和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

音ヲ楽シム。

2024-02-10 | 詩歌
後藤新平研究会編「震災復興 後藤新平の120日」(藤原書店・2011年)は、
大きな目線での記述のなかに、細部からの引用が生き生きと挟まっています。

たとえば、『帝都復興秘録』から抜き出した引用がありました。
それは、後藤新平の『大風呂敷』を指摘したあとにありました。

「・・・『大風呂敷』を本多静六に広げさせる一方、
 後藤は人心を和らげるために、こんなことも提案したという。
 山本権兵衛首相はこんな逸話を残している。

『 民心安定の為の一方法として、後藤内相は、
  兵に市中を喇叭(らっぱ)を吹き歩かせて貰いたい
  という提議をした・・・・、
  平凡ではあるが大変良い考えと思って、
  早速田中陸相に命じて実行させた。
  ・・・・・・ 余程市民の心を和らげた様に思う。』  」(p40)

たとえば、現在において、こんなことを、やるかやらないか議論した場合に、
人を得なければ、決断する以前に喇叭は吹かれずに終わりそうな気がします。

思い浮かんだのは、筒井清忠著「西條八十」(中公叢書・2005年)でした。
関東大震災の避難の場面でした。そこに西條八十が、絵に描いたように、
『怒り出すのではないかと案じ、止めようとした』判断がありました。

「・・・大混乱の中容易に前へは進めず結局、夜を上野の山で過ごす
 こととなった。深夜、疲労と不安と飢えで、人々は化石のように
 押しだまってしゃがみ、横たわっていた。

 しゃがんでいた八十の隣の少年がポケットからハーモニカをとり出し
 吹き出そうとした。八十は一瞬、周囲の人々が怒り出すのではないか
 と案じ、止めようとしたが少年は吹きはじめた。

『 それは誰も知る平凡なメロディーであった。
  だが吹きかたはなかなか巧者であった。

  と、次いで起った現象。――これが意外だった。
  ハーモニカのメロディーが晩夏の夜の風にはこばれて
  美しく流れ出すと、群集はわたしの危惧したように怒らなかった。

  おとなしく、ジッとそれに耳を澄ませている如くであった。 』

 人々は、ささやき出し、あくびをし、手足をのばし、
 ある者は立ち上って塵を払ったり歩き廻ったりした。・・・ 」(p102)

はい。この文はこれ以上深入りは避けて、
『震災復興 後藤新平の120日』にもどってみると、
明治・大正時代に演歌師として活躍した添田知道(そえだともみち)が
作詞した『復興節』が紹介されておりました。こうあります。

「 下谷で焼け出された添田知道は、惨禍の中で
『 どんな深沈の中でも、人々は音をもとめている、
  ということを知った。音。それは生命の律動。
  ・・・人々は食の飢えもあるが、音にも飢えていたのだ。 』

ということで、引用されている復興節を最後に引用。

   うーちはやけても えどっこの いーきはきえない
   
   みておくれ アラマ オヤマ  たちまちならんだ

   バラックに よーるはねながら おつきさまながめて

   エーゾ エーゾ てーいとふっこう エーゾ エーゾ


「 こうして、『復興節』はたちまち多くの人に歌われ、
  添田は歌詞を追作した。それが
 『 新平さん頼めば エーゾ エーゾ 』である。 」

はい。追作も、きちんと引用しなくちゃね。


  銀座街頭泥の海 種を蒔こうというたも夢よ アラマ オヤマ
  
  帝都復興善後策 道もよくなろ 街もよくなろ
  
  電車も安くなる エーゾ エーゾ

  新平さんに頼めば エーゾ エーゾ
   



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