和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

弔辞と伝記。

2010-05-03 | 他生の縁
鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)
丸谷才一著「挨拶はたいへんだ」(朝日文庫)

と二冊に補助線をひきたくなります。


「挨拶はたいへんだ」は丸谷才一氏の挨拶文を綴じた一冊。
その最後に、井上ひさし氏との対談「スピーチでできること」というのが載っております。そこに一読忘れられない箇所がありましたので、重複をいとわずに引用。


 井上 これは評伝として素晴らしいんじゃないですか。
 丸谷 あ、そうですか。なるほど、弔辞は伝記なんだ。
 井上 ・・・小さな伝記として、とてもいいなと思いました。
    こういうものでたくさんの人の伝記があったらいいな
と思うくらい、いい伝記ですね。
 丸谷 たしかに、弔辞は一種の総決算ですからね。
 井上 その人の一生を、スピーチする人の立場から、
    ひとつの伝記にして総括するわけですものね。
 丸谷 ひさしさんと話していると、
    気がついてないことがいろいろ
    わかってきたなあ。
 井上 丸谷さんは、こうして、挨拶まで文学にしてしまわれた。
    すごいことですね。人間好きで、優しくて、陰謀や計算に向かない、
    あけっぴろげで、楽しそうに笑っている
    丸谷さんの姿をこの本に感じます。


さてっと、「思い出袋」にある「弔辞」という文の、ひとつ前は「あだ名からはじめて」という文でした。そのなかに、ある人が聞いた話が載っておりました。


「・・イギリスからアメリカにきた司書に、イギリスの伝記のすぐれていることにふれると、『歴史というものは伝記です』という答えが彼女から返ってきたという。こういう共通感覚が、イギリスにはあるのだろう。伝記を小伝に、小伝をあだ名に煮つめてゆくと、人間認識が蒸留されて、老人用の記憶に貯えられる。」

「私が日本に戻ってきて大学に就職してから、ホッブス、ルソー、マルクス、レーニンと段階的に進歩してゆくことが共同研究各人の前提となっているのに当惑した。伝記には、歴史から落ちこぼれる部分があるのではないか。」


このあとの文が「弔辞」でして、そのはじまりが

「吉本隆明の『追悼私記』(JICC出版局、1993年)を読んで・・・」とはじまっておりました。


そして、「弔辞」のあとの文は、
70年たって覚えている、小学校の校長先生の話へとつながっているのでした。
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