和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

鬼軍曹の『現場の知恵』

2012-02-26 | 短文紹介
大前研一著「日本復興計画」(文藝春秋)の本が出たのは、2011年4月30日(第一刷)。
はじめにで、こうあります。

「私は、ちょうど福島第一原発の炉が設計・建設・稼動を始める1960年代の後半に、マサチューセッツ工科大学で原子力工学を学び、博士号を取得後、1970年に日立製作所に入社、原子炉の設計に携わった。そうした背景があったために、地震直後から、福島原発が、今日判明するような事態にまでいきつくことがすぐにわかった。
たとえば、地震発生直後、東京電力が、原子炉の格納容器の中の圧力が8気圧と発表したとき、すぐに、計器がまったく作動をしていないことがわかった。なぜならば、原子炉の格納容器が耐えられる気圧の限界は4で、それ以上は想定していないからだ。おそらく破壊実験でも6気圧くらいを想定しているのではないか?」(p6~7)

「今回だけの特殊事情というものもある。たとえば1号機、2号機、3号機、すべて米ジェネラル・エレクトリック社(GE)の設計だったこと。・・・・どういうことかといえば、原子炉の機器が440/6000ボルトで設計されていたのに対して、駆けつけた51台の日本製電源車は100/200ボルト。ふだん工事現場で使われる電源車は使いものにならなかったのだ。・・・」(p51)

この本で「鬼軍曹の『現場の智恵』」という箇所があったのでした。
そこをすこし引用しておきます。

「今回のケースで判明したもう一つは何かといえば、現場の知恵が不足していたことだ。MITや日本の学者連中が唱えてきた安全思想というものには誤りがあった。なぜなら、いま福島では、学者のつくり込んだ安全体系の外側で、この二週間、神に祈りながら宇宙遊泳のように作業をしているからだ。こういう場合では、『理屈はよく分からないけれど、あそこにこんなものがあれば』というような知恵が必要なのではないか。プラントを構築するときに現場を指揮する鬼軍曹みたいな人間が、経験的に分かっている知識、いわば『現場工学』ともいうべき現場の知恵である。・・・今回の福島第一に欠けていたのは、まさにこのような『現場の知恵』なのだ。保安院や原子力安全委員会などの要求だけ満たしてプラントを作ると、今回のような修羅場に立ち至る。・・・GEから出来上がった原子炉を渡され、マニュアルを勉強して四十年。・・・・原子力産業全体の問題であり、みんな知的怠慢だったというしかない。」(p86~89)


ながなが引用してきたのは、ここから、西堀栄三郎氏について語りたいためでした。
「西堀栄三郎選集1巻」(悠々社)は「人生は探検なり 西堀栄三郎自伝」となっております。そのなかに「新しい原子炉への情熱」という箇所がありました。

そこは「南極越冬中、私は茅先生から『日本原子力研究所の理事になれ』という電報をもらった。」とはじまっておりました。つぎに「南極での任務を終えた私は、一年半ぶりに帰国し、昭和33(1958)年4月、予定どおり原研の理事に就任した。・・私は理事のなかでは、いち早く家族を連れて東海村に赴任した。」これからが重要なのですが、私の手には負えませんので(ちょっと引用がむつかしい)、その次をみてゆきます。次は「原子力船『むつ』の建造」という箇所。こちらが引用しやすいのでした。そこに
「コストダウンを検討していたときに、外国のメーカーにつくらせたほうが安上がりだという意見が出てきたのには正直言ってがっかりしてしまった。私は、原子力船を国産で製造するなかで獲得する技術や、その副産物として開発される技術に、大きな期待をかけていた。それでこそ原子力船をつくる価値があるのだ。・・日本で研究開発し、独自の原子力船をつくってほしかった。」(p203)

この原子力船を語る最後は、こうでした。

「すべてを完了した『むつ』は出力上昇試験のため、定係港を離岸し太平洋へ向かった。原子炉に火を点して原子力発電を開始するということは、最高の技術のもとに、きわめて慎重な注意を払ってやらなければならないことである。そこではいささかのミスも許されない。しかしそれを太平洋のど真中でやらなければならなかった。漁業組合の反対で、波の静かな湾内でも実験が許されなかったのだ。世界中どこにもこんな例はなかった。
それを『むつ』の技術者たちは、振動する船の中で、りっぱにやり遂げたのである。臨界に達したとの報告を受けたとき私はほんとうに感心した。しかし、出力を上げていく途中で警報が鳴った。これは欠陥ではなく、原子炉に火入れするときには毎回起こることだ。人体になんの影響も及ぼさない程度の放射線漏れでも発見できるように、極端に感度を上げているから鳴るのであって、関係者はだれひとりとして事故とは考えなかった。冷静にホウ酸の入ったオカユを塗って応急処置をし、慎重に出力を上げていく実験を続けた。
ところが新聞が、『技術的欠陥を糊塗した』と報道したので大騒ぎとなり、反対運動をますます煽ることになった。とうとう『むつ』は母港に帰還することができなくなってしまった。警報機が鳴ること自体、当り前のことで私は少しも技術上の失敗だったとは思わない。技術とは悪いところを修正しながら、いわゆるトライ・アンド・エラーの心構えでやってこそ進歩するものだ。もし異常があったなら、異常が大きくならないうちに、ほんのわずかな異常でも感じ取るセンサーをつけておき、その警告によって欠陥箇所をいちはやく知り、大事に至らないうちに次の手を打つことが必要なのである。
これからの日本の技術開発を考えた場合、いささかの徴候をも見逃さず、一歩一歩完成に近づいていく姿勢こそが、もっとも合理的で、尊重されるべきものであり、それが未来への技術的成功への道であると、私は強く確信している。」(p206~208)



え~と。つぎに。2011年5月20日に、増補新版が出たところの、
古川和男著「原発安全革命」(文春新書)のあとがきを引用。

「終りに、最も大切な先輩西堀栄三郎先生(1903~89年)・・・
先生の大学講座後輩である私は、日本原子力研究所入所以来、多大のお世話になった。あの剛毅な先生も一時、体質に呆れて原子力界を去られたが、やがて戻ってくださり、晩年は我々の『トリウム溶融塩炉』を社会に生かそうと、命を縮めるほどの尽力をしてくださった。・・・」(p237)



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