー」のほうが有名か(「ぬーやる」は沖縄の「なんじゃそりゃ!」という驚きの表現)。ちなみにこの支店に訪れたのは3回目で、もちろんそれらのバーガー類もすでに試している。なかなか面白いよ。



2006年9月12日、糸満市・ひめゆりの塔近くの売店にて、ドラゴンフルーツのカット2パック。ホントは1パック300円だったのだが、売れ残り? の最後の残り2パックを掴んだので、それぞれ100円ずつ値引きしてくれた。この果実は前々から気にはなっていたが、試したのは今回が初めて。2色あり、実の外皮の色も微妙に異なっている。僕個人的には、梨や桃に近い味と食感のような気がする。



2006年9月12日、那覇市「富士家泊本店」にて、もずくの天ぷら380円。あの水分と粘り気のあるもずくを揚げる、という発想に驚き、つい注文してしまった。これを揚げている最中は水分の影響で油跳ねが凄いと思うのだが、どうなんだろう?
この店はぜんざい(小豆と白玉入りの沖縄風かき氷)とオリジナルのタコライス(タコス風ではなく、茄子を使ったしょうゆ味)が有名で、最近では国仲涼子が高校生のときにアルバイトしていた店としても有名だが、こんな酒のつまみもあるのね、と僕は2回目の訪問だったが新たな発見があった。しかも食事はどれも量が多く、お品書きの文言も面白い。今後も変わらずに在り続けてほしい店である。

沖縄「旅行」関連写真・訪問編

2006-09-21 10:30:38 | 他人の旅話
先週「旅行」してきた沖縄本島の写真を、今回で沖縄入りは5回目の僕としても特に珍しかった事象について写真付きでいくつか記しておく。ちなみに、場所のあとのカッコ書きは僕がこれまでにそこを訪れた回数。


2006年9月10日、読谷補助飛行場跡(2年連続2回目)。
以前は米軍に搾取されていた場所。現在は返還されてこのような広々とした道路になっている。前回は2005年7月に路線バス+徒歩で訪れているのだが、ここをクルマで走るとどうなんだろう? やはり気持ち良いのだろうか? と昨年から気になっていて、今回、運転している友人をここに導いたら案の定気に入って、頼んでもいないのに1往復していた。左奥の赤い屋根の建物は読谷村役場。



2006年9月10日、真栄田岬(初)。
拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)にある4年前の旅のときは雨が降っていてここには立ち寄らなかったのだが、このときは思いっきり晴れていたので行ってみた。
たしかに海の青さが目立ち、そんなに深くもないので、スキューバダイビングやシュノーケリングを主催する旅行会社? の団体がわんさかいたのだが、ここに至るやや狭い農道はクルマがすれ違うのも困難で、そのためかなり渋滞していた。対向車同士で一触即発、とまではいかなかったが、誰かが交通整理しないとまずいこの状況はほぼ毎日繰り広げられているようだ。僕らのクルマも駐車場からタイミングを見計らって写真の左側方向の農道に脱出するのに20分かかった。



2006年9月10日、塩川(初)。
名護市街の北西、ちょうど国営沖縄記念公園に行く国道の途中に、塩分を含んだ湧水が見られる場所がある。塩水が湧き出るというのは非常に珍しいらしく、湧出機構も未確定で、こことプエルトリコでしか見られないとか。立ち寄る人は少なくてかなり地味だが一応、国指定天然記念物。
ここの存在は昨年知り、湧水巡りが趣味の僕としては今回どうしても行きたかった。今回の「旅行」は友人が行きたい場所ばかりを巡ったが、ここは僕が唯一希望を出した。で、実際に湧水を口に含んでみると、たしかに塩水なのだが思ったよりは塩分は濃くなく、塩分濃度は5%もないと思う。汽水域の川の水よりも薄かった。
ガイドブックなどでもあまり取り上げられておらず、藤本調べでは『るるぶ情報版'06』にしか掲載されていなかった。また、最近のほかの媒体で目立ったところでは、雑誌『BE-PAL』06年7月号の国井律子の連載「国井律子のタビオンナの作り方・第3回」で、塩川を観に行った話が紹介されていた。彼女の兄がやはり湧水好きらしく、おそらく僕とかなり話が合う、と思う。



2006年9月11日、国営沖縄記念公園内にある、ウミガメのプール(2年連続3回目)。子ガメ。
この公園を訪れる人の大半の目的はやはり一番人気の美(ちゅ)ら海水族館で、駐車場とそこの往復しかしないのは非常にもったいないと思う。それ以外にも、水族館から徒歩2分ほどのところにイルカショーを行なう「オキちゃん劇場」やマナティー館、それに数種類のウミガメも見られるここもあり、見所は多い。この小ガメの様子をもきっちり見ておいてほしいなあ。
それにしてもこの公園はホントに丸一日楽しめる。もう少し園内で昼食を摂れる場所や飲食店を充実させて、訪問者を長時間つなぎ止める努力もしたほうがいいんでないかい? と前々から思っているのだが、国営の施設だと手続きやら何やらで実現が難しいのかね。



2006年9月11日、国頭村と東村境(4年ぶり2回目)。
友人の希望で、やんばる(山原)の東海岸の県道も走った。レンタカーでこのへんを訪れる人は珍しいと思う。以前、那覇でウチナーンチュの人に僕が「やんばるの東海岸にも行ったことがある」と言ったら珍しがられたくらいだから。しかもそのときの移動手段が自転車であればなおのこと。
東村というと、パイナップルの栽培とゴルフの宮里3兄妹の出身地として有名だが(ここの3人きょうだいの表記は難しいな。藍からの見方では兄、兄、妹だから「兄妹」で良いと思うのだが)、米軍基地の一部である北部訓練場があることも忘れてはならない。それは拙著にも書いた。
僕は東海岸の県道を通るのは4年ぶりだったが、前回と違うのは、ヤンバルクイナが描かれた黄色いひし形の注意標識が増えたことと、大半の箇所で中央線と路側帯の白線がきっちり引かれていて、道路整備が進んだこと。やはりこのへんでは最近もヤンバルクイナが民家や道路まで下りてくることはよくあるのだろうか。



2006年9月11日、名護市東海岸の大浦湾(4年ぶり2回目)。
宜野湾市の普天間飛行場から写真奥の辺野古崎への米軍基地の移転が日米政府間で今年合意されてしまったが、このへんは自転車で巡っていてもホントに穏やかな良い場所なので、様々な面から今後騒々しくなると思うと、せつなくなる。
このあと、辺野古の漁港そばの、キャンプ・シュワブの敷地との境界にある有刺鉄線にも再訪した(拙著の裏表紙で言うところの、右下の写真の場所)。鉄線を見ると、全国各地から訪れた人による基地移転反対の文言を書いてくくりつけた布は昨夏よりもかなり増えていた。



2006年9月12日、垣花樋川(かきのはなひーじゃー。4年ぶり2回目)。
旧環境庁が全国の名水のなかから選定した「名水百選」のひとつ。ここの湧水量は山地というか水を蓄える森林が比較的少ない沖縄県にしては結構多い。水温はそんなに低くはないが、その流水の勢いだけでたしかに文化財級の名所と言える。
ここを訪れる人はあまり多くなく、当然ながら本土の山間部の湧水に、それを汲むためのポリタンクを何個も携えながら訪れるような人は前回も今回もおらず(ここはクルマでは入れない傾斜地にある)、このときも若いカップルがこの流水の下のちょっとした池で足のみの水浴びをしていた程度だった。



2006年9月12日、ひめゆりの塔(2年連続2回目)のそばにある売店のシーサー。
ひめゆりの塔というと本来、厳かな雰囲気であるべき場所なのだが、その入口付近や駐車場のそばにはいかにも観光客目当ての那覇・国際通りと同様の雰囲気の売店がいくつか並んでいて、ひめゆり平和祈念資料館で気を引き締めてから帰ろうとしても、帰り際にこれらの売店を見てしまうと、厳かな気持ちがぶち壊しである。
写真のシーサーもある売店の前にあるジュースの自動販売機の上にあったのだが、サングラスをかけるというこういう間抜けな格好も、たしかにパッと見は面白いし、那覇や北谷でやるのであればまだよいのだが、よりによってひめゆりの塔の前でやるのはいかがなものか? と少し腹立たしくなったというか残念に思った。場所の選択を間違っているような気がする。



2006年9月12日、今回の「旅行」の足として2日間世話になった、日産・ブルーバードシルフィーのレンタカー。
今回の「旅行」で2日間世話になった。だが当初は、ホンダ・フィット、日産・キューブ、トヨタ・bBあたりを希望していたのだが(運転する友人は車体がそんなに大きくなければなんでもよかったらしいので、どうせなら僕がヒッチハイクなどで乗ったことがない車種を、と思った)、レンタカー会社への予約時にこれしか残っていない、と言われ、結局これに乗ることになった。まあ結果的にはやや小さめのそれらよりも一段上のクラスにはならずに同じ値段で乗れたので、また良かったけど。
ちなみに、返却時のガソリンの満タン返しでは、この会社の近くにあるセルフ式のガソリンスタンドを利用したのだが、ガソリンの価格は全国的に9月1日に値上げしたにもかかわらずリッター128円という良心的な値段であった。本土ではこのときは有人式よりも安いセルフ式のところでも138~140円はしたので、それに比べると安くて助かった。なんでかね。



2006年9月9日、那覇市内に2005年に開業したいわゆる“ゲストハウス”のひとつ、「CamCam沖縄」(初)の寝床。
安宿の情報誌の広告では見栄え良く紹介されているが、実際は蚕棚のような造りで、これが那覇周辺のゲストハウスの典型的な様子。これまでにも「南風」や「ステラリゾート」あたりにも泊まったことはあるが、それらに比べて劣っているのは、宿泊者がくつろげる大広間とこの寝室(男女兼用)の仕切りというかドアがなく(女性専用のほうはドアがある)、会話やテレビの音が丸聞こえでうるさいこと。今回ここで2泊したのだが、深夜1時か2時までガハハハッ、というような笑い声なんかが耳栓をしていても聞こえたので、安眠できなかった。そのときは移動で疲れて苦情を言う気にはならなかったが、宿泊者のマナーも含めてこの点をきちんと改善しないと、この宿の未来はないと思うよ。という苦言を呈しておく。
旅に関する問題で最近度々聞かれるようになった「外こもり」に該当する人たちが、地元ではおとなしいけれどもこういう場所に来ると開放的な気分になって調子に乗る、という傾向もあるのかもしれない。

沖縄本島をちょこっと「旅行」してきた 

2006-09-13 23:00:38 | 他人の旅話
2006年9月11日の午前、沖縄本島の「旅行」の途上に立ち寄った本部町の国営沖縄記念公園内にある「美(ちゅ)ら海水族館」の目玉、巨大水槽「黒潮の海」(2年連続2回目)。今回同行した初沖縄の友人もここを訪れることを最も楽しみにしていた。そのため、見物は2時間に抑えるつもりだったが、結局は3時間以上要してしまった。たしかにここはブ男(僕のこと)のひとり旅であっても丸一日楽しめる内容である。平日にもかかわらず、朝っぱらから観光客が多かった。


本ブログの更新がしばらく滞ったが、実は先週末から今日まで、沖縄県に行っていた。2月中旬の(国外の)香港旅を除いては、国内では今年一番の遠出となった。

ただ、今回は拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)にもあるような、人力の移動手段にこだわりながらひとりで行き当たりばったりの展開を楽しみながら行く「旅」ではなく、今回が初沖縄の友人とふたりで行き、県内の要所を(沖縄入りは今回で5回目の)僕が案内する、という体で、移動手段は運転免許を所有しているその友人が運転するレンタカー、つまり動力利用で、しかも行き先も基本的には友人の希望どおりに決め打ちしたうえで行く「旅行」という感じであった。
そのため、僕としては過去4回の沖縄旅ですでに訪れている場所を巡ることが多くなり、そこをひたすら案内する添乗員役として、また(運転免許は所有していないために)終始レンタカーの助手席の人となり、ナビゲーター役として滞在中はそんな状態で約450km移動した。運転者が行程すべてを運転するのは当然疲れるのだろうが、ずっと助手席に座っているというのもそれに劣らず結構疲れると思うのだが、どうだろう?

拙著の本文中では、後者のような手段を選ばずに結果をとにかく追求する「旅行」をそこかしこで批判しているのだが、拙著はあくまで過程を楽しみながら省力化にこだわっている「旅」をする者の観点からしか描けていないので、その対極にある「旅行」の実情も旅好きの僕としては当然気になっていた。だから今回、実際に「旅行」して「旅」とは異なる面を体験し、いろいろと勉強になった。
とはいえ、良い景色にこだわって次の目的地や辿る道路をコロコロ変更したり、その日に泊まる宿は宿に入る数時間前に決めたりなど、クルマの移動であってもある程度は不確定要素の多い「旅」の様相を呈してはいたが。今回はそんな適当な感じの旅程でも楽しめる友人で良かった。これがもし、移動のレンタカーは外国産車でなきゃ窮屈だ、とか、宿泊はザ・ブセナテラスやカヌチャべイ・リゾートやホテル日航アリビラのようなリゾート地でないと嫌だ(これらの固有名詞がわからない方は沖縄関係の旅行パンフレットやガイドブックを参照のこと)、とか贅沢し放題で駄々をこねまくる人だと話にならないからね。僕ともし旅をともにする場合は、野宿や、寂れた公園の水道水やトイレ、スーパーの閉店間際の安売り惣菜なんかでも最悪の場合は大丈夫、という感じでないと、ちょっと困る。
まあ僕が旅を演出する場合は、当たり前にそんな成り行き任せで節約派の「旅」になるので、もし本ブログを読まれている方で今後何かの機会に僕と旅をともにする場合は、ご注意を。

今回の「旅行」もそれなりに楽しかったのだが、今回のような旅程を経ても僕としてはやはり「旅行」には物足りなさを終始感じていて、クルマではガソリンを、宿では電気や水を普段以上に浪費したのは心苦しいという思いは常にあった。
それに日中は車内では冷房の効いたレンタカーで移動中にも、国道58号や331号を気温32度以上の炎天下のなかで大汗をかきながら自転車で旅する人も毎日数人見かけたのだが、僕もいつもの旅ではそちらの人力側の人間なので、彼らに対して(今回は5日間という短期間であるけれども)動力を多用しているという後ろめたさというか恥ずかしさも感じた。
クルマの助手席の感触と時速40km超の移動速度に違和感を覚えながらそういう心境になったということは、僕はやはり人力移動の「旅」が性に合っていて、根っからの“人力派”の人間なのだな、ということを改めて確認した。そういう意味では有意義な旅程であった。
同行した友人が、真栄田岬や辺戸岬からの海の青さに感激したり、美(ちゅ)ら海水族館の目玉である「黒潮の海」に見とれていたり、本土では珍しい数々の沖縄料理に驚いていたりしている最中にも(特に海ぶどうに食いついていた)、僕もそれらを堪能しながらも頭の片隅では人力か動力か、ということを考えていた。
でも、僕としても拙著にある自転車旅以来4年ぶりに再訪できて嬉しかった場所もあり、それを今回レンタカーを利用したからこそ再訪が実現できた点については良かったことだと思っているし、そんな他力の移動ではあったが事前の予想以上に楽しめた。
ちなみに、今回のひとりあたりの出費は航空券代やレンタカー代を合わせて5日間で約6万5000円となった。毎日、素泊まり1泊1500~3200円の比較的安価な宿やいわゆる“ゲストハウス”を利用していたのでもう少し安く上がるかと思ったが、食事で結構出費したので、まあ妥当な出費額かと思う。

まあ今回のような動力利用の「旅行」もたまに息抜きでやるぶんにはいいかな、と思った。でも僕の旅の本分はやはり人力による「旅」で、8月中旬に東京新聞の取材を受けたときにも、記者の方にきちんと言ってそれが記事にもなったように、今後もクルマの運転免許を取得するつもりはない。拙著の後半に書いたように、人力派の僕のこんな言動や行動を周りから“きれいごと”と言われようが、僕はこの先も人力移動にこだわり続けることにする。あまりに動力や現代的な便利さに頼りすぎると、近年沖縄県の男性の平均寿命が低下しているように老化がより進みそうな気がする、と今回、主に助手席の人になりながら改めて危機感を覚えもした。

それから、今回ひとつ心残りだったのは、時間に余裕があれば那覇市周辺の書店に拙著の営業に行こうと思っていたのだが、移動や観光に目一杯時間を取ってしまい、クルマで暗くなるまで移動しまくって飲食店でガツガツ食べて宿に着いたらバタンキュー、という感じで、単独行動をする時間がまったくなかったこと。
一応、版元に作ってもらった拙著の宣伝用のチラシや注文票も用意していたのだが、滞在中は一度も使う機会がなかった。沖縄県内での拙著や人力の旅の認知度がどのくらいあるのかを肌で知りたかったなあ。
こうなると近いうちに、全日空の超割や日本航空のバーゲンフェアを利用して早めに沖縄県に再訪したい気分になってくる。それに、比較的安価な運賃で運航することが全国的にそろそろ認知されてきているスカイマークエアラインズも10月から、羽田-那覇間の定期便に1日2往復で参入するし、関東地方の人は沖縄県により行きやすくなりつつある。再訪するかしないかは僕のやる気次第か。帰宅して早々、彼の地においての拙著の営業活動をどうしようかな、年内に再訪しようかな、ということを真剣に考えている。


なお、今回の沖縄「旅行」関連の投稿は、僕が主導の「旅」ではなく、基本的に友人の行きたいところを尊重して巡ったため、本ブログのカテゴリーも「自分の旅話」ではなく「他人の旅話」のほうに分類することにした。

久々の『新グレートジャーニー』は 

2006-08-12 23:59:37 | 他人の旅話
2005年9月26日の午後、北海道にある(北方領土を除くと)日本最北端・宗谷岬に7年ぶりに行ってみた(写真奥)。この日は終日好天だったので、サハリンも肉眼でしっかり確認できた。関野吉晴氏はこの1か月半前に宗谷海峡をシーカヤックで縦断し、写真手前の稚内港に到着したのよね。


先程までフジテレビで放映していた『新グレートジャーニー 日本人の来た道』を観て、再び旅心を刺激された。

2002年にグレートジャーニーの南米~アフリカの旅が終結してから4年が経ったが、今回も番組の雰囲気は以前と変わらない感じで今回も良かった。益岡徹のナレーションも1994年の番組開始当初から好き。
今回の「北方ルート」の旅については、今年4月に地平線会議の報告会でこの主役である関野吉晴氏の報告を直接聴いているので今日の放映内容の大筋は知っていたが、改めて映像を見ると、関野氏の考案した日本への3ルートのなかでも短い行程ではあったが、技術的精神的にはおそらく最も難しい行程ではなかったか、と改めて思った。
人力移動好きの僕としては、やはりどうしても間宮海峡の徒歩による冬季横断や宗谷海峡のカヤックによる縦断に注目してしまうのだが、そんな「縦糸」とともに人との出会いや滞在のような「横糸」についても今回も多く触れられていた。特に、サハリンの残留日本人や朝鮮人の話については報告会でも多く時間を割いていて、今日も同様であった。

僕も2005年9月に北海道の利尻島・礼文島に行く前後に稚内に寄ったときに、資料館でサハリンというか旧樺太時代の写真や資料を改めてじっくり見て、しかも宗谷岬からサハリンを肉眼で見ることができたこともあって、近々訪れなきゃならん場所だなあ、と思っていたので、この番組を観ていたらその欲がさらに深まった。
稚内港に着いてからの関野氏のセリフに、「やれるときに好きなことをやる」というのがあったが、これは僕も常々旅をするときに考えていることで、そのとおりだよなあ、と共感した。でもこれはホントに、複雑なしがらみに囚われてしまう現代社会においては、言うのは簡単だが実際にやるのは難しいんだよな。

ちなみに、今回の北方ルートというと、地平線会議関係では冬のシベリアや間宮海峡の横断では安東浩正、戦後のサハリンの様子については西牟田晴、の両氏も取り組んでいて、ニアミスしていたりもするのだが、その影響で僕も最近、この地域への興味が徐々に膨らんできた。5年以内にはぜひ行きたいな、とは思うが、どうなるかね。まあとにかく、日本人にとって地理的にも精神的にも比較的身近な地域なので、昨年あたりからサハリン行きを本気で検討し始めている。近年は稚内-サハリン間の定期航路も安定してきているようだし。その前に、まずは厳冬期の北海道で徒歩および自転車移動の訓練をしないとな、ということも数年前からの懸案として棚上げしていたが、今日の放映でまたやる気が出てきた。

それにしても、現在、関野氏が勤めているムサビ(武蔵野美術大学)の学生はいいよな。氏の実体験からくる話を日常で多く聴けることを幸せに思わなければならない。文化人類学にはやや疎い僕も彼の講義はその場で受けたいくらいだ。今年初めに僕の母校でも関野氏の講演が行なわれたそうだが、またどこかで公開講座が開催されるのを期待しよう。

カベルナリア吉田氏の旅の話を聴きに行く 

2006-07-23 23:59:36 | 他人の旅話
東京都新宿区百人町にあるライヴハウス「Naked Loft」。韓国料理店が建ち並ぶ通称“職安通り”の一角にある。案内ではJR新宿駅もしくは西武新宿線西武新宿駅から徒歩と書いていたが、どう考えてもここから約300m北にあるJR新大久保駅のほうが近いぞ。


今日の昼下がりに、東京都新宿区百人町にあるライヴハウス「Naked Loft」で、本ブログでもこれまでにも度々挙げているカベルナリア吉田氏の『沖縄自転車!』(東京書籍刊)発刊記念のトークライヴがあり、これを聴きに行った。僕が前々から興味のあった書き手のひとりで、彼の人と成りを直接確認したかったのでちょうど良い機会であった。

この本のなかには収録しなかった、もしくはできなかった際どい裏話をたくさん聴くことができた。聴衆は35人ほどで(男女比も年齢層も均等)、ここに通い慣れている感じの人もいたようだ。
ちなみにここは普段は歌や演劇の披露や今日のようなトークショーというかやや堅めの講演や上映会のようなものが毎日開催されていて、1000~2000円ほどの席料を徴収し、かつ食べ物や飲み物を別途注文してそれを摂取しながら演目を聴く・観ることができる。

僕はこれまでにこういった砕けた形式の催しの経験はなく、最初は少々面食らったが、沖縄料理などのつまみやオリオンビールなどのアルコール類をいただきながら参加する和やかな雰囲気もこれはこれでなかなか面白かった(僕は事前に昼食を済ませたあとだったのでさんぴん茶しか頼まなかったけど)。喋っている吉田さん本人もジョッキでビールを飲んでいたしね。
なお、その売り上げがゲストの報酬? として反映されるそうで、どんどん食べて飲んでね、と吉田さんはしきりに聴衆に頼んでもいた。

で、吉田さんの話の詳細を挙げたらもったいないので、話のなかに出てきた本と彼にまつわるいくつかの数字について簡単に記す。

・2195km

この催しの案内文にあるが、この本を書くために自転車で沖縄県内を巡ったあとに出た、総走行距離。でも、(本文中でも触れている)途中で事故に遭ったときに計測できなかったぶんは含んでいるのかな。

・441人

これも案内文にあったのだが、この旅のなかで「こんにちは」以上の言葉を交した人の数。地元出身者(ウチナーンチュ)が大半なのだろうが、宿などで出会った本土からの旅人(ヤマトンチュ)や、沖縄県の風土が気に入って県内に移住してきた人たち(ヤマトウチナーンチュ)も含まれているだろう。

・足かけ5か月

この本のために沖縄県内を巡った期間。北は奥集落から南は西表島や与那国島まで、途中で一時帰京を挟みながらくまなく巡っている。
それにしても、彼は東京都と沖縄県の往復はすべてフェリーなんだってね。有明と那覇を結ぶ2泊3日かかるこの船便は僕も昨夏に一度乗船したことがあるのだが、この区間を2時間30分ほどで移動できる航空便は毎日1~2時間おきにバンバン飛んでいるこのご時世に、あの長距離フェリーにこだわるのはなかなか凄いことだと思う。

・3週間

今年4月に旅を終え、編集者からすぐに原稿の締め切りを言い渡され、執筆に費やした(締め切りまでの)期間。最後に帰京したときは1行も書いていない状態だったというから、この本はまさに突貫工事という感じで急造されたということか。

・2台

その期間中に原稿執筆に使ったパソコンがダメになった数。締め切りが迫っていたので、黄金週間中に都心の家電量販店に駆け込んで新たなパソコンを買ったそうな。たまたま寿命が重なったのかね。たしかにパソコンで執筆する現代的な書き手にとっては“クラッシュ”は一大事である。

・500枚

執筆した原稿の、400字詰め原稿用紙で換算したときの枚数。今回の本は2段組で200ページ近くあるから、たしかにこのくらいの量にはなるかな。

・300/8000枚

今回の旅で撮影した写真の枚数。全部で約8000枚撮影したうち、実際に本に掲載したのが約300枚ということ。たしかに写真も多くて彩りは鮮やか。ただ、看板や横断幕やバス停のような執筆の参考にするための情報の記録モノがかなり多いようだ。僕もそういうものはデジカメでよく撮るけど、1000枚以上いくことはないな。せいぜい200~300枚くらい。まあ旅の期間にもよるか。

・6冊

旅のなかで執筆のための取材や記録のために書いたノートの総数。と言ってもA6判かB6判ほどの小さなもの。吉田さんは自称メモ魔だそうで、今回、その内容の一部もプロジェクターで大写しで公開していた。その場の出来事の印象をより深めるというか臨場感を残すために、絵や擬音によるメモも結構書くのだそうだ。
また、原稿にはとても使えない危うい表現もかなりあり(出会った事象の批判とか)、旅の最中にそんなに細かく悪口は書かない僕としては驚いた。プロはああいうことまでつぶさに記録するのか、と最近の旅ではあまりメモは取らない僕としては良い勉強になった。書くことについてはアマチュアの僕は最近は、「記録」よりも「記憶」のほうを大事にしているんだけどね。

これらの数字を挙げながら、本では使えない沖縄ならでは? の(東京近郊在住の人にとっては珍しい)面白い事象を捉えた写真を大写しで見せたり(本の担当編集者がそういうノリの写真が嫌いで、どんどん不採用にしていくのだそうだ)、後半には自筆の絵で紙芝居風に見せたりもして、全体的に趣向を凝らした手作り感のある沖縄旅の報告であった。

終了後の簡単な感想としては、吉田さんはこれまで発刊された本の面白おかしい筆致と、本人の意外と低い声のトーンの印象が合致しない、面白い人であった(シェルパ斉藤氏よりも年上に見える)。序盤のパッと見ではギャグをかましたり毒舌や下(しも)の話なんかはしないような感じの人に見受けられたのだが、アルコールの勢いも手伝ってか結局はそういう際どい話や聴衆、特に女性がやや引いてしまうような話も連発であった。
でも、一連の著作でも公開しているあの丸っこい体型だけで判断すると、石塚英彦(ホンジャマカ)や松村邦洋や内山信二のように、存在自体がちょっと面白い人、という雰囲気はそこはかとなくにじみ出ているのかもしれない。やはり僕よりはひと周り大きかった。特異な? 体型によって他人から認識されやすいことは悪いことではない、と僕も最近よく思う。

催しの終了後は本に名前入りのサインもいただき(僕が先月にメールを出したのは憶えていてくれた)、僕がこれまでに体験した旅関連の講演会や報告会とはひと味もふた味も違う催しで楽しかった。
会場の傍らでは彼のこれまでの著作も手売りしていたが、なかなか売れ行きも良いようであった。手売りできる機会があっていいなあ、と一応自著持ちの僕としてはうらやましく思った。
ちなみに、本を販売していたのは、僕が先週伺った「旅の本屋のまど」で、出張形式で販売していた。実は今回の催しがあることを最初に知ったのは、「のまど」のウェブサイトからだったんだけどね。

まあ僕にとってはプロの手仕事を存分に堪能できた催しであった。拙著の制作の重圧から解放されたので、また新たな気持ちで沖縄県に再訪したくなってきたぞ。

「野田知佑ハモニカライブ7」に行ってきた  

2006-06-11 21:30:13 | 他人の旅話
2006年6月10日夕方、東京都台東区・上野公園水上音楽堂の「野田知佑ハモニカライブ7」の第2部の光景。舞台中央に座っているのが、辰野勇(左)と野田知佑(右。ハモニカ演奏中)。日本の野遊び業界の重鎮であるこのふたりを、肩書きを付記せずに名前だけを記して何をやってきた人たちかを知っている人って、全国にどのくらいいるのだろう?


昨日10日、東京都台東区・上野公園の水上音楽堂で行なわれた「野田知佑ハモニカライブ7 それいけ、吉野川。」に行ってきた。今年で7回目の開催だが、僕は初参加。
元々は徳島県・吉野川を守る市民運動を応援する目的で、東京近郊の人にも吉野川のことを知ってもらおうと2000年からこの催しが始まったことは知っていたが、毎年休日出勤や旅でタイミングが合わず、断念していた。が、今年こそは、と強い気持ちで行った。

催しは、第1部が野田知佑(カヌーイスト)、姫野雅義(吉野川シンポジウム実行委員会・代表世話人)、村上稔(徳島市議会議員)の3者による最近の吉野川に関するトーク。
吉野川下流に約250年前に造られた、先人の知恵が活かされた石積みの「第十堰」を壊して、吉野川の河口に新たに可動堰を造るという旧建設省の計画があり、2000年にその建設の是非を問う住民投票で94%の住民が反対の意思表示をして(洪水は第十堰の維持だけで防げる)、事業計画は白紙撤回された。
が、それから6年後の先月に、国土交通省四国地方整備局から「吉野川水系河川整備計画」の今後の進め方が発表され、今年から再び具体的に検討されることになった。
流域住民の意見を聞く場は開くけれども、それを反映させる仕組み(流域委員会)がなく、第十堰のことを先送りして新たな策を検討するという、可動堰の建設計画がまだ生き残っていることを示唆しているとの報告があった。
しかも、市議の村上さんからも、2000年に特に盛り上がった市民活動が数年経って下火になるところを狙って再び可動堰の計画を持ち上げようという事業推進派の不穏? な雰囲気が最近の議会内にもある、という話があった。計画は白紙になった、というだけで、中止というか破棄されたわけではなく、今後も姫野さんを中心に市民活動は手を緩めることなく継続していかなければ事業計画、つまり税金の無駄遣いは食い止められんのか、と改めて認識した。

あと、野田さんが校長を務めていて雑誌『BE-PAL』などでもよく書いている、「川の学校 川ガキ養成講座」も継続していて、(現在国や自治体を動かしている)40~50代の自然オンチの“大人”なんかはもう相手にせずに、純真な子どもたちを川で遊ばせて、小さいうちから自然の良さや大切さや厳しさを体得させるほうが将来の自然の在り方を考えるうえで有益だ、という話も生で改めて聞いた。
人間なんかよりも大昔からある自然環境の維持よりも、既得権益の保持や利潤の追求に突っ走り、「川に入ってはいけません!」というような看板を川岸に立てて、川は危ない場所だと勝手に決めつけて子どもを川から遠ざけたりする愚行によって(事故が起こったときの責任を負いたくないからこうする)、自然の価値がわからない自然オンチが増殖するのは残念なことだ。
それを食い止めるために、毎年夏の吉野川での1週間のキャンプで“川の英才教育”を施して自然感覚の鋭い人材を育成する、という試みは今後も続けていってほしいと願う。自分のやりたいことも押し殺して勉強したり、仮想空間のゲームで高得点を出したりするよりも、現実世界で川で魚を素手で捕まえたり愛でたり、焚き火を食事が作れるくらいに自在に扱えたり、ナイフで木片や鉛筆を削れたりする人のほうが数段カッコイイと思うけどなあ(一応僕も上記の3点はできるし、というか、できないほうが地球に生きるうえでは真っ当な実体験が少ない不幸な人だな、と思っているクチ)。

あと、野田さんが若い頃に全国の川を巡ったなかで最も思い出のある川が吉野川で、当時の10~20m先の魚も見えるくらいに川の水がきれいな状態であり続ければ(上流にある早明浦ダムがなければ)、吉野川は間違いなく世界遺産なのに、としきりに悔しがっていたのが印象的だった。

そういう堅めの話のあとの第2部では、野田知佑のハモニカと辰野勇(モンベル社長)の横笛の演奏が繰り広げられた。
「五木の子守唄」のように日本の唄は哀しいものが多いから、やっているうちにだんだん暗い気分になってくる、と言っていたが(カナダ・ユーコン川の集落近くのキャンプ地で吹いていても、それを聴く地元の人からもそう感じられるとか)、それも日本の国民性が表れていて、聴くほうとしてはそんなに悪くはないと思う。
川旅や川で演奏した話を交えながらふたり合わせて10曲ほど演奏し、最後は「ふるさと」の演奏に合わせての200人ほどの聴衆の合唱で締めくくった。

会場では野田さんの著書や四国名産の食べ物や飲み物も販売されていた。最近人気で品薄状態が続く四万十川産の栗焼酎「ダバダ火振」も割引販売していたが、それでも僕には高価で手が出なかった。残念。
催しの終了後は野田さんのサイン会もあり、僕もその列に並んで久々に野田さんのサインをもらい、握手もしてもらい(ともに約10年ぶり2回目)、今後の旅に向けての活力を得た。
現在野田さんが住む徳島県の旧日和佐町(現美波町)も一度は行かなきゃならんよなあ、と2、3年前から考えていたので、久々に野田さんと対面してちょっとやる気が出てきた。四国は2002年2月に吉野川第十堰を見に行って以来ご無沙汰なので、近いうちにぜひ、と意を新たにした。
ちなみに、第十堰というのは先人が堰を10個造ったということではなく、吉野川下流でこの堰を造ったらたまたま「第十」という珍しい地名のところだったため、そこから名付けたということ。ここもぜひ再訪したいものだ。まだ見に行ったことがない方は一度は行ったほうがよいと思う。可動堰を新造するという計画がいかにバカげた机上の空論かということがよくわかるから。山梨県・笛吹川の「信玄堤」のように、先人の知恵の偉大さがわかる造りであるよ。

まあそんなこんなで、とても有意義な催しであった。入場料の1800円も最初は高いかと思ったが(1500円で入る方法もある)、これや物販の売り上げが吉野川を守る活動に役立てられるのであれば、決して高くはない。
来年以降も予定を調整してできるだけ行けるようにしよう。