気になったので、松田哲夫著「編集狂時代」(本の雑誌社・1994年)
をひらいてみる。はい。あとがきには500枚になってしまったことを
「 これだけの枚数を書き続けることができたのは、
ワープロ(パソコン)を使うことができたからです。・・ 」(p347)
と、小沢信男さんが話したと同じ指摘がされておりました。
はい。梅棹忠夫さんのタイプライター打ちからはじまって、
いつのまにか、随分ありがたい世の中になっておりました。
はい。最初から読まずに、パラリとひらいた箇所に
赤瀬川原平さんとのことが、書かれているのでした。
赤瀬川さんの本を、松田さんとふたりで凝って作る。
その反省の言葉がでてくるのでした。
「・・いい本だと、今でもぼくは思っている。
でも、凝りすぎたこともたしかだ。そういえば、
赤瀬川さんの出した本のうちで、ぼくが客観的に
見て名著だと思い、売れた本というのは・・・・
ぼくが編集にかかわっていないものばかりだ。
どうやら、二人の凝り性が複合すると、普通の
読者を排除する方向に走っていきがちなのだろう。」(~p206)
このあとに、南伸坊くんが『ガロ』編集部にいた頃のエピソードが
出てくるのでした。
「毎晩、おそくなるまで、ボク(南伸坊)は会社で仕事をしていたけれども、
それは会社のためではなくて自分のためだった。
ためというより、おもしろいからやっていたのだ。
長井さんは時々、一心不乱みたいに、ボクが机にかじりついて、
髪をふり乱すみたいにして・・・やっていると、
『 南、こらないでいいからナ・・・ 』
と、肩のすっかり抜け切った例の声で言うのだった。」
このあとに、こうあるのでした。
「『手を抜かないように』とか、『もっとていねいに』
という注意ならわかるが、『 凝らないように 』とは
いかにも長井(勝一)さんらしいやと、
その話を聞いて、皆で大笑いした。笑ってからしばらくたって、
『 そうか 』と思った。
『 凝りすぎないこと 』なのだ。これこそ、ぼくのような、
病的に凝ってしまう性癖をもつ編集者にとっては、
ほかの何を忘れても絶対に忘れてはいけない、重要な教えだったのだ。」
( p206 )
松田哲夫著「縁もたけなわ」に、
本の雑誌の目黒考二さんが、五カ月後に終刊した雑誌を出した松田さんを
さそう場面がありました。
「・・『飲みましょう』と誘ってくれた。いろいろ話している時、
『 松田さん、一生懸命やっていたでしょう 』と聞くので、
ぼくは『雑誌は未経験なので、悔いのないように努力した』と答えた。
・・・・すると、
『 雑誌は一生懸命作っちゃだめ。読者が窮屈になるんですよ 』と言う。
その時、目からウロコが落ちるような気がした。 」(p231)
この本に、もう一箇所引用したいところがありますので、
もう少しお付き合いください。それは老人力が語られる箇所でした。
「赤瀬川さんには、物忘れ、固有名詞が消える、『どっこいしょ』と言う、
溜息をつくなどの老化現象が、現われ始めていた。
そこで、『忘れる』談義に花が咲く。
『若い時って、イヤなことをいつまでも覚えててつらかったこともあった』
『記憶力は頑張れば身につくけど、忘れるのは頑張ってできることじゃないね』
・・赤瀬川さんらしい考え方が全面展開される。そこで藤森(照信)さんは、
『老化ってマイナスイメージしかない。思いっきり力強い表現にしちゃおう』
と『 老人力 』という言葉を口にする。・・・・・
『 スポーツの力は筋トレなどでつけていく。
でも、いざチャンス、いざピンチという時には、
コーチや監督が『 肩の力を抜いていけ 』と言う。
あれも同じじゃない 』
・・・そして、老人力のあらたなが解釈が積み重なっていく。 」(p210)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます