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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「人間素描」

2020-07-17 | 京都
本の面白さの指南役、としての鶴見俊輔。
そんなイメージが、鶴見さんにはあります。

さてっと、鶴見俊輔氏が桑原武夫を語って

「学者の肖像として、桑原武夫の文章ほど
おもしろいものを、私は知らない。
学術論文は、
それをつくりだした心の動きを、あとでかくしてしまうので、
のこされた文書から、それをつくった人にさかのぼってゆく
ことはむずかしい。・・・・・・

いつマルクスが輸入されたとか、いつウェーバーが輸入されたとか
いう歴史とは別に、学風の歴史が考えられなくてはならないだろう。
そういう問題をたてる場合、桑原武夫の伝記的な作品は、
地図のない文化の領域を歩くための無上の杖となる。・・・」
 (「桑原武夫全集④」朝日新聞社・解説鶴見俊輔のはじまりの箇所)

さてっと、内藤湖南の単行本を手にしたことがないので、ここは
講談社学術文庫の内藤湖南著「日本文化史研究」(下)の
桑原武夫解説によって内藤湖南への学風を知るよすがとします。

この文庫解説で
「私がこの復刊をよろこぶのは、これが偉大な湖南への最良の
アプローチだと信ずるからだが、それだけでなく、これが
私自身の高校時代からの愛読書だからである。
そして私の日本文化についての考え方、感じ方の基盤は、
湖南からのいつとはなしの影響から生れたような気がする。・・・」

内藤湖南は1866年(慶応2)毛馬内(けまない・秋田県十和田町)に、
南部の支藩桜庭家の家臣の二男として生まれる。幼にして母と兄を失う。

こう年譜を示しながら、桑原氏は指摘します。

「内藤湖南が、維新のさい朝敵となったため、
官僚ないし軍人として出世コースからはずされた南部藩士の
子だったことは、意味があるように思われる。明治・大正の
歴史学界で最も独創的な業績をあげた那珂通世(なかみちよ)、
原勝郎がともに南部藩、湖南を招いた初代の京都大学文科大学長で、
歴史家と見てよい狩野亮吉が大館の出身であることは、
近代日本の詩歌が、石川啄木、宮沢賢治、斎藤茂吉の三東北人
なくしてありえなかったことと対応する。
これらの歴史家には、すべて論理的徹底性と精神における
反ブルジョワ的剛毅さが認められる。」

年譜にもどると
1907年 京大東洋史講師、大学出でなければ孔子様でも
教授にせぬという官僚に妨げられ、教授任命は二年後。
狩野直喜らと協力して、世界におけるシナ学の中心は
北京、パリと京都だと言わしめるに至った。亡命中の
羅振玉、王国維と交わり、富岡鉄斎を知る。

うん。うかうかしていると、桑原武夫解説の全文を
引用しなきゃならなくなるので、あとは最後の方を引用しておわります。


「現代日本を知るためには応仁の乱以後を知れば十分だという
大胆な、しかしよく考えてみれば反駁できぬ『独断』を打ち出した
『応仁の乱について』は、本書中の白眉であって、この乱の意味を
これほどみごとに規定したエッセーは、それまで日本史の専門家
によって書かれてはいなかった。いや、今日に至ってもこれを
超える文章はないのではなかろうか。・・・才とはいわば芸術性であって、
言わんとするところをじゅうぶんに述べることのできる表現力、
さらに文章の喜びをも含ませうるかもしれない。」

こうして「応仁の乱について」に、ちょっと触れております。

「湖南は下剋上とは近ごろの国史家が勘違いしているように、
単に下の者が順々に上を抑えるというような生ぬるいことではない
と言ったあと、『最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する、もっと
烈しい現象を、もっともっと深刻に考えて下剋上といったのであるが、
このことに限らず、日本の歴史家は深刻なことを平凡に理解すること
が歴史家の職務であるように考えているようです』
と胸のすくようなサワリを聞かせてくれる。

時代の代表として一条兼良と山名宗全の二人がたくみに
とり上げられているが、それは個人描写をするためではない。
社会を示す二つの典型としてとらえられているのだ。
兼良を思わせる保守的な高官が事ごとに古い慣例をもち出す
のに腹を立てた宗全が、『例』という文字をこれからは
『時』という文字に読みかえるようにすべきだと言った
象徴的なことばを『塵塚物語』から引用しているところなど、
まさに芸術的感銘を与えるものといっていい。」


「湖南は新聞記者として大阪に住んでいたころ、
奈良、京都の古美術を丹念に見て歩いた。・・・・・・
ここに収めた『日本の肖像画と鎌倉時代』も、
彼の美的洞察の深さを示している。
東洋は山水画においては西洋の追従を許さなかったが、
肖像画においてはその逆である。しかし、その乏しい
東洋の肖像画の傑作として、藤原隆信の作品があるといっている。
平重盛、源頼朝とされる二幅が歴史上の人物をあらわしているか
どうかという点には疑問があるが、最高の作品に間違いはない
というのである。これらの作品は、アンドレ・マルローが激賞して以来
はじめて日本の文化人によって注目されるようになるのだが、
大正9年の湖南のことばを想起する人は少ないのである。・・・」


え~と。筑摩叢書に桑原武夫著「人間素描」があります。
学者からはじまって、いろいろな方が登場し鮮やかな筆致で
楽しめるのですが、その始まりに登場するのが、内藤湖南でした。





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足軽の、ひる強盗。

2020-07-16 | 京都
講談社学術文庫の内藤湖南著「日本文化史研究」(上・下)を
本棚からとりだしてくる。下巻に「応仁の乱について」がある。
ちなみに文庫解説は桑原武夫です。解説のはじまりを引用。

「内藤湖南の名著『日本文化史研究』が読みやすい表記に改められた
普及版として読書界におくられることを心からよろこぶ。
ここに収められたのはすべて講演筆記で、
アカデミックなしかつめらしい構えはないが、
むしろここにこそ内藤学の骨格が最もはっきり
あわられているといえる代表作である。・・・・」

さてっと、講演筆記の「応仁の乱について」は
大正10年8月史学地理学同攻会講演となっております。
そのはじまりの頁に、こうありました。

「・・応仁の乱というものは、日本の歴史にとってよほど大切な
時代であるということだけは間違いのないことであります。

しかもそれは単に
京都におる人がもっとも関係があるというだけでなく、すなわち
京都の町を焼かれ、寺々神社を焼かれたというばかりではありませぬ。
それらはむしろ応仁の乱の関係としてはきわめて小さな事件であります。
応仁の乱の日本の歴史にもっとも大きな関係のあることは
もっとほかにあるのであります。・・・」

はい。このように講演ははじまってゆきます。
いろいろと重要なことがさりげなく語られてゆくのですが、
ここには、『足軽』をピックアップしてみます。

「私はまず応仁の乱というものについて、
若い時分に本を読み、今でも記憶している事について述べます。
 ・・・・・・・
私が始めて読んだときからいつも忘れずにおったことは
『足軽という者長く停止せらるべき事』という一カ条であります。
足軽すなわち武士以下にあるところの歩卒が乱暴するという
ことについて非常に憤慨しているのであります。
 ・・・・・・この応仁の乱のため
この足軽という階級が目立つようになったのです。

 昔より天下の乱るることは侍れど、
 足軽といふことは旧記などにもしるさざる名目也 
  ・・・・・・
 このたびはじめて出来たる足がるは、超過したる悪党なり、
 其故に洛中洛外の諸社、諸寺、五山十刹、公家、門跡の滅亡は
 かれらが所行也。かたきのたて籠たらん所におきては力なし。
 さもなき所々を打やぶり、或は火をかけて財宝を見さぐる事は、
 ひとへにひる強盗といふべし、かかるためしは先代未聞のこと也。

とこう書いてあります。一体応仁の乱に実際京都で戦争があったのは
わずか三、四年の間であります。十年間も続いた乱であると申しましても、
京都に戦争のあったのは三、四年間でありますが、その三、四年間ばかり
の間に洛中洛外の公卿門跡がことごとく焼き払われたのであります。
しかもそれがことごとく足軽の所行でありましたので、そのことが
『樵談治要』に出ているのであります。そして敵の立て籠った所は
仕方がないにしても、そうでもない所を打ち壊しまたは火を掛けて
焼き払い、あるいは財宝を掠め歩くということは偏にひる強盗と
いうべしといっております。そしてこれを取締らないというと政治が
出来んということをいっていますが、これはすなわち貴族階級の人
から見たもっとも痛切な感じであったに違いないのであります。」

 あとに、また引用があります。

「  是はしかしながら武芸のすたるる所に、かかる事は出来れり。
  名ある侍の戦ふべき所を、かれらにぬききせたるゆへなるべし。
  されば随分の人の足軽の一矢に命をおとして、当座の恥辱
  のみならず、末代までの瑕瑾を残せるたぶひもありとぞ聞えし。

ということが書いてあります。その当時の武士というものには
優れたるものがなく、ただ足軽が数が多いか腕っ節が強いか
ということによってむやみに跋扈し、そうして勢いに任せて
乱妨狼藉(らんぼうろうぜき)をしていたのであります。
つまり武士がだんだん修養がなくなって人材が乏しくなり、
そうしていちばん階級の下な修養のない腕っ節の強い者が
勢いを得るようになって来たのであります。それは
一条禅閤兼良なども当時そういう風に感じていたのであります。」

はい。こういう切り口で応仁の乱を掘り下げてゆく講演なのでした。
講演なので読みやすく、一読ハッとしたのですが、重要さに気づかず、
いつか読もうと本棚に眠っておりました。

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時代との、つきあい方。

2020-07-15 | 京都
向井敏著「本のなかの本」(毎日新聞社・1986年)に、
山崎正和著「室町記」が、とりあげられている。

その2頁の紹介文の最後はというと、
「その秘密をあとがきでそっと打ち明けて言う。」と
ことわって、引用しております。
ところで、「山崎正和著作集④変身の美学」に、「室町記」が
入っているのですが、こちらに「あとがき」は入っていない。
うん。それじゃというので、ネットの古本で講談社文庫を注文。
それが届く。「あとがき」の全文をこの機会に読む。
はじまりは、

「『室町記』は、昭和48年の1月から12月まで、『週刊朝日』誌の
グラヴィア頁に52回にわたって連載されたものである。」

とあります。あの頃の週刊朝日は、よかった時代です。
名編集長扇谷正造氏の遺産・威光が生きていた(笑)。

「・・・おりから昭和40年代後半の日本は、
一方では経済的な繁栄を謳いながら、他方では大学紛争に
象徴される世界的な混乱の余波を受けていた。そういう
刺激的な時代の様相が・・・・・・・私にとって、
室町期の芸人や学者や貧乏公卿の暮しを思いやることは、
現代に生きる自分の感情に柔らかな余裕をあたえてくれる経験であった。
彼らはひとりひとり個性的な姿勢で、私に、変り行く時代と
どのようにつきあえばよいかを教えてくれたからである。」

「室町期が普通の日本人に、
ひとつの統一あるイメージを、あたえないことは事実のようである。

おそらく、それは近世以後の日本人が、歴史についてあまりにも
単純な感受性を養って来て、完全な安定期か、それでなければ
完全な乱世しか理解できなくなっていたということであろう。

麻の如く乱れてしかも柔軟な平衡を保ち、
急速に変化しながら極度に伝統的な社会というものを、
私たちはようやく現代にいたって、
理解し得る手がかりを獲たということかもしれない。」

向井敏さんの書評ではで、あとがきから4行の引用でしたが、
ここは、もうすこし、あとがきから引用したくなる私がおります。
この箇所も引用しておかなきゃ(笑)。

「今日の日本の思想状況を眺めていると、最近、国家と社会のあり方
をめぐって、あらためて微妙な選択を迫られているような気がする。

倫理や文化的な価値観がますます多元化するなかで、
それを昏迷退廃と見るか、あるいは、自由な活力の向上と見るかで、
人びとは新しい分岐点に立たされてるようにみえる。

・・・・より稔り多いのは、
過去の具体的な時代を選ぶことによって考えることではなかろうか。
価値観の多元化といっても、それが現実に人間によって生きられた
ときにどんな姿を見せ、どんな幸福と不幸をもたらすかを
観察する方が、百の抽象論よりも有益であるように思われる。・・・・・
 ・・・・・・・
室町時代というモデルを選ぶことは・・・
今や、ひとつの立場の表明になろうとしている・・・
そういう機会を、講談社文庫によってあたえられたことを
喜ぶとともに、編集の労をとられた関山一郎氏に感謝したい。
        1985年新春           著者」


ここまでの引用で、気づいたことがありました。

向井敏さんの書評の最後に(’83・1・23)とあるのに、
講談社文庫に入ったのは、1985年とある。
そうすると、向井さんが引用した「あとがき」と、
文庫本「あとがき」とは、ひょっとすると違っているかもしれない。
そこが気になる。ということで、安い古本の単行本を注文する。
はい。本文は読まない癖してね(笑)。

ちなみに、この昭和60年の講談社文庫の解説は大岡信。


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南禅寺と疏水。

2020-07-14 | 京都
淡交社の「古寺巡礼京都⑫」は南禅寺。
杉森久英(明治45年石川県生れ)氏の文が10頁。
そこから、摘まんで引用。

「京童はむかしから皮肉な人間観察家がそろっていて、
信仰と求道の場である寺院に、それぞれ現世的性格に
応じた綽名をつけた。妙心寺の算盤面(づら)、
大徳寺の茶人面、東福寺の伽藍面等々である。そして、
彼等の判定によると、南禅寺は武家面ということになるらしい。
(ある人は役人面というと、私に教えてくれた。・・・・
封建時代、武士は同時に役人だったから。)いわれてみると、
この寺と役人、もしくは武家とのつながりは、
なみなみならぬものがあったようだ。」

はじまりは、楼門でした。
「この山門がまっすぐ御所の方を向いているということは、
なにか意味ありげである。・・・・・」

はい、興味深い内容なのですが、
このくらいで切り上げて、気になる疏水へとゆきます。

「この寺には・・・門を入って、まっすぐ奥へむかうと、
右手の木立の間に、赤煉瓦を積んだ巨大な城壁のような
ものがみえる。下はアーチになっていて、通り抜けられるが、
上には溝が通っていて、きれいな水が流れている。
いわゆる疏水で、琵琶湖の水を京都へ導くため、
明治21年ごろ築造されたのだそうだ・・・・・
もちろん寺では反対を表明したが・・・・・・・
この対立は今日の高速道路や高層ビルの建設をめぐる
企業や体制側と住民側との争いに似ているが、今日にくらべて
政府権力の格段に強かった明治のことなので、
寺側の抵抗はほとんど功を奏せず、簡単に押し切られて、
疏水は建設された。それが今日まで形をとどめて、
南禅寺風物のひとつになっている。

建設当時は、煉瓦の赤い色もなまなましく、
継ぎ目の漆喰(しっくい)もあざやかで、
おそらく周囲のやわらかな自然と反撥しあって、
異様な空気を醸し出したのだろうが、百年の歳月は
煉瓦の色を褪せさせ、漆喰を風化させ、全体の色調をくすんだ
落着きあるもにして、周囲の木立の中へ融け込ませてしまった。

もっとも、今日南禅寺を訪れる人のほとんどが、
この古代ローマ風の水道を見ても、べつに奇異に感じないのは、
ひとつには、われわれがあまりに多く洋風のものに取り巻かれて
いて、いちいち目くじらを立てていられないからだろう。
京都にしろ奈良にしろ、コンクリートや煉瓦の建造物はあまりにも多く、
・・・・木立ちの中にわずかに見え隠れする灰色の廃墟のような建造物など、
まったく目障りにならないどころか、それなりにふしぎな安定感さえ
漂わせているのである。・・・・」

はい。杉森氏の文は、このテーマを細かく分かりやすく
書き進められておられます。そこからの摘まみ食いの引用で
もうわたしは満腹。

それにしても、京都のビル群が建ちならんだ、
その百年後に、つい思いを馳せてしまいます。


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京都・仁和寺。

2020-07-13 | 京都
行きもしないのに、親しいイメージのある京都・仁和寺。
はい。徒然草と方丈記の両方に、仁和寺は登場しております。
それで、身近さが感じられる。直接出かけたこともないのに(笑)。

淡交社「古寺巡礼京都⑪」は仁和寺(昭和52年)。
古本をひらくと、仁和寺の入場券1枚と、入場の際のパンフレットが
はさんでありました。古本の前の持ち主は、仁和寺へ行ったようです。

さてっと、11頁の文を載せているのは山本健吉氏。
ちなみに、山本健吉氏は明治40年長崎市生まれ。
そのはじまりを楽しく読みました。
こうはじまります。

「私が仁和寺の名を始めて知ったのは、中学生の時分、
国語の教科書によってである。徒然草の仁和寺の法師の
滑稽な話が載っていたからだ。
その次には、やはり中学生の時分、方丈記を読んだ。
そこには大飢餓の時に見せた仁和寺の隆暁法印の
きわだった行為が書かれていた。
上方に生まれ、毎年春には御室の桜を見に行った人
なら知らず、大方の日本人は、私と同じく仁和寺の名を
兼好と長明とによって知ったのではないか。

私の中にある仁和寺のイメージが、まずこの最も人に知られた
二冊の古典にもとづいているのは、はたして偶然であったかどうか、
そこに語られた話は、一方は剽軽(ひょうげ)た人間の失敗譚であり、
他方は厳しい決断を伴う人間行為である。そして、その雙方がどちらも
仁和寺に関連して語られているのは、仁和寺の持つ二つの面を
見せているのではないかと私には思われた。」

はい。こうして、徒然草と方丈記の記述を丁寧に紹介して、
おもむろに、御室桜の時期に訪ねた話につながります。

「仁和寺が京洛の人たちに親しまれるのは、それが花見の名所
だからである。境内には、中門をはいってすぐの左手に、
二百株ばかりも桜の木が植えられていて、お室桜と言って、
京の花見の最後とされていた。そこに茶店が座敷をしつらえていて、
私たちも・・・招ばれて、酒盛に加わった。丈の低い八重桜で、
灌木状に根元から枝は八方にひろがり、花はぼってりとした牡丹桜である。
師が私たちに配られた手拭に、唄が染めてあった。
『はながひくても人が好く』。だからお多福桜という俗名もあるそうだ。
・・・・・」

これから山本健吉氏の紹介は本題へとはいってゆきます。
はい。わたしはここまでで、もう満足。



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実行実践する鴨長明。

2020-07-12 | 京都
堀田善衛著「方丈記私記」(筑摩書房)は
東京大空襲のありさまと重ねながらはじまります。
そのはじまりの方に

「おそらくは私が鴨長明という人を、別して歴史的人物、
歴史上の人物――に違いもないのだが――と思っていない、
あるいは歴史的人物として扱っていない・・・・
彼は、要するにいまも私に近く存在している作家である。
私はそう思っている。・・・」(p30~31)

ちょっと話題をかえて、「いまも私に近く存在している」
ということで思い浮かんだのが、
ドナルド・キーン著「足利義政」(中央公論新社)でした。
京都の東山に建てた山荘へ言及したなかに、

「義政の山荘の中で、二つの建物だけが残存している。
おそらくこの二つの建物の最も意外な特徴は、
室内の造作が我々を驚かせないということであり、
また義政の世界と我々自身の世界を膨大な時の流れが
隔てているという実感を与えないことである。それどころか、
どの部屋も実に見慣れた感じで、ふだん我々が目にする
無数の日本の建物にある部屋とあまりによく似ているので、
それが500年前の部屋であることを忘れてしまいそうになる。」
(P135)

もどって、堀田善衛著「方丈記私記」に
鴨長明の方丈の家を語った箇所が思い浮かびました。

「それにしても、妙な家を考えたものである。
方丈、四畳半、高さは七尺で、組立て式で移動式である。
釘やなんぞのかわりに、材木の継ぎ目には懸金(かけがね)をかけた。
つまりは組立て式、である。車に積んでたったの二台、二両。
こういう桁はずれの家を、彼はおそらく大原でみずから『差図』(設計図)
を引いて考えたものであったろう。いろいろと考え、いろいろな差図を
引いてみて、この組立て方式移動式がよいということになった。
よいということになったものを、実行実践するところに、長明がいる。
考えるだけではない。本質的にこの男は実践者である。

理屈は、いわば後から来る。この方丈記の文体の腰の軽さ、
軽みは、他にもちろん、もっと重要な理由があるにしても、
その一面としては実践者の文体だ、ということがあろう。
無常観の実践者、という背理がそこにある。」(P180)

うん。せっかく引用したので、
もうちょっとつづけておわります。

「『積むところ、わづかに二両、車の力を報(むく)ふほかには、
さらに他の用途いらず。』――車賃を払うことのほかには、
他の費用はまったくいらない。ということは、彼がこの移動式
住宅を日野山に据えつける以前に、最小限のところで一度は、
二輛の牛車に積んで動かしたことがあるということであろう。
大原山から日野山へと、たとえば京郊外の春の日に、牛車二台で
ギイギイとのんびりした音をたてながら、この家の材料を積んで、
その牛車のそばに自らつきそって歩いている。
神主から転向した坊主頭の老長明を想像してみる・・・・

出家、世捨人、隠者というもの、それは内心のこととして
如何なる深く刻み込まれたような思想的、宗教的、文学的問題を
もつにしても、外側からこれを見るとき、必ずやそこに、一抹の、
いや一抹などというにとどまらぬ、一種の滑稽感が身に添っていた
筈である。そんな外面、外見(そとみ)のことなど拘るべきでないと
言う人があるであろうが、如何に世外に出た人といえども、
悲しいかな、と言うべきか、滑稽にも、と言うべきか、
外面、外見の現実を消し去ることは出来ない。」(P181)

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描いたのは海北友松。

2020-07-11 | 京都
水墨画というのでしょうか、
墨絵というのは、どうしても
絵と私との間に、うすい膜がかかっているような
ボンヤリした印象しかありませんでした。ですから、
京都で襖絵の前を通っても、素通りしていただろうなあ。

それが墨絵を見る糸口がどうやら出来ました(笑)。
海北友松(かいほうゆうしょう)から入れば理解できる。
うん。そんな水先案内人と出会いました。
ゴッホを理解するのに、ゴッホの手紙が参考になるように、
墨絵を理解するのにも、案内人の言葉が必要でした(笑)。

秦恒平氏にも、案内人がおりました。
「私の場合、そんな『学問』の極く手はじめに、
よく土居次義先生に連れていただいて建仁寺内を
いろいろ観てまわった。・・・・・奥床しげな寺の内へ
・・・ひっそりと隠れいる沢山の佳い障壁画を、
土居先生は我々不勉強な大学生に実に丹念に
紹介し解説し、鑑賞のための道をつけて下さった。
そのお蔭で、私が建仁寺を書くといえば海北友松だろう、
長谷川等伯や俵屋宗達の話だろうと思う読者もあった
かもしれないほど、私はそんな16,7世紀頃の日本の絵が
好きになってしまい、臆面なく熟さない感想もこの数年間に
沢山書いてきた。」(p76「古寺巡礼京都⑥」建仁寺)

はい。秦恒平氏の本は、もっていないので、ここまで。
バトンを竹山道雄氏つなげてみたいと思います。

うん。絵の紹介はやめて、竹山道雄氏による
海北友松を紹介した箇所のみを引用。

「海北友松は近江源氏の武将の家に生まれ、
少年時代から東福寺に入って禅の修行をし、
絵を元信に学び、梁楷を好んだ。時は戦国の世であり、
・・・このころの武人の生活がいかに一瞬の油断も隙も
ならないものであったかを、われわれはいま西本願寺に
ある飛雲閣に見ることができるし、またもっと時代は下るが
二条陣屋でも見ることができる。こういうところではつねに
襲われる用心をして、家屋を隅から隅まで防衛のために
細心の工夫をしている。そして、この危険な生命を、豪華な
金碧画で飾ったり、幽玄な能を舞ってなぐさめたりした。
・・・・・
友松が41歳のとき、天正元年に、織田信長が浅井長政を
小谷城に滅ぼした。このときに、友松の父海北善右衛門綱親も
自刃したが、友松は東福寺にいたので難をまぬかれた。
このような戦乱の世に生きて、友松は武士であることを願い、
武将に親しくして、自分の芸術にはそれほど重きをおかなかった。
子の友雪が父の肖像を描き、その賛に
『敢てその芸を専らにすることを欲せず、志は武道に在り、
努めて弓馬を学んだ』とあるそうである。
親友の斎藤利三が、山崎の合戦で捕らえられて
粟田口で磔にされたときには、友松は槍をふるって衛兵を追って、
利三の屍をうばって真如堂に葬った。こういう人の絵に
みなぎっている命がけの気合は、このころの時代精神だった。
・・・」(p140・竹山道雄著「京都の一級品」新潮社・昭和40年)

はい。竹山道雄氏は、この文に
「・・描いたのは海北友松である。いまはみな軸にして、
京都博物館にある。博物館だからちょうど展覧の際に
行きあわなければ見ることができないが・・・」(p139)
ともありました。

うん。出かけても見ることができないのならば、
美術集の本でもいいやと思う私がいます(笑)。

講談社の「水墨画の巨匠④」(1994年)が友松でした。
はい。古本で京都博物館開館120周年記念「海北友松」
の持ち重りするカタログ冊子とともに、買いました。

ちなみに、「水墨画の巨匠④」の最後の図版解説に
建仁寺の襖を床と天井とをふくめて取った写真が
掲載されておりました。その竹林七賢図が、忘れられません。
建仁寺の襖絵としては、もう見ることができないからかも
しれないのですが、その部屋のたたずまいと
襖絵とのバランスの中での絵の構図が鮮やかです(p99)。
建仁寺とともに、呼吸しているような襖絵なのでした。
これももう、写真でしか見ることができないのなら、
安い古本の美術書も捨てたものじゃありません。





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昭和10年生れと、建仁寺。

2020-07-10 | 京都
淡交社「古寺巡礼京都」⑥(昭和51年)は、
文は秦恒平。写真は浅野喜市。

秦恒平氏の文は10ページ。
短文ですが、奥が深い。どこから、引用しましょうか。
こんな箇所はどうでしょう。

「境内で遊んだが、界隈の俗人が暮しの中で建仁寺ないし
坊さんと触れあうのは何より托鉢の時だ。三、四人が班をつくって、
『おーおー』と謡うごとく喚ぶごとく、粗衣に素足のわらじばきで
町なかの小路小路を一列に練り歩く。時には独りで家の前に立つ
坊さんもたしかにいた記憶があるが、いずれにせよ建仁寺僧堂の
托鉢行は、朝早の、かんかんと空まで凍てつく季節にひときわ
印象的な風物詩であった。」(p71)

うん。建仁寺の場所はどこか?

「そもそも祇園都踊りで名を売った歌舞練場のあたりも、
正伝永源院から東側も北側も、つまりは祇園花街が
建仁寺北辺を蚕食してきたことは紛れもない。
皇都の禅刹に嚆矢をなした東山建仁寺と、
月は朧ろの東山、祇園の色里とはもう久しく
建仁寺垣一重の隣同士であり・・・・・
祇園ばかりではない。西、鴨川、疎水ぞいには
やはり遊里宮川町があり、川向う四条より北に先斗町
・・・・・・・・かくてまた色不異空、空不異色の世界で
京都はあり、建仁寺界隈はあるのだった。
『建仁寺の学問づら』という寺風には一枚裏にそれだけの
味を隠している。『学問』という二字がふしぎに生きてくる。」

台風の被害という指摘もありました。

「御多分に漏れず明治このかた建仁寺も
だいぶん内証は淋しかったようだ。
塔頭も減ってしまった。台風の被害で
本坊を中心に手痛いめに遭った頃はよくよく
苦しいに違いないと我々の家でさえ噂した。
正伝院と永源院が正伝永源院という一つの塔頭に
まとまった時に、織田有楽斎が造った茶室如庵が
どこやらの富豪に身売りされて大磯へ、昭和46,7年
には犬山の有楽苑に運ばれた、その身売り当時の
面白い話を聴いている。・・・」

うん。最後の方も引用しなくちゃね。

「佳い襖絵や佳いお庭があるからそのお寺が立派
というほどの、妙な錯覚に我々は嵌り過ぎている。
 ・・・・・・
建仁寺をお寺さんとしてふだんに意識し親愛している
祇園界隈の者には、却って・・・襖絵や庭や茶席は従うのものであり、
縁も薄い。一生の内に夢にもそんなたいしたものがあの
『けんねんさん』に秘蔵されているなどと、一度も知らず
気づかない人ばかりが町じゅうに溢れ返るように
建仁寺四囲四方に昨日も明日も暮しているのだ。」

はい。建仁寺を10頁で教えてくれていました。
この秦恒平氏が、昭和10年生まれです。

はい。明日のブログは、海北友松。
建仁寺の芸術へと触手を伸ばします。



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若冲と相国寺。

2020-07-09 | 京都
「古寺巡礼京都」②は、相国寺(淡交社・昭和51年)。
足立巻一氏の文が掲載されておりました。
題して「若冲と大典 相国寺で」。

「早春から初夏にかけて、相国寺の三度の法要に
列席する機会があった。・・・」とはじまります。

芸術家の若冲をとりあげ、興味をそそられました。

「以前、足利義政のことを調べる必要があって相国寺の
墓地をたずねてみると、義政の小ぶりな宝篋印塔は
すぐわかったが、そのすぐ左には藤原定家の五輪塔、
右には若冲のまぎれもない墓がならんでおり、この
奇異な取り合わせにはいささか面喰ったことがある。

あとで聞けば、これら三つの墓は、それぞれ別々の子院の
墓地にあったのが、戦後墓を整理して一か所にまとめたとき、
著名なために三基がならべられたらしい。
若冲の墓は・・・俗臭のない、いい文字である。
裏面にはかなり長文の碑銘が刻まれている。
相国寺第百十三世住職の碩学大典禅師の撰と書である。」

この大典禅師と若冲の関係が、このあとに
語られてゆくのでした。
まあ、私はパラパラとひらいて引用するばかり(笑)。

「若冲がそのころ稀有の、強固きわまる個性の持ち主であった
ことは、その作品を一見すればだれしも疑いのないことである。
・・・・・若冲は狂気と思えるほど自己に忠実であったとともに、
嬰児のような明るさがその面貌にはひろがっていたような気がする。」
(p72)

ここからが、相国寺と若冲との関係深さを味わえるのですが、
ここには、最後の方だけを引用しておわります。

「若冲が寄進した釈迦・普賢・文殊画像と『綵絵』は、
明和六年(1769)相国寺閣懺法に際して方丈で飾られた
という記録がある。稀代の壮観であったにちがいない。
その花も草も軍鶏も小鳥も魚介も、華麗であるだけでなく、
すべて生きているものの表情をあらわしている。・・・
それが三尊画像を中心にいっせいにならべられたとき、
この世に生きるものすべての法悦境とも見えたであろう。

しかしいま、その『綵絵』はすべて相国寺には無い。
明治22年宮中へ献納され、御物となったのである。
それには金一万円が相国寺に下賜された。
献納、下賜といえば体裁はいいが、売ったのである。
相国寺の寺勢は大典の示滅後から下降しはじめ、
それが明治維新以後は極度の財政難となった。
それを当時では莫大な一万円によって切り抜け、
いまの寺地もほぼその金で確保されたという。
若冲は没後、相国寺の危機を救ったということになる。
・・・・献納のとき、三尊画像だけは寺に残された。
わたしが観音懺法で拝した普賢・文殊がそれである。
・・・・・」(p77)

はい。相国寺の写真にまじって、三尊画像も
この本に写真が載っておりました。




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「人生の楽園」。

2020-07-09 | 京都
テレビ番組で、土曜日の夕方に『人生の楽園』。
7月4日はテレビ欄に「貝殻動物」とありました。
一度取り上げられた方々を、コロナ禍のなか
再登場されているような感じでした。
鎌倉海岸で、夫婦して貝殻をひろっている。
それを持ちかえって、家で細目に仕分けして
ストックされております。
その貝殻を接着しながら、動物たちを作り上げる。
それを、表玄関の脇の自家製棚に飾られている。
そんな流れで番組が作られておりました。

そこに、ストックされた貝殻のきれいなこと。
海岸で拾ってくるのですから、貝殻の断片かと
思いきや、きれいな貝殻が選ばれているようです。

はい。さっそく思い浮かんだのは、
先頃買った古本でした。
「古寺巡礼京都」の第一期20冊。
数冊をパラパラめくっていると、
「古寺巡礼京都」の発刊パンフレットが
はさまっておりました。8頁で各巻一枚の
カラー写真もついて、意気込みが感じられるパンフです。
最後のページの下に特約店とあり、そこにハンコで店名が
「音羽堂書店 京都市七条大宮西入」と押されています。

うん。そこで、この古本の持ち主は本を注文したのかもしれません。
そして、全冊が揃って本棚に並べて置いたのかもしれません。
埃をかぶっていないので、扉式の本棚にはいっていたのかも(笑)。

いつかは、開こうと思いながら、忙しくてそのままに本棚に眠っていて、
きれいな貝殻よろしく、ひらいた形跡もない本が、そのまま古本として
出回った。そんなふうに、この古本の来し方をあれこれ想像します。

さて、パンフレットには「刊行のことば」という夢が語られております。
その最後にはこうありました。
「・・・・名所旧跡という、安直な観念をすてて、その深奥にひそむ、
人間真実の発掘のために旅立とうとする。それが『古寺巡礼京都』
20巻の刊行趣旨である。」
そのあとにパンフは、「編集の姿勢」を三つ示しておりました。
うん。率直でステキなので、こちらも引用。

①その門をたたき、名刹の環境に身をおき、
風雪に耐えてのこる、寺域の結構を見る
②草創以来の歴史の声を聴き、そこで人間の
心の旅路のあとを追体験する
③数多い宗教遺産の美の秘密を探り、
その精神造型の根源にある魂のあり方を見る。


はい。貝殻に耳をあてて、潮騒をきくように、
このパンフで予約注文をされた方がいた。
と思ってみるのでした。

ちなみに、書き手も同じだったのかもしれない。
と思うのは、「東寺」に文を書いた司馬遼太郎さんの
そのはじまりに、こんな箇所があるのでした。

「・・・淡交社の白井氏は、上方風の人間批評家で、
それだけに非常なユーモリストだが、町中のホテルの
ロビイで会ったとき、大股をひろげて上体をかしがせながら、
『東寺について書いとくなはれ』とかれがいったとき、
私はこの種の、自分の小説のこと以外の雑事を苦手とする上に、
第一、東寺について何も知らない。しかし断わるよりも何よりも
白井氏のえたいの知れぬ可笑味に気圧されて断わることさえ
阿呆らしさが先立ち(この変な気分は白井氏を知らずにはわかりにくいが)
ついひきうけた。・・・・」

司馬さんひとりじゃなんなので、
「建仁寺」の文を書いた秦恒平氏の文からも、
この箇所を最後に引用。

「第一、今度の淡交社の企画に共感したのは、観光寺院ならぬ
本来の宗教、本来の信仰、本来の修行勤行に即して
京都の寺々を再認識するという一点だった。」(p76)

はい。この20冊シリーズを一冊古本で210円で購入したのは、
つい、海岸できれいな貝殻を拾ったような、そんな気がしてきます。
蛇足ですが、このシリーズは好評だったのか、続編もつづき、
さらに新シリーズとしても出ているようです。
ですが、私はこれで満腹。


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土佐人の明晰性。

2020-07-07 | 京都
司馬遼太郎と安岡章太郎の対談を
本棚から取り出してくる。うん。読み直したかった。
安岡章太郎が『流離譚』を書いた直後の対談です。
こうはじまります。

司馬】 『流離譚』はいい小説でした。ああいうのは、
    何十年に一作というようなものですね。
安岡】 おそれいります。・・・・・・・

  後半には、こんな箇所。

司馬】 ・・・いま一つは、さっき郷士の役割ね。よく言われるんだけど、
薩摩郷士は顔を上へ向けている、土佐郷士は下に向けている、
つまり百姓のために働くんだ、という意識がある。
薩摩郷士は、お家とか城下士がどういうふうに動くか見る。
『流離譚』に出てくる風土というのは、荒っぽく言えばそういうことになる。


うん。そういえば、門田隆将さんは高知出身でした。門田さんの
ジャーナリストの資質は、土佐の風土と関係がありそうですね。

前後があちこちしますが、司馬さんはこうも指摘します。

司馬】 ・・・・よくわからなかったけど、だんだんわかってきたのは、
簡単に言うと土佐には曖昧言葉がないということ。
イエスかノー。これは、土佐人の明晰性と関係があるね。
シンガポールの山下奉文、バーシバルに『イエスかノーか』と言ったでしょう。
あれは同時代でも評判悪かった。旅順開城のとき乃木さんはステッセルに
そんな態度はとらなかったもんだとか非難されたけど、あれは一つは、
土佐ーー山下奉文は土佐人ーーはまず型の文化に敏感でない。
いま一つは土佐弁の特徴なんだ。イエスかノーしかない。

土佐弁がそうであるように、土佐の人間は進退までが明晰すぎるんだよ。
そのために幕末の騒乱でずいぶん死ぬ。・・・・
イエス・ノーの中間発想がないからだ。・・・・・
ぼくにはわからない。わからないけれども、日本では非常に不思議なことだね。

・・・・言語文化というものが乏しいのかといえば、違うんだね。
土佐には昔から名文家が多い。科学者では寺田寅彦がいますね。
末裔には安岡章太郎がいる。とにかく曖昧な文章じゃない。
もっとも安岡の場合は非常にデリケートな文章なんだが・・・。

安岡】 ロジックはありますよ(笑)。

司馬】 ロジックの問題を言ってるんじゃないんだ。
土佐風の明晰さがあるということ。それはね、
近代社会に入るのに、非常に便利がよかった。
憲法の条文一つでも、明晰ですからね。

・・けれども、山内家というのは非常に非文化的な家で、
ただ関ヶ原の勝ちに乗って(土佐へ)きただけだから、
京都文化が入ってない。たとえば土佐はお正月でもお節料理はしない。

安岡】 そう。

司馬】 ・・・・地生えの土佐人いうのはお節料理をしない。
近頃はそうでもなくなったけど、三世代前ぐらいの昔は
お客が来てもお茶を出さなかった・・・・・
お客が来ればお茶を出すのはよその県のことだ。
飲みたくなくてもお茶を出す、これはマナーでしょう。
そういうマナーは、隣りの徳島県にも愛媛県もある。
ところが土佐はない。それは土佐の大きな特徴だし、
幕末に志士を出し、明治になって自由民権の志士を
出すという風土は他県はない。土佐だから出る。

 対談の最後の方には、岩崎弥太郎を語っていました。

司馬】 ・・・・・若いころの岩崎が何かのことで人にくっついて
江戸に行く。江戸いうところは、田舎から出て来たら、
今なら青山か六本木に行ったりするが、
当時は桜田門の近くで大名行列を見る。
あれは加賀様、こちらは井伊様と見物する。
そのときに、岩崎はこんな馬鹿なことをやってる
江戸はいずれ滅びると考えた。つまり、
さっき言った京都文化が土佐には薄くしか来なかったということと、
地下浪人という場所から見ると、江戸城の周辺という、
マナーだけでできあがってる権威ある風土を見せられたときに、
それにいかれてしまうか、逆に反撥するか、どっちかでしょう。
岩﨑というやつは、生半可な商人ではないですね。・・・・・・


 はい。この対談を、はじめて読んだ際に印象に残った箇所が
ありました。せっかくですから、そちらも引用しておくことに。
それは対談の最初の方にありました。


司馬】 ・・・有名な話だけれど、勝海舟がはじめ
洋学の先生のところに行ったら、きみは江戸っ子だから
こういう馬鹿な暗記ものは無理だ、これは根気でやらなきゃ
しょうがない、田舎のやつがいいんだと言われる。
まあそう言わないで教えてくれと言うんですね。・・・
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東寺の御影堂の前で。

2020-07-01 | 京都
グレゴリ青山の「深ぼり京都さんぽ」(集英社インターナショナル)。
この漫画は、たのしくて、何度もひらきたくなります(笑)。

本のはじまりは、東寺からでした。
「今日は京女の友人田中貴子さんと
毎月21日に開かれる東寺の『弘法市』にやってきた」。
と東寺で待ち合わせて、はじまります。

「古寺巡礼京都①東寺」(淡交社・昭和51年)。
ここに、司馬遼太郎の文がありました。
題して、「歴史の充満する境域」。
写真は、浅野喜市。

司馬さんの文の最後には、こうありました。

「私は毎年、暮から正月にかけて京都のホテルですごす
習慣をもっている。訪ねてくるひとに京都のどこかの寺を
そのときの思いつきのままに案内するのだが、
たいてい電話での約束のときに、
 ―――東寺の御影堂の前で待ちましょう。
ということにしている。
京の寺を歩くには、やはり平安京の最古の遺構である
この境内を出発点とするのがふさわしく、また
京都御所などよりもはるかに古い形式の住宅建築である
御影堂を見、その前に立ち、しかるのちに他の場所に移って
ゆくのが、なんとなく京都への礼儀のような気がして、
そういうぐあいに自分をなじませてしまっている。
空海に対する私の中の何事かも、こういう
御影堂へのなじみと無縁でないかもしれない。(昭和51年9月)」

はい。この文はまた
「司馬遼太郎が考えたこと 8」の最後に掲載されておりました。
この文のなかで司馬さんは、こうも書いておりました。

「私は戦後、兵隊から帰ると新聞記者になり、
京都支局で宗教を満六年担当した。
当時、京都のたいていの社寺の神職や僧たちを
知っているつもりでいたが、ただ東寺の僧ばかりは知らない。

東寺の境内には何度足を運んだかわからないが、
一人の僧も知らず、また『空海の風景』を書くにあたっても
何度か足を運んだ。ゆくごとに堂搭を見たり、仏像を仰いだり
するばかりで、この伽藍に住む僧にはついに会っていない。
わがことながら説明もつかず、奇妙というほかない。

真言宗東寺の密教は、天台宗叡山の密教が台蜜と
いわれるのに対し、東蜜といわれた。台蜜と東蜜は、
平安期以後、天皇家の宗旨といってよく、宮廷で病人が出たり、
お産があったり、その他異例のことがおこるとかならず
この両派の僧が加持祈祷をした。最澄の法統はともかく、
さまざまな思想的展開をおこなったが、
東寺における空海の法統のひとびとというのは、
ただそれだけで千年ちかくも終始したかと思うと、
まことに複雑な可笑(おかし)味を感じたりする。

明治後は、
皇室は神道のみになり、密教から離れた。東寺はそれ以後、
精神の昂揚も沸騰も見ることなく、こんにちに至っている。
むろんそれがよくないというわけではない。
僧というのは伽藍を保全し、境内を清めているだけで十分に多忙で、
当人自身も精神がそれで充足するものだということを私は知っている。
妙に娑婆(しゃば)っぽいやり手の僧が出るよりも、
こういう僧伽のふんいきはわれわれ俗人にとって
はるかに清らかさを感じさせる。」(文庫本p461~462)

はい。まだまだ司馬さんの文はつづくのですが、
わたしはこれだけで満腹。

はい。じつは(笑)。この「古寺巡礼京都」第一期全20巻を
つい最近古本で購入しました。
20冊揃いで3000円+送料1200円=4200円。
つまり、一冊が210円。
はい。昭和51年の新刊定価は一冊2800円とあります。
大正3年京都市生まれの浅野喜市。その東寺の写真。
見れてよかった(笑)。




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松田道雄の京都。

2020-06-26 | 京都
松田道雄著「育児の百科」(岩波書店)をひらく。
兄の家にあったものをもってきました。
はい。読むのははじめてです(笑)。

パラリとひらいたのは、
「1歳6カ月から2歳まで」の箇所でした。
うん。引用。

「母親は百科事典のようにこたえるのではなく、
詩人のようにこたえねばならぬ。その状況で、
子どものいってほしがっていることを、簡潔に、
正確に、いいあてることだ・・・。

人間の個性のさまざまは、すでにこの時期からはっきりしている。
音楽の好きな子はラジオやテレビから音楽がきこえてくると、
きき耳をたてる。調子をあわせて、からだをうごかすこともある。
絵をかくことの好きな子は、クレヨンと紙をあたえておくと、
ひとりで何かかいている。本の好きな子は、くいいるように絵本を
みている。運動の好きな子は、そとへでて走ったりとんだりする。
道具をいじることの好きな子は、電気器具をオモチャにしたり、
椅子のネジをまわしてとってしまう。

好きなことをするのは、たのしいのだから、
親はそれをたすけてやるべきである。
音楽の好きな子には、いっしょに歌をうたってやろう。
絵の好きな子には、なるべく大きい紙をあたえよう。
本の好きな子は、本屋へつれていって絵本をえらばせよう。
運動の好きな子には・・・・・
道具の好きな子には・・・・」(単行本p466)


うん。松田道雄は、どんな人だったのか?
谷沢永一氏は、こう対談で指摘されておりました。

「松田道雄という存在それ自体が、私の憧れの的でした。
・・・山っ気のまったくない人です。自分が考えたことを、
ひとつひとつ謙虚な報告書としてまとめて、
『今、ここまで考えました。みなさん、どうでしょう』と、
そっと世に送り出すことを続けた人ですね。

・・・自分のうちに熟していないものがあれば、それはパスする。
熟していなくても、自分として、このレベルでいっぺんものを
書きたいなと思うときに、それを率直に書くのです。・・・」
(p234)

これは、「知的生活の流儀」(PHP研究所・1998年)からの引用。
この本は、谷沢永一・山野博史と二人の対談で、
さまざまな方の本を紹介している一冊でした。
この谷沢さんに答えて、山野さんは

「私は学生時代に、京都の市電や市バスの中で、
ロシア語の医学雑誌なんかを読んでいる松田道雄を
見かけたことが何度もあるのです。
八十代の半ばぐらいの話ですが、その時点での
小児医学の学問の最前線に追いついていくために、
週に十五、六冊の専門誌を読む生活を続けているそうです。

その本代をやはり捻出しなければいけないから、
『育児の百科』を書き、岩波新書で『私は二歳』とか、
『私の読んだ本』とかを書いている。・・・・」

ここに、谷沢さんは、京都学派を持ち出しておりました。

「松田道雄が幸せだったのは、京都学派がいちはやく
彼を包含したことですね。その点、やはり京都学派はえらかった。
桑原武夫をはじめとする京都学派が一致団結して、
松田道雄を同志と考えた。そういう後援者というものが、
この人の精神の支えであり・・・・・」

はい。1908年生まれの、京都の小児科医でした。
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堂本印象の京都。

2020-06-25 | 京都
吉田光邦著「京のちゃあと」(朝日新聞社・昭和51年)は、
最初の51頁が、遠藤正の写真を掲載しており、
その写真だけで私は満腹感を味わえました。

それはそうと、パラパラひらいていると、
アートと題した章に、堂本印象を語ったこんな箇所がありました。
「だが印象は恐らく東京では理解されまい。
遊びの要素をもつ仕事だから。」(p92)

はい。美術には疎い私なので、
堂本印象ってどんな絵を描いているのかも知りません。
とりあえず調べると
堂本印象は明治24年生まれ(1891~1975)。
生涯独身を通したが、兄弟姉妹がおり、
弟の四郎の子息が洋画に転じた堂本尚郎(ひさお)。
とあります。

それはそうと、
木村衣有子著「京都のこころAtoZ」(ポプラ社・2004年)
が古本で200円。さっそく買いました。
なになに、木村衣有子(ゆうこ)さんは1975年生まれ。
まえがきは、こうはじまっておりました。

「私は京都に、8年のあいだ暮らしていた。
はじめてのひとり暮らし、はじめてのアルバイト・・・・
ほとんどの『はじめて』には、京都で遭遇した気がする。

京都の街のスケールは、自転車でぐるりと回れるくらいで、
とても把握しやすかった。そしてその中には、感じが良い
喫茶店から、敷居の高そうな料亭まで、
いろいろなものがおさまっていた。
3年前に、仕事の関係上、東京に居を移した。・・・」


この本は、A~Zまで項目があり、Dは堂本印象でした。
各見開きページのどちらかに、写真が掲載されてます。
さてっと、衣有子さんの堂本印象は

「私は、堂本印象の個人美術館の真向かいにある大学に
4年間通っていた。白い下地に破片のようなレリーフを
いっぱいくっつけた、過剰で奔放な佇まいが私の目には
強烈なものに映り、在学中にはいちどもその門を
くぐったことはなかった。・・・」(p28)

はい。文は2頁であと2頁が写真。それでD章はおわります。
その最後を引用。

「おそるおそる『堂本印象美術館』に入館してみた。
階段の手すり、ドアの把手、ランプシェードに至るまで、
すべて彼がつくったもの。外観のイメージ通りに過剰で
装飾的な、この場所にはやっぱり馴染めず、早々に退館。

持ち帰った美術館のちらしには
『画家としては、ひとつの様式が完成すればすぐに
それを打破し、いつまでもそこに安住せずに、気前よく
それを打ち捨てて次に段階を目指して進まなければならない』
という、本人の文章があった。・・・・・」(p31)

はさまった写真の一枚は、こう説明されておりました。

「岡崎の『京都国立近代美術館』のミュージアム・ショップで、
細い線で描かれた鍵と錠前のイラストがあしらわれた
コースターを見かけた。とても洒落ていた。友達へのお土産にも、
そして自分でも使おうと5,6枚購入した。」
これが堂本印象のデザイン。

もう一枚の写真は、
「大学の、というか美術館の近くの和菓子屋『笹屋守栄(もりえ)』の、
水彩の抽象画をあしらった箱は、和菓子にしてはだいぶハイカラな
雰囲気だと思っていたが、堂本印象の絵だと最近知った。」

さらに衣有子さんはつづけます。

「『東福寺』本堂の堂々たる龍の天井絵も、
彼(堂本印象)が手がけたという。
墨で描かれた凛々しい龍、なんと体長54メートル。」

「ある日、街頭での出張切手販売に足をとめ、
可愛らしいうさぎの切手を買ったら、
またもや堂本印象の作。どれもこれも、
まったく印象がちがう・・・・」

注:切手は「日本画『兎春野に遊ぶ』」で
作品は1938年の作。切手としては1999年発行。

また、吉田光邦さんの言葉が浮かびます。

『だが印象は恐らく東京では理解されまい。
遊びの要素をもつ仕事だから。』


ところで、木村衣有子さんは、
堂本印象美術館を早々に退館してから、
それから、どうしたのだろうなあ。
たとえば、堂本印象回顧展などがあったら、
出かけたのだろうか、どうなのだろう。
気になるなあ。





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そう、京都は海なのかも。

2020-06-24 | 京都
京都のイメージとしての海。
ということで、2冊紹介。

①「ベニシアの京都里山日記」(世界文化社)
②吉田光邦著「京のちゃあと」(朝日新聞社)

①で、ベニシアさんが曽祖伯父、カーゾン卿を語った箇所でした。
ジョージ・ナサニエル・カーゾン卿が、日本に二度訪れている。
最初は1887年(明治20年)に、世界旅行の際に日本に立ち寄る。
当時28歳。二度目は、その五年後・・・。
そのカーゾン卿の本を、ベニシアさんは紹介しております。

「初めて訪れた京都については、こう語っています。
『この街は豊かな緑に包まれており、
その趣のある優雅な姿が山間に浮かんでいます。
夜明けに街全体が白い霧に包まれた時は、
寺院の重厚な黒い屋根が、まるで転覆した巨大な
船が海から浮かび上がってくるかのように見えます。
すると、もやの向こうから寺院の鐘が鳴り…』」(p20)

「このようにカーゾン卿が本の中で書き残したことは、
私が38年前の1971年に初めて京都に到着した日に、
目にし、感じたことと同じでした。」(~p21)


つぎは、②。
②は、1976年に『朝日ジャーナル』に連載されたと
「朝日選書版のあとがき」にあります。
この本文の最後に『よく、妻はいっていた』とある。
そこを引用。

「華やかな落日のあとは、深い闇が京の空をおおう。
町の灯が急にきらめきを増す。はるかな山すその方
にもちらちらとゆれる多くの灯。
小高い位置のわたしの住まいからは、見える灯はいつもまたたく。
盆地の気象の通有性のゆえに。なんだか海を見ているような気がする、
漁り火の見える夜の海みたいと、夜の町を眺めながらよく妻はいっていた。
そう、海かもしれぬ。都市はいっさいを
歴史の彼方に飲みこむ巨大な海に似た存在かもしれぬ。」(p282)

そして、『あとがき』になります。
そのはじまりを、吉田光邦さんはこう書いておりました。

「チャートとは海図である。海図を御存じだろうか。
それは陸地については、海上の船から目標になるような
山、岬、立木などが描かれるにすぎぬ。
そして等高線は海についてはくわしく描かれ。
海中の岩、岩礁のたぐいも細密である。

陸地を精細に描いたマップと、海にくわしいチャート、
・・わたしが描こうとしたのはマップではなかった。・・・」(p283)

吉田光邦さんのいう『そう、海かもしれぬ』。
『いっさいを歴史の彼方に飲みこむ
  巨大な海に似た存在かもしれぬ』という京都。

うん。鮮やかなイメージが湧いてくる気がします。





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