和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

水の掃除を稽古する。

2020-08-01 | 本棚並べ
本棚に探していた、「新編人生の本」というシリーズの
⑨「生活の中の知恵」(昭和47年)がありました(笑)。

パラリとひらくと、最初に小松左京氏の文
「『生活の中の知恵』について」が載っている。
そのはじまりのページくらいは引用しておきます。

「今はなくなってしまったが、以前、京都中心部の繁華街京極に、
富貴亭という寄席があった。三条富小路(とみのこうじ)上ルといえば、
京極まで歩いてほんの十分たらずだが、三高時代、そこの経師屋の
二階に下宿していた私の最大のたのしみは、月に一度、家から金をもらった
晩に、その寄席を訪れることだった。--昭和23年といえば、戦後の
インフレがまだ吹きあれていたころだが、富貴亭の席料は、映画などにくらべ
て割り高だったものの、値段の割に内容が充実している点で、もっとも
使い甲斐のある出費だった。東京の席亭のそこここが焼けて、
復興がまだ充分でなかったためか、東京のいい芸人がその富貴亭に
来るのが最大の魅力だった。・・・・」

こうはじまっている20頁。

うん。それはそれとして、この本に幸田文の文が掲載されていた
のでした。題名は『水』とあります。そのはじまりはというと

「水の掃除を稽古する。
『水は恐ろしいものだから、根性のぬるいやつには水は使えない』
としょっぱなからおどかされる。
私は向嶋育ちで出水を知っている。洪水はこわいと思っているけれど、
掃除のバケツの水がどうして恐ろしいものなのかわからないから、
『へーえ』とはいったが、内心ちっともこわくなかった。・・・」

こうして雑巾がけを、父露伴から習い始めるのでした。
そうしているうちに、こんな箇所もあり、印象に残っております。

「父は水にはいろいろと関心を寄せていた。
好きなのである。私は父の好きだったものと問われれば、
躊躇なくその一ツを水と答えるつもりだ。
大河の表面を走る水、中層を行く水、底を流れる水、
の計数的な話などおよそ理解から遠いものであったから、
ただ妙な勉強をしているなと思うに過ぎなかった。
が、時あって感情的な、詩的な水に寄せることばの奔出に会うならば、
いかな鈍根も揺り動かされ押し流される。
水にからむ小さい話のいくつかは実によかった。
これらには、どこか生母の匂いがただよっていた。
生母在世当時の大川端の話だったからである。

簡単に筆記してシリーズのようにして残してくださいと
頼むと、いつも『うん』と承知するが、その時になると、
『まあ今日はよしとこう』とくる。翌日も押すと、
『おまえは借金取りみたようなやつだ。
攻めよせてくるとはけしからん』といって、ごまかされてしまう。
借金取りといわれてはいささか気持がよくないから、
これらの話は一ツだけしか残っていない。
残ったのは『幻談』と私のあきらめばかりである。」

はい。幸田露伴の『幻談』という題は記憶に残りました。
後で、短い文なので読んでみました。

この『水』という文は、このあとに
幸田文18歳のことが出てきます。

「・・・学校の教科書にはポオの『渦巻』の抜萃がのっている。
・・・そのとき父はお酒を飲んでいたのだが珍しいことに・・・・
『うむ、あの話か。ちょっとお見せ』と眼鏡をかける。
子供たちは父親の英語発音を尊敬していない。・・・奇怪な発音であった。
訳をしてくれたが、それがひどい逐字訳で、なんの意味だか
さっぱりわからない。『おまえがわかってもわからなくても、
この本にはそう書いてある』というのだから閉口した。

『おまえは渦巻を知らないからだめなのさ』と
本を置いて眼鏡をはずすと、もうポオにあらざる親爺の
渦巻に捲かれてしまい、訳読なんぞどうにでもなれ、
溜息の出るようなすてきな面白さであった。
・・・・・・・最後に、どうしてこういう渦から逃れるかが語られ、
泳ぎができなくてもやれるというので
直沈流(ちょくちんりゅう)の私は一しょう懸命に聴いた。
 
これで話が終れば無事であったが、その翌日、
私はずぼんと隅田川へおっこったのである。
その日は朝しぐれの曇った日であった。
吾妻橋の一銭蒸気発著所の浮きデッキと蒸気船の船尾との
狭い三角形の間へ、学校帰りの包みやら蝙蝠やらを持ったまま
乗ろうと、踏み出した足駄を滑らせて、どぶんときまったのである。
眼をあけたら・・・無数の泡が、よじれながら昇って行くのが見えた。
渦。咄嗟に足を縮めた。ずんと鈍い衝当りを感じるのを待つ
必死さに恐れはなく、がんと蹴って伸びた。ぐぐぐっと浮きあがって」

はい。この後の描写はカット(笑)。
家に帰った箇所から引用。

「玄関の外に待っていた父に、じっと見つめられ泣きたくなって、
『ご心配をかけました』と立ったままいうと、はははと上機嫌に笑って、
『水を飲んだろう。』『いいえ。』私はうそをついたのである。
『馬鹿をいえ、そんなはずあるもんか。指を突っ込んで吐いちまえ。』
やむを得ない、そこへしゃがんだ。父は背中から抱いて、
みぞ落をこづき上げた。・・・・・
父は、『デッキか蒸気の底へへばりついたら今ごろは面倒なことだった。
ポオ先生のおかげで助かったのだ』といっていた。・・・・」

はい。こんな話を読んだのじゃ、
いくらボケっとした私でも印象に残るものです。
後年になってたしか幸田文全集が出たあとに、
幸田文対話という本がでました
(それはのちに岩波現代文庫「幸田文対話(下)」に載ります)。
そこに、幸田文のおさななじみの関口隆克氏と幸田文の対話が
再録されておりました。関口隆克氏はその現場を見たとのことです。

関口】 だけどね、これ、あなただと思うけど、
ほんとだったかどうか、言ってよ。・・・・
雷門のところで電車をおりて、吾妻橋で一銭蒸気に乗ろうとしたら、
あの舟板っていうのか、板があって、あれを渡ろうとしたときですよ、
落ちた、落ちたって・・・・。

幸田】 あれ、あたくしよ。

関口】 あなたでしたか、やっぱり・・・・・
走っていったらね、船べりと台船のーー台船って、汽車でいえば
プラットホームに相当する、それが波で揺れるから、隙間があくのね。
船長さんが・・・セッタばきでね、とも綱をひっかけてギュッと締めてる
んだけれども、揺れると隙間があきますよ。その間へ落ちったていうんで、
ぼくが見ていたら、ポカッと頭が出てきたんだな。女の人だ、と思ってると、
左手にご本なんかの風呂敷包みをもって、右手に、あれは傘だと思った・・。

幸田】 傘よ、傘。コウモリ傘よ。

関口】 それでスーッと出てきて、だれかが手を貸したら、
そのままフッとあがったんだ。
それでぼくはね、ハッと思いましたよ。
たしかに文子さんだと思ったけどね、みんなに取巻かれてたから、
すこし青ざめていたかと思うけども、リン然としておられるのでね、
近寄りがたくて、その日はとうとう、あなたに口をきけなかった。
・・・・・(文庫p130~131)

うん。たしか幸田文の『木』や『崩れ』は
亡くなってから単行本として出たのでしたよね。



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