和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

台風と第九条。

2011-05-14 | 短文紹介
堤堯氏に「日本を脅かすものは戦争と天災だ。今回、天災が起きて、一つの神話が崩れた」(p96・WILL6月号)という言葉がありました。
天災といえば、寺田寅彦の名言を思い浮かべます。
それについては、出久根達郎がこう注釈しておりました。
「『天災は忘れたころにやって来る』は寺田寅彦の名言、と著名だが、寺田の著作にこの言葉はない。似たような言い回しがあり、弟子の中谷宇吉郎が要訳して広めたのである。」(「百貌百言」文春新書p26)
それじゃ、どこで中谷宇吉郎が要訳していたのかと、ちらりと思うのですが、探せるはずもなく。すぐに探すのは、あきらめます。あきらめるのはよいのですが、しゃくだから、他のことを考えます。ということで、そういえば、憲法第九条と台風という結びあわせをしたのが田中美知太郎氏でした。
そちらなら、何となく見当がつきそうでした。
と思って、雑誌文藝春秋の随筆をあつめた。田中美知太郎著「巻頭随筆」(文藝春秋)をひらいてさがしてみました。ありました。こちらはすぐに見つかりました(まあ、ほかでも書いておられたのかもしれませんが)。
ということで、それを丁寧に引用していきましょう。

題は「でも地球は動く」とあります。震災のあとでは、地球が動くといえば、ついつい地震を連想してしまいます(笑)。その途中から

「・・昭和のはじめ(1928年)いわゆる『不戦条約』くわしくは『戦争放棄ニ関スル条約』というものが、英米仏伊その他の国々とわが国などの間で締結されたことがあった。『締約国ハ、国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ、且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ放棄スルコトヲ其ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス』というのがその骨子であった。・・・・・わたしたちは関係者の努力に対して敬意を表さなければならないだろう。同時にまた法律というようなものがどれだけの力をもつかについて、われわれにいろいろ考えさせるものをもつと言わなければならない。
いまこの条約の前文とでも呼ぶべきところを読んでみると、『戦争ヲ率直ニ放棄スベキ時機ノ到来セルコトヲ確信シ』とか、『戦争ノ共同放棄ニ世界ノ文明諸国ヲ結合センコトヲ希望シ』とかいう、『確信』や『希望』を表明した文句が基調をなしている。だから、いわゆる戦争放棄の条約なるものは、これらの確信や希望がみたされることを前提とした一種の条件文と見なければならないことになる。つまり『もし・・・ならば』戦争を放棄してもいいという意味が実質だとも考えられる。」

さてっと、ながなが引用してきましたが、ここから台風が登場してきますので、もうすこしお付合いください。

「ところが、この条件はなかなか充足されないのが事実であって、この条約締結後の世界の歴史は、むしろ正反対の途を歩んだことになる。このような場合、この条件文のなかに言われているようなことが、事実となることを条約文は命令することができるだろうか。どうも出来そうもないようである。法律をつくることによって事実をも創作するわけにはいかないのである。『台風ノ襲来ハコレヲ禁止スル』という憲法をつくったり、法廷において『地動説はあやまりであるから、これを説いてはならない』というような判決を下すとしたら、ずいぶん滑稽なことになるだろう。それでもやっぱり台風はやって来るし、地球は動くからだ。
日本国憲法第九条というものがある。何だか不戦条約の条文をやき直したような感じである。『正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し』という希望文があって、それから『戦争の放棄』とか、『戦力の保持』あるいは『交戦権』の否定がうたわれている。条件文構造は同じと言えるかもしれない。不戦条約の条件文にうたわれた希望というものは、たいへんりっぱなもので、わたしたちの念願とも一致するところが多いと言わなければならない。しかし希望はあくまでも希望たるにとどまるのであって、これを条約文に書きあらわして、厳粛に宣言してみても、それだけでは事実をつくり出すことはできない。・・・・」


さて、ここまで引用してきたのですから、最後の箇所までも引用しましょう。


「国際関係というものは、無法の要素を多分に含んでいる。国際条約はこれに正義と秩序を少しでも入れるための努力として意味をもつ。しかし実効はなかなかないのが現状である。その国際条約で出来ないことを一国だけの法律で実現できるのかどうか。一国の憲法が国際関係を事実的客観的につくり出し、法廷が世界平和を命令することができるのかどうか。一億の人間がいっしょに生活を保ち、これを少しでもよくして行くための条件はいろいろある。憲法も法律もそのためのものにすぎない。そしてその複雑な条件のなかで、どうしたらいいかをきめて行くのが政治の仕事である。それはむつかしい仕事だから、裁判官にこれを一任するというようなわけにはいかないだろう。古人曰(いわ)く『国の安全こそ最高の法たるべきものである』と。」(p92~95)

うん。「国の安全こそ」といえば、佐藤優著「3.11クライシス!」(マガジンハウス)のまえがき(2011年4月12日記)に

「菅首相をはじめ、日本の政治エリートは実にひよわで情けない。危機に対応できる基礎体力がない。しかし、このひよわさ、情けなさは、私を含む、現下のすべての日本人の欠陥である。政治家や官僚、あるいは東電幹部を批判するだけでは何も変わらない。われわれ自身が、国民同胞と日本国家のことを真剣に考え、行動するように変わっていかなくてはならない。」(p7)

そのすこし前にはこうもありました。

「鳩山氏の後を襲った菅直人首相は、ポピュリストである。常に仮想敵をつくり、それに対抗する『負のエネルギー』を結集することで、自己の権力基盤を強化しようとする。・・・国際的には、米国を除くすべての外国が仮想敵になり得る。特に菅政権になってからロシアとの関係が、かつてなく悪化した。・・・・・菅政権が続くと・・・中国、ロシアとの関係が過度に緊張し、無為無策のために中東のエネルギー資源を失い、沖縄は日本からの分離傾向を強め、日本国家は奈落の底に落ちるという危惧を私は2月中旬以降強めた。当然、菅政権に対する批判を強めた。そのときに起きたのが3・11クライシスなのである。」

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