宮澤賢治が稗貫郡立稗貫農学校教諭になったのは
1921年(大正10)でした賢治25歳。
稗貫農学校は、1923年に郡立から県立花巻農学校となります。
1922年2月。賢治は農学校のために精神歌を作詞、
川村悟郎(当時盛岡高等農林学生)が作曲。
年譜にはこうありました。
「川村さんが盛岡から帰って、賢治さんと二人で、ああでもない、
こうでもないと作曲をしておりました。ですから私たちは、
できあがらないうちから、精神歌をきいていたわけです。
題は、はじめありませんでした。曲ができ上りますと放課後、
音楽の好きな生徒をのこして歌わせました。
畠山校長もいい歌だと感心していました。
はじめは音楽好きのグループの生徒たちだけで練習していましたが、
三月の式に間に合うように、全部の生徒に歌わせ、
卒業式には、りっぱに歌いました。校長さんは、
宮澤さんに校歌にしてくれるように言いましたが、
宮澤さんは遠慮ぶかい人ですから、
遠慮して校歌にはしませんでした。―――堀籠文之進談」
(p162~163堀尾青史「年譜宮沢賢治伝」中公文庫)
この頃の宮沢賢治が気になります。
1921年(大正10)でした賢治25歳。
稗貫農学校は、1923年に郡立から県立花巻農学校となります。
1922年2月。賢治は農学校のために精神歌を作詞、
川村悟郎(当時盛岡高等農林学生)が作曲。
年譜にはこうありました。
「川村さんが盛岡から帰って、賢治さんと二人で、ああでもない、
こうでもないと作曲をしておりました。ですから私たちは、
できあがらないうちから、精神歌をきいていたわけです。
題は、はじめありませんでした。曲ができ上りますと放課後、
音楽の好きな生徒をのこして歌わせました。
畠山校長もいい歌だと感心していました。
はじめは音楽好きのグループの生徒たちだけで練習していましたが、
三月の式に間に合うように、全部の生徒に歌わせ、
卒業式には、りっぱに歌いました。校長さんは、
宮澤さんに校歌にしてくれるように言いましたが、
宮澤さんは遠慮ぶかい人ですから、
遠慮して校歌にはしませんでした。―――堀籠文之進談」
(p162~163堀尾青史「年譜宮沢賢治伝」中公文庫)
この頃の宮沢賢治が気になります。
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