和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

好(い)いネエ、と先輩が。

2023-04-14 | 古典
幸田露伴の『野道』。
うん。つづけて紹介したくなりました。

そのまえに、西脇順三郎氏の柳田国男回想の文を紹介。

「私が柳田先生に初めてお会いする光栄を得たのは大正11年頃で・・」

とはじまっておりました。中を端折って

「 先生は東京近辺の散歩をよくなされたようだ。
  春になるとどこそこへ行ってみたまえ、
  ひばりがないているとか、野原があるとかいわれた。
  私も一度おともをして散歩をしたことがある。

  ・・・季節は忘れたが春の頃かと記憶する。
  先生と上野の美術館で偶然久しぶりでお会いした時、

『 これから多摩川へ行ってよしきりの鳴くのをきこうではないか 』

  と例のほほえみで私をさそって下さった。上野からなら
  江戸川であればそれほど驚かなかったのであろうが、
  なにしろ多摩川ときては、私は心の中でこれは大変だと思った。

  その半日の道程は複雑であった。たしか調布まで行き、
  それから今日の地名では京王多摩川というところまで
  別の電車にのりかえた。あしの生えている古戦場の中を
  つっきって多摩川べりに出た。

  先生と私と二人きり、その辺の道は一人の旅人も歩いていない。
  その当時の先生の服装は中おれ帽子にはおりはかま
  実にしょうしゃなものであった。白たびは不変的なものであった。
  ひより下駄だったか、せっただったか忘れたが恐らく後者であったと思う。
  それにステッキ。お年のわりに青年のような歩きぶりであった。

  ・・・先生は散歩されている時でも家でタバコをすわれているときでも、
  ・・・こうやって多摩川べりを歩いている時でも何かいつでも考えて
  いられたようだ。やがて二人は和泉多摩川で電車にのり成城へ帰った。
  よしきりはきこえなかった。・・・    」

      ( p77~80 臼井吉見編「柳田國男回想」筑摩書房1972年 )


はい。これを引用してからだと、はずみがついて
幸田露伴の『野道』も引用しやすくなるというものです。

閑事(かんじ)と記された郵便物が来たところからはじまっておりました。
その書簡には、こうありました。原文をそのままに

「・・瓢酒野蔬(へうしゅやそ)で春郊漫歩の半日を楽まうと
 好晴の日に出掛ける・・其節御尋ねして御誘引する、
 御同行あるなら彼物二三枚を御忘れないやうに、呵ゝ(かか)、
 といふまでであつた。 」

このあとに『 おもしろい。自分はまだ知らないことだ。 』
として、片木を短冊位にきって、味噌をぬり、火鉢にかざします。

『味噌は巧く板に馴染んでゐるから剥落もせず、宜い工合に少し焦げて
 ・・同じやうなのが二枚出来たところで、味噌の方を腹合せにして
 一寸(ちょっと)紙に包んで、それでもう事は了(れう)した。』

うん。ほとんど引用しちゃいそうですが、なるべく端折ってゆきます。
つぎの日。

『其の翌日になった。照りはせぬけれども穏やかな花ぐもりの好い
 暖い日であった。三先輩は打揃って茅屋(ぼうをく)を訪うてくれた。』

うん。以下も原文のままに引用したくなる箇所でした。

『庭口から直に縁側の日当りに腰を卸して五分ばかりの茶談の後、
 自分を促して先輩等は立出でたのであった。

 自分の村人は自分に遇(あ)ふと、興がる眼を以て一行を見て
 笑ひながら挨拶した。自分は何となく少しテレた。けれども

 先輩達は長閑気(のんき)に元気に溌剌と笑ひ興じて、
 田舎道を市川の方へ行(ある)いた。

 菜の花畠、麦の畠、そらまめの花、田境の榛の木を籠める遠霞
 ・・・・何といふことも無い田舎路ではあるが、

 或点を見出しては、好(い)いネエ、と先輩がいふ。

 ・・小さな稲荷のよろけ鳥居が藪げやきのもぢゃもぢゃの
 傍に見えるのをほめる。・・・
 土橋から少し離れて馬頭観音が有り無しの陽炎の中に立ってゐる、
 里の子のわざくれだろう、蓮華草の小束がそこに抛り出されてゐる。
 ・・・・ 」

このあとに、各自持参の瓢酒で、各自手酌のお猪口で野草を採っては
味わいながら飲み始める。

『・・先生は道行振の下から腰にしてゐた小さな瓢(ひさご)を取出した。
 一合少し位しか入らぬらしいが、如何にも上品な佳い瓢だった。・・・

 それに細い組紐を通してある白い小玉盃(しょうぎょくはい)を取出して
 自ら楽しげに一盃を仰いだ。そこは江戸川の西の土堤(どて)へ上り端の
 ところであった。堤(つつみ)の桜わづか二三株ほど眼界に入って居た。』

こうして、土手の野蒜(のびる)を掘り出して持参の味噌につけて食べ始め、
さらには、各自が食べられそうな野草を探し出すのでした。

こうして最後には、主人公も珍しいものを探しだして食べようとする

『・・先生は突と出て自分の手からそれを打落して、やや慌て気味で、
 飛んでもない、そんなものを口にして成るものですか、と叱するが
 如くに制止した。自分は呆れて驚いた。

 先生の言によると、それはタムシ草と云って、其葉や茎から出る
 汁を塗れば疥癬(ひぜん)の蟲さへ死んで了ふといふ毒草だそうで、
 食べるどころのものでは無い危いものだといふことであって、
 自分もまったく驚いてしまった。

 こんな長閑気(のんき)な仙人じみた閑遊の間にも、
 危険は伏在してゐるものかと、今更ながら呆れざるを得なかった。
 ・・・                            」
                         ( ~p443 )


この短文の最後も引用しておかなきゃ。

「 其日は猶ほ種々のものを喫したが、今詳しく思出すことは出来ない。
  其後の或日にもまた自分が有毒のものを採って叱られたことを記憶
  してゐるが、三十余年前の彼(か)の晩春の一日は霞の奥の花のやう
  に楽しい面白かった情景として、春ごとの頭に浮んで来る。    」

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