和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

わが国には昔も今も。

2020-06-01 | 本棚並べ
平川祐弘著「西洋人の神道観」(河出書房新社・2013年)。
買ってあったのに、読まずにおりました。
この機会に、はじまりの箇所16頁を読んでみる。
さっそく、こんな箇所がある。それは
外地で問われるままに『神道とは何か』について語った
場面を紹介しております。

「相手のフランス人に『貴方は珍しく説明をした。この前来た
日本人もその前来た日本人もフランス語は達者だったが、
なにも説明できず、天皇家の宗教だとしかいわなかった』と
笑われました。その人の表情には自国のことを知らぬ外国人
かぶれの日本人インテリに対する憫笑(びんしょう)のような
なにかが感じられて、私はひっかかるものがありました。

そもそも宗教はそう簡単に口に出して説き明かすことのできる
ものではありません。しかしやはり説明できないのだとすると、
自己の宗教文化がよくわかっておらず、日本人でありながら
外国人であるのと同じような人になっているのかと疑われ
たりもしたのでしょう。

しかしわが国には昔も今も宗教教育の授業は公立学校には
ありませんから、皆が返事に窮するのも無理はないのです。
それに、日常生活をかえりみると、以前に比べて団地の居室には
テレビ棚こそ普及したが、神棚のある家は減りました。
昔は村や町には神社が鎮座(ちんざ)しましたが、
今の団地には遊園地や公民館はあるが、鎮守(ちんじゅ)の森や
お宮や祠(ほこら)があるとはかぎりません。

神さまに対してそんなよそよそしい他人様となってしまった
せいかどうか、外国人が書いたことを基(もと)に私が説明すると、
日仏会館の日本人聴衆の関心がにわかに高まり、そのような
外国経由で日本人が自国の神道について納得するという
パラドクシカルな理解の経路には、21世紀初頭のこの国の
精神状況がはしなくも示唆されている気がします。
 ・・・・・・・

思いもかけぬまわり道をして成り立った本書ですが、
複眼的日本理解とはこのような精神の往復運動を指すのでしょうか。
外国にせよ日本にせよ、心すなおな読者を得ることができるなら、
嬉しいことに存じます。・・・・」(~p4)

はい。わたしは、ここを読んだだけで満腹。

そういえば、と本棚から取り出したのは、
芳賀徹・冨士谷あつ子編の
「京都学を学ぶ人のために」(世界思想社・2002年)。
はい。こちらは古本で200円でした(笑)。

宗教教育の授業は公立学校にはなく、
神棚のある家は減り、団地には鎮守の森や
お宮や祠があるとはかぎらない。

そんな現代の中での、京都を
冨士谷あつ子さんは、本のまえがきで
こうしるしておられました。

「われわれは今、京都について学ぶことが、
現代社会の諸問題を克服し、新しい未来を拓く
ことにつながると考えて、この本を世に送ることとする。
・・・・
旅人が京都の町に降り立つとき、そこには四季の変化の
明確な美しい自然を見いだすであろう。いかにも、この町を
取り囲むのは豊かな自然である。しかし、この町では
人々が自然を畏敬し、自然を暮らしに取り込みながら、
たとえば五山の山腹に文字を刻んで祖霊を送る習わし
に象徴されるように、人々は自然をより美しい姿に変容させ
共存する価値意識を示してきた。すなわち京都は、
恵まれた自然と微妙な共生関係にある、
人為的に構築された町なのである。・・・・」

はい。京都へは行けないのですが、
京都に関係する古本を、これからも買います(笑)。




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