田村隆一の短い追悼詩があって、引用することに。
桜島 黒田三郎の霊に
きみは
たしか鹿児島の造士館の出身で
城山にすまいがあった
ぼくが
山を見ればその山は桜島であって
はじめてみた桜島は雪がつもっていた
おまえさん
おまえさん また逢おう
東京の下町生れの田村隆一さんが、鹿児島生れの黒田三郎と出会って、
どのような影響があったのか? どうだったのか?
なんて、わかりようがないのですが、
まるで履歴書のように、『きみ』『ぼく』とはじめた詩が
一行空白後『おまえさん おまえさん』と呼びかけてます。
交際の履歴書ならば、空白の間にはさまざま詰め込まれて
しかるべきなのでしょうが、出身から桜島とはじめだけを
とりあげたあとは、一行の空白の空間に押しこめたままに、
次にくるのは、最後の二行の呼びかけとなっておりました。
おいおい。それはないだろう。と思う反面。
語られない、空白空間のブラックボックス。
そこに、反古の詩篇は詰めこまれてるようで、
『言葉なんか覚えるんじゃなかった』と書く
田村隆一の息を吞むような一回きりの気合芸。
「田村隆一の息を吞むような一回きりの気合芸。」
「語られない、空白空間のブラックボックス。
そこに、反古の詩篇は詰めこまれてるようで、」
はい。このご指摘、考えさせられています。
出身地、桜島だけを取り上げて追悼する。
「一行の空白の空間」をとることで削いだ言葉、書かれなかった黒田への思い。
読めば読むほどに、何かしんみりしてきます。
これで充分な追悼の心を感じるからでしょうか…。
文章を書くうえでもいろいろ学ばされます。
コメントありがとうございますその
ここ数日、ブログ更新を怠っていて、
なんだか、ブログの空白を指摘されてるようで、
申し訳ないような気になります。
鶴見俊輔さんの『文間の問題』というのを
あらためてとりだしたくなります。
「 これは文間文法の問題です。
一つの文と文との間を
どういうふうにして飛ぶか・・ 」
はい。私の場合は、飛び越えられずに、
文と文の間に、落っこちるタイプです。
落ちるともう、文をあきらめて、
ついつい、そのまま放置します。
夏は泳ぎ方。文は飛び方。
苦手なままに、夏は過ぎ。
切り替えてこれからは秋。
誰もが飛び方にコツなし。
そうですよね、keiさん。
はい、「コツ」などないように思いますね。
ましてやこの凡人は書いて書いて…。
「息を吞むような一回きりの気合芸」
二度目のコメントありがとうございます。
うん。芭蕉俳句でなら、
言いおおせて何かある。
ということになるのでしょうか。
keiさんや 俳句紐解く 秋まぢか