『大村はま国語教室』の全集には、付録に資料篇全5巻がついています。
はい。この資料篇には、大村はま先生の、ガリ版刷り通信が、
別に活字印刷し直されることなくガリ版そのままに冊子となってます。
それは、生徒に配布されたままの同じ印刷物が、そのままに読めます。
国語教室通信あり。読書生活通信あり。さまざまありそうです。
とりあえず、読むわけでもなく(笑)、
パラパラとめくっていると、私に、
浮かぶのは梅棹忠夫のことでした。
はい。小山修三氏との話のなかで、
梅棹】 ・・・みな自分が書いたものを残してなかったわけです。
自分でやらなければ、だれも残してくれない。
わたしは中学校のときのものから残っている。
ガリ版やけれど、中学校のときのもあります。
『 そんなん、あたりまえやないか 』と思うんやけれど。
小山】 そう言われると忸怩(じくじ)たるものがある。・・
梅棹】 いつから残ってる?
小山】 それは民博に来て、しばらくたってからです。
だけど手伝いに来た大学院生がまた捨てるんですよ、
『 これは紙ですね 』って。じゃ、どんなものを
残すのかと言うと、たとえば柳田國男全集とか。
梅棹】 まさに権威主義や。 ( p82 )
このすこし前でした。
梅棹】 アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。
小山】 その一枚の紙が、ある機関を創設しようとかっていう
重要な情報だったりするんですな。
梅棹】 だいたい図書館は内容とはちがう。
わたしが情報ということを言い出したのは、
それがある。情報とは中身の話や。・・・・
( p80~81 「梅棹忠夫語る」日経プレミアシリーズ新書・2010年 )
『情報とは中身の話や』『その一枚の紙が・・重要な情報だったりする』
はい。こうして語り合う梅棹忠夫氏なんですが、
それでは、大村はま先生のガリ版刷りの『情報の中身』には、
どのような重要な情報が沁みこまれているのか?
たとえば、教科書。
「教えることの復権」(ちくま新書)の第五章で
大学の先生・苅谷剛彦さんは、こういう切り口で迫ります。
「 普通の教師は、教科書を手がかりに教える。
教科書を教える教師も少なくない。教科書とは、
ほかの誰かが作りだしたカリキュラム(・・学習指導要領)の
反映物だといえる。
そういう教科書で教えるのではなく、
教材を自分で作りだすという実践をするためには、
どういう材料を使えば、生徒はどんな頭のはたらかせ方をするのかを、
自覚的に考えざるを得ない・・・・
教科書を使って教えるという方法に頼りすぎると、
どのような具体的な教育目標が、どのような学習活動によって
実現できるのかを考えるきっかけを失いやすい。
・・・実際には、教科書を使って学習活動を行なえば、
その単元の目的が実現できるという保証はどこにもない。
教科書はそれほど完全なものではない。・・・
そこに、教科書に頼りすぎる授業の限界がある。・・」 (p177~178)
これから、パラパラめくりはじめようとしている
「大村はま国語教室」資料篇では、教科書に安易に、
倚りかからない情報のお宝が隠されているらしい。
はい。どんなお宝か? なんて聞かないで下さい(笑)
まだ、資料篇の各巻は函にはいったそのままです。
『 こいつぁ箱だよ。あんたのほしいヒツジ、その中にいるよ 』
ぶっきらぼうにそういいましたが、
見ると、ぼっちゃんの顔が、ぱっと明るくなったので、
ぼくは、ひどくめんくらいました。
( p16 「星の王子さま」内藤濯訳・岩波少年文庫 )
コメントありがとうございます。
ふむ。ふむ。
これは示唆に富んだ言葉ですね。
私なども高価だった全集とかはおいておこうとしますが、自分の書いたものはすぐに捨ててしまいます。が、後年、自分を振り返ったり歌にしたりするためには、捨ててしまった紙切れとか覚書のほうが役立つし価値がありますから。